この展覧会の題名は、二つの意味を持っている。
シュールレアリズムの作家たちが、遊びの精神を持っていた、ということと、シュールレアリズムの作品を参考に、見る人も遊び感覚で、アート作品を作ってはどうか、ということの二つだ。
後者のために、会場の1階には、特設スペースが設けられており、自由に絵を書いたり、アート作品を作れるスペースが準備されていた。
会期が、夏休み期間に当たることもあり、子供向けの企画なのだろう。
さて、シュールレアリズムの作家たちは、どのように遊んだのか。
マン・レイが撮影した、代表的な作家たちの肖像写真。ブルトン、ダリ、デュシャン、エルンスト、ダリ、タンギー、そして自らのポートレイト。
遊ぶためには、まず、群れなければならない、ということだろうか。彼らが正然と並んだ集合写真は、ある意味で、シュールレアリズムの活動の本質を写し取っている。
それにしても、彼らが揃って写っている写真は壮観だ。この中に割って入るには、相当の勇気を要する。穏便な日常生活を送るためには、決して近づきたくはない人々だ。
マン・レイの、言葉遊びを巧みに使ったオブジェ。何気ない日常品を使い、同じ言葉の卑猥な意味を連想させる。そして、エルンストによる、コミック紙を利用したコラージュ作品。
いずれも、既成概念の危うさを、簡単なトリックで露呈させる。シュールレアリズムの精神が、実によく現れている作品。
エルンストの作品を参考に、岡上淑子が作成したコラージュ作品の数々。寡聞にも、これまで全くその名前を知らなかった。結婚を期に、故郷の高松に帰るまでの6年間に百以上の作品を制作したという。
マン・レイらの写真と並んで、植田正浩と瑛九の作品も展示されていた。本人たちは、自らをシュールレアリストであるとは語っていなかったようだが、明らかに、同じ遊び心を持っている作品だ。
ダリの反プロトン的聖母被昇天という油絵。お馴染みのガラをモデルにした作品。昇天していくガラがまとっている衣の、細部にいたる細かい繊細な筆使いに圧倒され、しばらくその前から動けなくなってしまった。
エルンストの版画集、博物誌。これは、万人にとっての博物誌ではなく、あくまでエルンスト個人の博物誌。結局のところ、この世界は、あくまでも、個人個人の心の中にしか、存在しないのだ、とあらためて感じさせられる、強烈な作品。
ああ、やっぱり自分は、エルンストが大好きなのだなあ。
最後に、出展リストを見直して気がついたが、およそ200点にも渡る展示作品のほとんどは、日本の各地の美術館が収蔵しているものだった。
この日本という国は、意外にも、シュールレアリズムの国だったのだ。
2013年7月28日日曜日
大妖怪展(三井記念美術館)
今年も暑い夏がやってきた。夏になると、妖怪にまつわる展覧会が、よく開催される。
三井記念美術館で開催されたこの大妖怪展は、妖怪学者として著名な、小松和彦の考え方をベースにして、よく企画された内容の展覧会だった。
室町時代に描かれた、北野天神絵巻 弘安本には、天神様の変容としての、赤い鬼の姿が、はっきりと描かれている。
同じく鎌倉時代の大江山絵詞。日本の妖怪の物語の代表的な酒呑童子の物語を描いているが、いずれも、その姿は、あきらかに仏教美術の影響を受けている。
室町時代から江戸時代にかけての能面の数々。般若、蛇、山姥、狐などなど。
能の謡曲の中では、そうした数々の妖怪たちが、様々なシチュエーションの中で、人間の情念の深さ、その悲しさを演じている。
妖怪絵の中で、とりわけ有名なものが、百鬼夜行絵巻。様々なバージョンの絵巻物が展示されていた。オリジナルは、室町時代に描かれたもの。その後、現代に至るまで、多くの画家たちが、自らのオリジナリティを交えながら、描き続けてきた。
江戸時代に描かれた、道成寺絵巻。蛇に化けた女性が、坊主が逃げ込んだ鐘に巻きついている。上記の2作品より、時代が下っていることもあり、コミカルに表現されていて、怖さは全く感じられない。
江戸時代に空前の妖怪ブームを巻き起こした、鳥山石燕の妖怪本。現代の本屋に並べても、決して遜色のない、その印刷物としての質の高さに驚く。
最後のコーナーは、水木しげるの描いた妖怪絵の数々。百鬼夜行図や、鳥山石燕のイメージをベースに、現代的な味付けを施している。
それにしても、さすが水木しげる。これまで見てきな、様々な妖怪絵と比べても、決して遜色がない。
古代から、中世、近世、そして現代までの、日本人にとっての妖怪像を概観できる展覧会だった。
どうやら、妖怪という存在は、人間という生き物がいる限りは、いつの時代でも、その形を変えて、生き続けてきたようだ。
三井記念美術館で開催されたこの大妖怪展は、妖怪学者として著名な、小松和彦の考え方をベースにして、よく企画された内容の展覧会だった。
室町時代に描かれた、北野天神絵巻 弘安本には、天神様の変容としての、赤い鬼の姿が、はっきりと描かれている。
同じく鎌倉時代の大江山絵詞。日本の妖怪の物語の代表的な酒呑童子の物語を描いているが、いずれも、その姿は、あきらかに仏教美術の影響を受けている。
室町時代から江戸時代にかけての能面の数々。般若、蛇、山姥、狐などなど。
能の謡曲の中では、そうした数々の妖怪たちが、様々なシチュエーションの中で、人間の情念の深さ、その悲しさを演じている。
妖怪絵の中で、とりわけ有名なものが、百鬼夜行絵巻。様々なバージョンの絵巻物が展示されていた。オリジナルは、室町時代に描かれたもの。その後、現代に至るまで、多くの画家たちが、自らのオリジナリティを交えながら、描き続けてきた。
江戸時代に描かれた、道成寺絵巻。蛇に化けた女性が、坊主が逃げ込んだ鐘に巻きついている。上記の2作品より、時代が下っていることもあり、コミカルに表現されていて、怖さは全く感じられない。
江戸時代に空前の妖怪ブームを巻き起こした、鳥山石燕の妖怪本。現代の本屋に並べても、決して遜色のない、その印刷物としての質の高さに驚く。
最後のコーナーは、水木しげるの描いた妖怪絵の数々。百鬼夜行図や、鳥山石燕のイメージをベースに、現代的な味付けを施している。
それにしても、さすが水木しげる。これまで見てきな、様々な妖怪絵と比べても、決して遜色がない。
古代から、中世、近世、そして現代までの、日本人にとっての妖怪像を概観できる展覧会だった。
どうやら、妖怪という存在は、人間という生き物がいる限りは、いつの時代でも、その形を変えて、生き続けてきたようだ。
2013年7月27日土曜日
生誕250周年 谷文晁展(サントリー美術館)
谷文晁は、何とも捉えどころのない画家だ。
最初のコーナーでは、谷文晁が描いた、様々な種類の絵画を提示し、その捉えどころのなさを、強調していた。
細かい描写とカラフルな色合いの南画、墨一色で描かれた山水画、西洋の静物画の模写、伝統的な仏画などなど。
谷文晁は、後に大老となって、寛政の改革に取り組むことになる、松平定信のお抱え絵師となり、その肖像画や、随行先の様々な風景画などを描いた。
その松平定信の命令で、日本全国にある主要な美術品を調べ、それ写し取り、整理して、集古十種、という書物にまとめた。その一部が展示されていたが、その表現は、個性を排除し、対象をただ忠実に書き写している。
日本の数ある芸術家の中で、これほど沢山の芸術作品を目にした人物は、それほどはいなかっただろう。
谷文晁の時代は、18世紀の中頃。江戸時代が始まっておよそ100年がたっており、海外からの影響もあり、江戸を中心とした都市文化が発展していた。谷文晁は、その文化の成熟を、まさに体現するような人物だった。
最後のコーナーでは、谷文晁の交友関係の広さに焦点を当てていた。大阪の文化人のネットワークの中核にいた、木村蒹葭堂や、酒井抱一、大田南畝など、錚々たる人物たちの名前が並んでいる。
自ら画塾を開き、多くの弟子を抱えてもいた。その中には、後に幕末の混乱の中で、悲劇的な死を迎えた、渡辺崋山もいた。
しかし、画家としての谷文晁をみた場合。江戸時代の画家としてみると、これといった強烈な印象を残す作品が、残念ながら、ほとんどない。
どの絵も、技術的には素晴らしい。楼閣山水図や孔雀図などの作品をみると、その細かい筆さばきの正確さに、目を見張る。しかし、何というか、インパクトに欠けている気がする。
谷文晁は、あまりにも恵まれすぎ、あまりにも多くの芸術を知りすぎ、そして、あまりにも技術があり過ぎたのかもしれない。
最初のコーナーでは、谷文晁が描いた、様々な種類の絵画を提示し、その捉えどころのなさを、強調していた。
細かい描写とカラフルな色合いの南画、墨一色で描かれた山水画、西洋の静物画の模写、伝統的な仏画などなど。
谷文晁は、後に大老となって、寛政の改革に取り組むことになる、松平定信のお抱え絵師となり、その肖像画や、随行先の様々な風景画などを描いた。
その松平定信の命令で、日本全国にある主要な美術品を調べ、それ写し取り、整理して、集古十種、という書物にまとめた。その一部が展示されていたが、その表現は、個性を排除し、対象をただ忠実に書き写している。
日本の数ある芸術家の中で、これほど沢山の芸術作品を目にした人物は、それほどはいなかっただろう。
谷文晁の時代は、18世紀の中頃。江戸時代が始まっておよそ100年がたっており、海外からの影響もあり、江戸を中心とした都市文化が発展していた。谷文晁は、その文化の成熟を、まさに体現するような人物だった。
最後のコーナーでは、谷文晁の交友関係の広さに焦点を当てていた。大阪の文化人のネットワークの中核にいた、木村蒹葭堂や、酒井抱一、大田南畝など、錚々たる人物たちの名前が並んでいる。
自ら画塾を開き、多くの弟子を抱えてもいた。その中には、後に幕末の混乱の中で、悲劇的な死を迎えた、渡辺崋山もいた。
しかし、画家としての谷文晁をみた場合。江戸時代の画家としてみると、これといった強烈な印象を残す作品が、残念ながら、ほとんどない。
どの絵も、技術的には素晴らしい。楼閣山水図や孔雀図などの作品をみると、その細かい筆さばきの正確さに、目を見張る。しかし、何というか、インパクトに欠けている気がする。
谷文晁は、あまりにも恵まれすぎ、あまりにも多くの芸術を知りすぎ、そして、あまりにも技術があり過ぎたのかもしれない。
浮世絵 第2期:北斎・広重の登場-ツーリズムの発展(三菱一号館美術館)
東京の三菱一号館美術館で開催されている、浮世絵展の第2期は、北斎と広重を中心とした風景画が展示の中心だった。
まず印象に深く残ったのは、広重の肉筆画。武蔵多満川と箱根二子山。浮世絵とは違い、色はあまり使われておらず、墨の黒、茶色などで、ぼかしを使って描かれている。
少し遠くから眺めた方が、その雰囲気をよく味わえる。近寄ってみると、繊細な筆使いで、細部が描かれている。
広重というと、やはり東海道五十三次に代表される風景画のイメージが強い。会場には、他にも雉や雁、梟や獅子などの動物画の浮世絵も展示されていた。全体の構図、細かい描写には、しばらくその前で、思わず足を止めてしまう。
東海道五十三次の絵師とは、一味違った広重が、そこにはいた。
渓斎英泉の美人東海道と、三代目歌川豊国の役者見立 東海道五十三駅というシリーズの浮世絵。いずれも発想は同じ。大ヒットした、広重の東海道五十三次シリーズにあやかって、それぞれが得意とする、美人画と役者絵を組み合わせたというもの。
背景となっている風景画を見ると、広重や北斎の作品をコピーしている風景もあり、思わず笑ってしまう。
最後の部屋は、国芳の作品がまとめて展示されていた。
美人画、役者絵、風景画、世相を皮肉った動物を使った諷刺画など。国芳の多彩な魅力が爆発しており、それまで見てきた、北斎や広重の作品を忘れてしまうほど、強烈な個性を振りまいていた。
まず印象に深く残ったのは、広重の肉筆画。武蔵多満川と箱根二子山。浮世絵とは違い、色はあまり使われておらず、墨の黒、茶色などで、ぼかしを使って描かれている。
少し遠くから眺めた方が、その雰囲気をよく味わえる。近寄ってみると、繊細な筆使いで、細部が描かれている。
広重というと、やはり東海道五十三次に代表される風景画のイメージが強い。会場には、他にも雉や雁、梟や獅子などの動物画の浮世絵も展示されていた。全体の構図、細かい描写には、しばらくその前で、思わず足を止めてしまう。
東海道五十三次の絵師とは、一味違った広重が、そこにはいた。
渓斎英泉の美人東海道と、三代目歌川豊国の役者見立 東海道五十三駅というシリーズの浮世絵。いずれも発想は同じ。大ヒットした、広重の東海道五十三次シリーズにあやかって、それぞれが得意とする、美人画と役者絵を組み合わせたというもの。
背景となっている風景画を見ると、広重や北斎の作品をコピーしている風景もあり、思わず笑ってしまう。
最後の部屋は、国芳の作品がまとめて展示されていた。
美人画、役者絵、風景画、世相を皮肉った動物を使った諷刺画など。国芳の多彩な魅力が爆発しており、それまで見てきた、北斎や広重の作品を忘れてしまうほど、強烈な個性を振りまいていた。
日本の名蹟 和洋の書の変遷(五島美術館)
書家で古筆の研究者でもある、飯島春敬の春敬記念書道文庫の創立30年を記念した展覧会。
入口付近に、8世紀の正倉院文書の一部が展示されていた。収蔵品の記録のようなもので、果たして名蹟といえるが疑問だが、正倉院文書というだけで、貴重なものなのだろう。
聖徳太子筆と考えられてきた、一字宝塔法華経。実際は、12世紀に書かれた書で、聖徳太子が書いたものではない。やや細長の、繊細な筆使いで書かれており、その雰囲気が、聖徳太子を連想させたのだろう。
小野道風筆の絹地切。個性的な道風の書。一文字一文字が、波打つように書かれており、まるで呪文のように見える。
伝紀貫之筆の3つの高野切。伝藤原行成のこれまた3種の伊予切。いずれも、それぞれタイプの違ったかなの書。
この2組の作品に限らず、出展された作品のほとんどは、伝誰々。その本人が書いたとは、確実には言えないものばかり。
そうした書を愛する人々にとっては、それが真筆かどうかは、それほど重要ではなかった。その書が美しく、名人によって書かれた、と言い伝えられてきたのであれば、その通りに受け取られ、尊ばれてきた。
第2展示室に展示されていた、西行筆と伝えられてきた3つの書。どれも、決して整った綺麗な書ではない、ややぞんざいに書かれている印象だが、それこそまさに、人々が、放浪の詩人、西行に抱いていたイメージだった。
日本の書は、その書き振りや、その文字が表している言葉の意味だけではなく、それを書いた人物のイメージも、その中に表現されている。
入口付近に、8世紀の正倉院文書の一部が展示されていた。収蔵品の記録のようなもので、果たして名蹟といえるが疑問だが、正倉院文書というだけで、貴重なものなのだろう。
聖徳太子筆と考えられてきた、一字宝塔法華経。実際は、12世紀に書かれた書で、聖徳太子が書いたものではない。やや細長の、繊細な筆使いで書かれており、その雰囲気が、聖徳太子を連想させたのだろう。
小野道風筆の絹地切。個性的な道風の書。一文字一文字が、波打つように書かれており、まるで呪文のように見える。
伝紀貫之筆の3つの高野切。伝藤原行成のこれまた3種の伊予切。いずれも、それぞれタイプの違ったかなの書。
この2組の作品に限らず、出展された作品のほとんどは、伝誰々。その本人が書いたとは、確実には言えないものばかり。
そうした書を愛する人々にとっては、それが真筆かどうかは、それほど重要ではなかった。その書が美しく、名人によって書かれた、と言い伝えられてきたのであれば、その通りに受け取られ、尊ばれてきた。
第2展示室に展示されていた、西行筆と伝えられてきた3つの書。どれも、決して整った綺麗な書ではない、ややぞんざいに書かれている印象だが、それこそまさに、人々が、放浪の詩人、西行に抱いていたイメージだった。
日本の書は、その書き振りや、その文字が表している言葉の意味だけではなく、それを書いた人物のイメージも、その中に表現されている。
2013年7月21日日曜日
せいかどう動物園(静嘉堂文庫美術館)
動物にまつわる、焼物や根付などを展示した、静嘉堂文庫美術館で行われた展覧会。夏休みに近いということで、親子連れを意識した企画だった。
絵画ではなく、陶器、香合、根付などの工芸品を中心に構成されているのが、この展覧会の特徴。時代も中国の後漢時代から現代までと多様。
ニワトリ、ウズラ、ガチョウ、カモなどの鳥。ゾウ、ライオン、タヌキ、ネコ、サルなどの獣。チョウ、カマキリ、クモ、セミなどの昆虫。カエル、エビ、アユ、キンギョなどの水辺の生き物などなど。まさに、動物園という名前もおおげさではない。
8世紀に作られた、ウマやラクダの唐三彩の存在感が際立っていた。隣には、そうした動物を縄で曵いている、ソグド人とおぼしき商人の像も立っている。
その一連の唐三彩は、すでにグローバリゼーションされていた8世紀の唐時代に、見ている者を、一気に連れて行ってしまう。
野々村仁清の白いサギの香炉、真っすぐに細い首を伸ばして、鳴いているように、上を向いている白サギを、あまり装飾せず、そのシルエットだけで見事に表現している。
同じく仁清の、色絵法螺貝香炉。地の土色の上に、青、赤、緑の山色で、法螺貝の表面をカラフルに彩っている。
白サギの鳴き声、法螺貝の音と、香合の香り。いずれの作品も、音と匂という2つの違った感覚を組み合わせた、仁清の職人としての感覚が、いかんなく発揮された作品。
1〜3世紀の後漢時代に作成された、緑彩豚舎。文字通り、ブタ小屋と、そこに暮らしているブタが1つの陶器になっている。
人間の生活から出る残飯を食べ、人間の食料にもなるブタは、中国人にとって身近な動物だった。
ブタに限らず、この展覧会に展示されている作品が作成された時代は、表現された動物達は、身近な存在だったに違いない。
現代の都会に生きる人間にとっては、身近な動物といえば、カラス、スズメ、飼い犬、野良猫、くらいになってしまった。
この展覧会の題名を、動物園、と名付けていること時代が、現代における動物と人間の関係について、人間が大きな間違いを犯してるということを、よく表している。
絵画ではなく、陶器、香合、根付などの工芸品を中心に構成されているのが、この展覧会の特徴。時代も中国の後漢時代から現代までと多様。
ニワトリ、ウズラ、ガチョウ、カモなどの鳥。ゾウ、ライオン、タヌキ、ネコ、サルなどの獣。チョウ、カマキリ、クモ、セミなどの昆虫。カエル、エビ、アユ、キンギョなどの水辺の生き物などなど。まさに、動物園という名前もおおげさではない。
8世紀に作られた、ウマやラクダの唐三彩の存在感が際立っていた。隣には、そうした動物を縄で曵いている、ソグド人とおぼしき商人の像も立っている。
その一連の唐三彩は、すでにグローバリゼーションされていた8世紀の唐時代に、見ている者を、一気に連れて行ってしまう。
野々村仁清の白いサギの香炉、真っすぐに細い首を伸ばして、鳴いているように、上を向いている白サギを、あまり装飾せず、そのシルエットだけで見事に表現している。
同じく仁清の、色絵法螺貝香炉。地の土色の上に、青、赤、緑の山色で、法螺貝の表面をカラフルに彩っている。
白サギの鳴き声、法螺貝の音と、香合の香り。いずれの作品も、音と匂という2つの違った感覚を組み合わせた、仁清の職人としての感覚が、いかんなく発揮された作品。
1〜3世紀の後漢時代に作成された、緑彩豚舎。文字通り、ブタ小屋と、そこに暮らしているブタが1つの陶器になっている。
人間の生活から出る残飯を食べ、人間の食料にもなるブタは、中国人にとって身近な動物だった。
ブタに限らず、この展覧会に展示されている作品が作成された時代は、表現された動物達は、身近な存在だったに違いない。
現代の都会に生きる人間にとっては、身近な動物といえば、カラス、スズメ、飼い犬、野良猫、くらいになってしまった。
この展覧会の題名を、動物園、と名付けていること時代が、現代における動物と人間の関係について、人間が大きな間違いを犯してるということを、よく表している。
2013年7月20日土曜日
つきしま かるかや 素朴表現の絵巻と説話画(日本民藝館)
寡聞にも、この2つの絵巻のことは全く知らなかった。
つきしまは、平清盛が福原に都を築いた時に、人柱になった松王にまつわる伝説を描いた絵巻物。16世紀の室町時代に描かれた。
文字通り、その素朴な表現には、これなら自分にも、もっと上手く描けそうだ、と思えてくる。そして同時に、もっと上手くかけるかもしれないが、これほど素朴には描けそうもない、ということにも気がつかされる。
よく見てみると、筆先の細かさに眼を奪われる。色合いも、いろいろな色をつかっている。詞書の文字は、達筆だ。単に、素朴、という言葉だけではすまされない雰囲気を感じる。
もうひとつの、かるかや、という絵巻は、ある親子にまつわる、高野山や善通寺を舞台にした説話物語の絵巻物。こちらも、116世紀の室町時代に描かれた。
素朴さ、ということでいえば、こちらの方がより素朴といえるかもしれない。
考えてみれば、絵巻物に置ける絵は、物語の理解を助ける、というのが第一義であり、その意味が伝われば、上手い下手は問題ではない。
この2つの巻物以外にも、おおくの、素朴な表現の展示品が、館内のあちらこちらに、展示されていた。
16世紀の室町時代に描かれた、雀の発心絵巻。子供を失った雀が、世の中の無情を嘆き、やがって出家するという、御伽草子の外伝の話をものとにしている。
絵はそれほど素朴、といった感じではないが、雀たちが主人公、というのが、ほんわかした雰囲気を醸し出している。
鎌倉時代に書かれた、伝燈大法師位僧明。様々なお呪いの言葉を、絵入りで書き記したもの。絵と言うよりも、記号のような、眼の形や顔の形が、今風に言えば、きもかわゆく、描かれている。
現代のアートや、漫画においても、素朴に描かれているキャラクターなどはお馴染みだが、こうした絵巻物の作品などを見ると、ある意味で、伝統に根ざしているとも言える。
狩野派に代表される、洗練された、上流階級向けの美しい絵画の伝統とは別に、こうした素朴な、民衆に寄り添った絵画の伝統は、これからも生き続けていくに違いない。
つきしまは、平清盛が福原に都を築いた時に、人柱になった松王にまつわる伝説を描いた絵巻物。16世紀の室町時代に描かれた。
文字通り、その素朴な表現には、これなら自分にも、もっと上手く描けそうだ、と思えてくる。そして同時に、もっと上手くかけるかもしれないが、これほど素朴には描けそうもない、ということにも気がつかされる。
よく見てみると、筆先の細かさに眼を奪われる。色合いも、いろいろな色をつかっている。詞書の文字は、達筆だ。単に、素朴、という言葉だけではすまされない雰囲気を感じる。
もうひとつの、かるかや、という絵巻は、ある親子にまつわる、高野山や善通寺を舞台にした説話物語の絵巻物。こちらも、116世紀の室町時代に描かれた。
素朴さ、ということでいえば、こちらの方がより素朴といえるかもしれない。
考えてみれば、絵巻物に置ける絵は、物語の理解を助ける、というのが第一義であり、その意味が伝われば、上手い下手は問題ではない。
この2つの巻物以外にも、おおくの、素朴な表現の展示品が、館内のあちらこちらに、展示されていた。
16世紀の室町時代に描かれた、雀の発心絵巻。子供を失った雀が、世の中の無情を嘆き、やがって出家するという、御伽草子の外伝の話をものとにしている。
絵はそれほど素朴、といった感じではないが、雀たちが主人公、というのが、ほんわかした雰囲気を醸し出している。
鎌倉時代に書かれた、伝燈大法師位僧明。様々なお呪いの言葉を、絵入りで書き記したもの。絵と言うよりも、記号のような、眼の形や顔の形が、今風に言えば、きもかわゆく、描かれている。
現代のアートや、漫画においても、素朴に描かれているキャラクターなどはお馴染みだが、こうした絵巻物の作品などを見ると、ある意味で、伝統に根ざしているとも言える。
狩野派に代表される、洗練された、上流階級向けの美しい絵画の伝統とは別に、こうした素朴な、民衆に寄り添った絵画の伝統は、これからも生き続けていくに違いない。
特別展 生誕140周年記念 川合玉堂(山種美術館)
広尾の山種美術館で、特別展 生誕140周年記念 川合玉堂、が開催された。
山種美術館の収蔵作品を中心に、その生涯のほとんどすべてをカバーする作品が、多数展示された。
10代から20代にかけての写生帖。人物のスケッチや、江戸時代に書かれた京都の円山四条派の作品の模写など、いろいろなものが描かれている。
その頃には、すでに画家としての技術的な基礎は、完全にマスターされてるように見える。
川合玉堂は、はじめ京都の円山四条派に属していたが、橋本雅邦の絵に出会って衝撃を受け、その画風を変えていった。その後、日本美術院の創設にも関わっていく。
川合玉堂という名前を聞くと、すぐに思い浮かべるのは、細かい筆さばきと、淡い色調で描かれた、のどかな、典型的な日本の農村のイメージだが、そうした絵は、1930年代以降、本人が50才を越えてから描かれるようになった。
それらの作品には、水墨の山水画、円山応挙の細かい筆さばき、ヨーロッパの印象派などの風景画の構図など、川合玉堂が吸収したすべての要素が、少しづつ含まれているように見える。
朝晴、雨後山月、湖畔暮雪、残照、遠雷麦秋・・・。作品の名前を思い浮かべるだけで、絵の雰囲気が蘇ってくる。
絵の中には、山や畑、海の風景だけではなく、朝もや、雨の中で湿気を含んだ空気、山の遠くを見えなくする霞など、対象として描くのが困難なものが、見事に描かれている。
川合玉堂は、訪れた旅先の旅館や、知人達には、自ら描いた絵を、よく贈呈していたという。しかし、その名が広く知られるようになってからは、絵を描くこと以外の活動に多くの時間を割かれるようになった。
本人は、そのことをひどく憂いて、もっと時間があれば、もっと多くの人に、絵を書いてあげられるのに、と語っていたという。
そこにあるのは、日本絵画の巨匠の姿ではなく、何よりも絵を描くことが好きな、一人の少年の姿だ。
この国は、川合玉堂という画家を持ったことを、誇りに思っていい。玉堂が描いたものこそ、日本という存在そのものであるのだから。
山種美術館の収蔵作品を中心に、その生涯のほとんどすべてをカバーする作品が、多数展示された。
10代から20代にかけての写生帖。人物のスケッチや、江戸時代に書かれた京都の円山四条派の作品の模写など、いろいろなものが描かれている。
その頃には、すでに画家としての技術的な基礎は、完全にマスターされてるように見える。
川合玉堂は、はじめ京都の円山四条派に属していたが、橋本雅邦の絵に出会って衝撃を受け、その画風を変えていった。その後、日本美術院の創設にも関わっていく。
川合玉堂という名前を聞くと、すぐに思い浮かべるのは、細かい筆さばきと、淡い色調で描かれた、のどかな、典型的な日本の農村のイメージだが、そうした絵は、1930年代以降、本人が50才を越えてから描かれるようになった。
それらの作品には、水墨の山水画、円山応挙の細かい筆さばき、ヨーロッパの印象派などの風景画の構図など、川合玉堂が吸収したすべての要素が、少しづつ含まれているように見える。
朝晴、雨後山月、湖畔暮雪、残照、遠雷麦秋・・・。作品の名前を思い浮かべるだけで、絵の雰囲気が蘇ってくる。
絵の中には、山や畑、海の風景だけではなく、朝もや、雨の中で湿気を含んだ空気、山の遠くを見えなくする霞など、対象として描くのが困難なものが、見事に描かれている。
川合玉堂は、訪れた旅先の旅館や、知人達には、自ら描いた絵を、よく贈呈していたという。しかし、その名が広く知られるようになってからは、絵を描くこと以外の活動に多くの時間を割かれるようになった。
本人は、そのことをひどく憂いて、もっと時間があれば、もっと多くの人に、絵を書いてあげられるのに、と語っていたという。
そこにあるのは、日本絵画の巨匠の姿ではなく、何よりも絵を描くことが好きな、一人の少年の姿だ。
この国は、川合玉堂という画家を持ったことを、誇りに思っていい。玉堂が描いたものこそ、日本という存在そのものであるのだから。
2013年7月7日日曜日
夏目漱石の美術世界(東京藝術大学大学美術館)
夏目漱石の作品には、洋の東西を問わず、数多くの美術作品が登場する。そうした作品や、関連作を展示するという、ユニークな企画展が開催された。
漱石は、明治時代にロンドンに留学したが、当時のヨーロッパは世紀末芸術が盛んで、イギリスではラファエロ前派が活躍していた。
『草枕』という小説は、一人の若い画家が、理想の絵を描くことを求めて奮闘する、というこの展覧会にピッタリの内容。エヴァレット・ミレイのオフェーリアの絵も、作品に登場する。
漱石の死後、松岡映丘らが中心となって、その『草枕』の作品世界を何枚かの絵に仕立てた。その内の何枚かが、展示されていた。
漱石が見た作品が、『草枕』を生み出し、その『草枕』がそうした絵を生み出した。不思議な美術世界の連鎖を目の当りにした。
会場には、漱石の小説と、その小説に登場する作品そのもの、あるいはそれと想像される絵画が、漱石の小説の文章とともに展示されていた。
いかに、漱石の文学世界に、多くの芸術作品が取り込まれていたのかが、よくわかる。
小説に絵画を登場させ、読者にあるイメージを説明するのは、ある意味では小説家の怠慢とも言える。あるいは、漱石は、文章で伝えられることの限界を十分に知った上で、そうした技法を取ったのかもしれない。
漱石の作品の出版には、当時の多くの画家が装丁や挿絵を担当した。『吾輩は猫である』などの、美しい装丁の当時の本が、多数展示されていた。
美術作品と漱石の繋がりは、作品の中だけではなく、そうした外面にもよく表れている。
漱石は、宝生流の能を学んでいたようで、謡の稽古を生涯にわたり受けていたという。
また、書や文人画もよく書いた。会場には、いくつかの作品が展示されていた。今日から見ると、素人の域を超えているように見える。しかし、明治の上流階級の中では、そうしたことは、決して珍しくはなかっただろう。
漱石は、芸術について、それはあくまでも自己表現であり、他人や世間への影響は、意識されるべき物ではない、と書いている。それは、他人の芸術作品は勿論のこと、自分の小説のことも意識して書いたに、違いない。
漱石は、明治時代にロンドンに留学したが、当時のヨーロッパは世紀末芸術が盛んで、イギリスではラファエロ前派が活躍していた。
『草枕』という小説は、一人の若い画家が、理想の絵を描くことを求めて奮闘する、というこの展覧会にピッタリの内容。エヴァレット・ミレイのオフェーリアの絵も、作品に登場する。
漱石の死後、松岡映丘らが中心となって、その『草枕』の作品世界を何枚かの絵に仕立てた。その内の何枚かが、展示されていた。
漱石が見た作品が、『草枕』を生み出し、その『草枕』がそうした絵を生み出した。不思議な美術世界の連鎖を目の当りにした。
会場には、漱石の小説と、その小説に登場する作品そのもの、あるいはそれと想像される絵画が、漱石の小説の文章とともに展示されていた。
いかに、漱石の文学世界に、多くの芸術作品が取り込まれていたのかが、よくわかる。
小説に絵画を登場させ、読者にあるイメージを説明するのは、ある意味では小説家の怠慢とも言える。あるいは、漱石は、文章で伝えられることの限界を十分に知った上で、そうした技法を取ったのかもしれない。
漱石の作品の出版には、当時の多くの画家が装丁や挿絵を担当した。『吾輩は猫である』などの、美しい装丁の当時の本が、多数展示されていた。
美術作品と漱石の繋がりは、作品の中だけではなく、そうした外面にもよく表れている。
漱石は、宝生流の能を学んでいたようで、謡の稽古を生涯にわたり受けていたという。
また、書や文人画もよく書いた。会場には、いくつかの作品が展示されていた。今日から見ると、素人の域を超えているように見える。しかし、明治の上流階級の中では、そうしたことは、決して珍しくはなかっただろう。
漱石は、芸術について、それはあくまでも自己表現であり、他人や世間への影響は、意識されるべき物ではない、と書いている。それは、他人の芸術作品は勿論のこと、自分の小説のことも意識して書いたに、違いない。
2013年7月6日土曜日
やきものが好き、浮世絵も好き(根津美術館)
不思議な名前の展覧会だ。
根津美術館で開催された、この奇妙な名前の企画展は、山口県立萩美術館・浦上記念館の収蔵品を紹介するという企画。
この記念館のコレクションが、やきものと浮世絵が中心であるので、そのような名前になったのだろう。
しかし、会場に足を踏み入れたとたん、そうした奇妙な感じを忘れさせるほど、そのコレクション見事さに、唸ってしまった。
まずは、中国の陶磁器。紀元前3000年代の古代中国から、明代の景徳鎮にいたる、中国のやきものの歴史を概観できる。
紀元前3,300年頃のものと推定できる、底が尖った壷は、まるで、古代ギリシャのアンフォラの壷そっくり。
3世紀の西晋時代、越州窯で作られた大振りの壷。口の周りに、沢山の鳥が装飾されている。日本では、まだ卑弥呼の時代。
鮮やかな唐三彩の数々。唐という空前絶後な世界帝国の華やかさを、今に伝えている。
明代に景徳鎮で焼かれた白磁。珍しく緑色の彩色で、竜が鮮やかに白磁の上を泳いでいる。
続いては、朝鮮の陶器。
数点の高麗青磁。しばらく、その前を離れることができなかった。
翡翠のような緑色の地の上に、繊細な線で描かれた草花や鳥たち。その美しさは、文字通り、奇跡と言っていい。
最後は、浮世絵のコーナー。
奥村政信、鈴木春信、歌麿、写楽、鳥居清長、歌川国政、北斎、広重など、まさに、浮世絵の歴史を辿ることができた。
根津美術館で開催された、この奇妙な名前の企画展は、山口県立萩美術館・浦上記念館の収蔵品を紹介するという企画。
この記念館のコレクションが、やきものと浮世絵が中心であるので、そのような名前になったのだろう。
しかし、会場に足を踏み入れたとたん、そうした奇妙な感じを忘れさせるほど、そのコレクション見事さに、唸ってしまった。
まずは、中国の陶磁器。紀元前3000年代の古代中国から、明代の景徳鎮にいたる、中国のやきものの歴史を概観できる。
紀元前3,300年頃のものと推定できる、底が尖った壷は、まるで、古代ギリシャのアンフォラの壷そっくり。
3世紀の西晋時代、越州窯で作られた大振りの壷。口の周りに、沢山の鳥が装飾されている。日本では、まだ卑弥呼の時代。
鮮やかな唐三彩の数々。唐という空前絶後な世界帝国の華やかさを、今に伝えている。
明代に景徳鎮で焼かれた白磁。珍しく緑色の彩色で、竜が鮮やかに白磁の上を泳いでいる。
続いては、朝鮮の陶器。
数点の高麗青磁。しばらく、その前を離れることができなかった。
翡翠のような緑色の地の上に、繊細な線で描かれた草花や鳥たち。その美しさは、文字通り、奇跡と言っていい。
最後は、浮世絵のコーナー。
奥村政信、鈴木春信、歌麿、写楽、鳥居清長、歌川国政、北斎、広重など、まさに、浮世絵の歴史を辿ることができた。
浮世絵 第1期:浮世絵の黄金期−江戸のグラビア(三菱一号館美術館)
東京の三菱一号館美術館で開催された、浮世絵 Floating World 珠玉の斎藤コレクション、という企画展。
およそ3ヶ月の開催期間を3期に分けて、すべての作品を展示替えするという、野心的な取組で、浮世絵の全体像を紹介していた。
その第1期のテーマは、浮世絵の黄金期−江戸のグラビア。菱川師宣、鈴木春信らの浮世絵の誕生期から、歌麿、北斎、写楽、豊国など最盛期の作品まで、浮世絵の入門的な内容だった。
鈴木春信の美人画。顔の表情ではなく、着物や背景で女性の個性を表現する。一度見たら、二度と忘れられない、その強烈な女性のイメージ。少女の面影を残し、男性から見た女性の軽さ、冷たさ、を併せ持っていて、それでいて何とも言えず美しい。
歌麿といえば、大首の美人画が有名だが、珍しい、蚕から着物を織るまでの過程が、横長の画面に描かれた、珍しい浮世絵が展示されていた。勿論のこと、職人はすべて、美人たち。目を楽しませながら、知識を得ることができる、といったところか。
歌川豊国が、全国の各地にある玉川の景色を背景に、ぞれぞれ一人づつの役者を全身で描いた12枚つづきの作品。
豊国の絵の上手さもさることながら、ユニークな企画の勝利でもある。浮世絵が、版元、絵師、刷り師などの共同作業から成り立っている、ということがよくわかる。
所々に、ロートレックの版画が飾られていた。日本の浮世絵が、ヨーロッパに与えた影響を、文字通り、一目で実感できた。
残念だったことは、会場のあちらこちらに、スペースが散見されたこと。
3期に分けて、すべて総展示替えするということで、そうなってしまったのかもしれないが、全期間を通じて、一度しか訪れない人は、総展示替えせずに、どんな作品でもいいから、並べて欲しい、と思ってしまうだろう。
およそ3ヶ月の開催期間を3期に分けて、すべての作品を展示替えするという、野心的な取組で、浮世絵の全体像を紹介していた。
その第1期のテーマは、浮世絵の黄金期−江戸のグラビア。菱川師宣、鈴木春信らの浮世絵の誕生期から、歌麿、北斎、写楽、豊国など最盛期の作品まで、浮世絵の入門的な内容だった。
鈴木春信の美人画。顔の表情ではなく、着物や背景で女性の個性を表現する。一度見たら、二度と忘れられない、その強烈な女性のイメージ。少女の面影を残し、男性から見た女性の軽さ、冷たさ、を併せ持っていて、それでいて何とも言えず美しい。
歌麿といえば、大首の美人画が有名だが、珍しい、蚕から着物を織るまでの過程が、横長の画面に描かれた、珍しい浮世絵が展示されていた。勿論のこと、職人はすべて、美人たち。目を楽しませながら、知識を得ることができる、といったところか。
歌川豊国が、全国の各地にある玉川の景色を背景に、ぞれぞれ一人づつの役者を全身で描いた12枚つづきの作品。
豊国の絵の上手さもさることながら、ユニークな企画の勝利でもある。浮世絵が、版元、絵師、刷り師などの共同作業から成り立っている、ということがよくわかる。
所々に、ロートレックの版画が飾られていた。日本の浮世絵が、ヨーロッパに与えた影響を、文字通り、一目で実感できた。
残念だったことは、会場のあちらこちらに、スペースが散見されたこと。
3期に分けて、すべて総展示替えするということで、そうなってしまったのかもしれないが、全期間を通じて、一度しか訪れない人は、総展示替えせずに、どんな作品でもいいから、並べて欲しい、と思ってしまうだろう。
日本の書展(新国立美術館)
日本の書の各流派が、その垣根を超えて集結する、という日本の書展。新国立美術館の1階の半分ほどのスペースを使い、出展数は、1,500を超えていた。
書については、ほとんどといってほど、覚えがなく、その分、純粋に、様々な書の形を楽しむことができた。
草書、行書、楷書、といった言葉を当てはめながら、ブラブラと会場を回ったが、その多様さには、改めて、驚かされた。
鮮やかな色の色紙の上に書いた書。一字だけを、紙いっぱいに書いた書。わざと墨をぼかして書いた書。
法華経を巻物に書いたもの。古今和歌集や万葉集の歌を、巻物に、漢字あるいはかなで書いたもの。
定規で測ったように、上下真っ直ぐに書いたもの。自然と左に傾いてしまったもの。
明らかに、先人を真似したものもあれば、個性的な筆さばきを誇るものもある。
文字を組み合わせて絵のように仕立て、水墨画のように書いたもの。
文字は、始めは特別なもので、重要な記録などを記するために使われた。文字を書くということは、限られた人にだけ可能だった。文字を書け、読める人は、その時代のエリートだった。
現代のように、個人のプライベートな事柄を、文字を使って表す、などということは、そうした時代にあっては、考えられなれないことだった。
これほど多くの書が、その書いた人々の個性を表しながら、ただ展示される、ということ自体が、文字を取り巻く現代という時代の特徴を、よく表している。
書については、ほとんどといってほど、覚えがなく、その分、純粋に、様々な書の形を楽しむことができた。
草書、行書、楷書、といった言葉を当てはめながら、ブラブラと会場を回ったが、その多様さには、改めて、驚かされた。
鮮やかな色の色紙の上に書いた書。一字だけを、紙いっぱいに書いた書。わざと墨をぼかして書いた書。
法華経を巻物に書いたもの。古今和歌集や万葉集の歌を、巻物に、漢字あるいはかなで書いたもの。
定規で測ったように、上下真っ直ぐに書いたもの。自然と左に傾いてしまったもの。
明らかに、先人を真似したものもあれば、個性的な筆さばきを誇るものもある。
文字を組み合わせて絵のように仕立て、水墨画のように書いたもの。
文字は、始めは特別なもので、重要な記録などを記するために使われた。文字を書くということは、限られた人にだけ可能だった。文字を書け、読める人は、その時代のエリートだった。
現代のように、個人のプライベートな事柄を、文字を使って表す、などということは、そうした時代にあっては、考えられなれないことだった。
これほど多くの書が、その書いた人々の個性を表しながら、ただ展示される、ということ自体が、文字を取り巻く現代という時代の特徴を、よく表している。
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