愛知県美術館が収蔵する、クリムトの”人生は戦いなり(黄金の騎士)”を中心に、クリムトの生涯を、世紀末ウィーン芸術のコンテキストの中に位置付けた、宇都宮美術館での展覧会。
20才前後、1880年頃のクリムトの油絵の小品やデッサン。人物像や風景画など。まだ自分の画風を模索している時期で、後年の、エロスを漂わせる妖艶な女性像は、そこには見られない。
クリムトは、30才頃から、クノップフや前ラファエロ派の影響を受けながら、独自の絵画世界を作り上げていった。
ウィーン分離派展のポスター。第1回目はクリムト自身が担当し、その後は、アルフレート・ロラーらが担当した。その斬新なデザインは、今日でも決して古くない。
ウィーン分離派という芸術活動が、決して絵画だけに止まるものではなく、デザインや工芸も含めた、総合芸術運動だった、ということが、それらのポスターからもうかがえる。
マッキントッシュの有名な、背もたれの長いイスが展示されていた。どうしてマッキントッシュがここに?
マッキントッシュのイスは、分離派展に展示され、ウィーン分離派のデザイナー達に大きな影響を与えたという。世紀末のヨーロッパに共通して流れていた、時代精神のようなものが感じられる。
そして、この展覧会の目玉である、”人生は戦いなり(黄金の騎士)”。黒い馬に、黄金の鎧をまとった騎士がまたがり、直立不動のポーズを取っている。森をイメージさせる背景の緑色の中にも、たくさんの金粉がちりばめれている。
クリムトは、この絵を描いたとき、自らの絵が発表のたびにスキャンダルを巻き起こす、という状況に置かれていた。この騎士は、そうした時代に立ち向かおうとする、自分自身を描いた、と言われている。
この絵は、はじめて実業家であった、哲学者のヴィットゲンシュタインの父親が所有していたという。愛知美術館は、トヨタ自動車からの寄付金で、この絵をおよそ17億円で購入した。
ヨーゼフ・ホフマンらが主導したウィーン工房。後半は、そのウィーン工房の家具や食器などのインテリア作品が数多く展示されていた。
ホフマンのデザインによる、シンプルだが細かい部分に装飾を加えたイス、バウハウスを思わせる斬新なテーブルウェアなど。
クリムトは、ウィーン工房と共同で、部屋の内装をその金ピカの煌びやかな絵で飾った。
”ストックレー・フリーズ”は、そうした作品の一つ。ウィーンの実業家ストックレーのためにウィーン工房が建てた邸宅の食堂の壁を飾っていた。会場には、原寸大のコピーのパネルが展示されていた。世界中で、最も美しい食堂の一つだろう。
その横に長い絵は、琳派に代表される、日本の屏風絵を参考にした、といわれている。
会場には、その琳派の屏風絵や、日本から大量に輸出され、ヨーロッパ中にひろまったといわれる、衣料品に絵柄をプリントする、型紙などが展示されていた。
クリムトは、1918年1月に自宅で倒れたまま、死亡した。その時期は、奇しくも、第1次世界大戦の終わりと重なっている。
クリムトの死は、一人の芸術家の死、というものを越えて、多きな一つの時代の終わりを象徴している。
2013年6月15日土曜日
2013年6月9日日曜日
ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア(Bunkamuraザ・ミュージアム)
ルベーンスの、大きな影響を受けたイタリアへの旅と、その後、帰国してから始めたアントループの工房での活動に焦点をあてた展覧会。
ルーベンスは、1600年から1608年まで、イタリアのマントヴァ公のゴンザーガ家の宮廷画家を務め、その間に、イタリア中の様々な芸術作品に触れ、大きな影響を受けた。
”ロムルスとレムスの発見”は、1612年頃、イタリアから帰国してから書かれた作品だが、ローマのある枢機卿の注文で製作された。帰国後も、イタリアとの関係はずっと続いていた。この展覧会での唯一の大作で、ローマの建国神話を描いたもの。
帰国したルーベンスは、アントワープにイタリア風の建物の工房を建て、本格的に活動を開始した。弟子には、徹底的に自分の技法を真似させ、多くの絵画を大量に製作するシステムを作り上げた。
ベラスケスの仕えた、スペインのフェリペ4世は、ルーベンスの大ファンだった。そのフェリペ4世の注文による連作のための油彩スケッチ6点。
30cm四方の小さな作品。素早いタッチで、全体の構図、人物の動き、色合いなどを描いている。ルーベンスの特徴である、登場人物の躍動感が感じられるポーズが、この段階ですでに完成されている。
当時は、工房内での分業だけでなく、個別の画題に付いては、そのスペシャリストとの共作も行われていた。
”熊狩り”という作品では、人物をルーベンス工房が描き、動物達は、動物画を得意とするフランス・スネイデルスとその工房が描いている。
ルーベンスの行きた時代においては、まだ絵画は工房によって、共同作業で製作され、今日のような、個人の芸術家が、アトリエで一人で描く、というスタイルではなかった。
ヴァン・ダイク、ヨルダーンスといった巨匠も、独立した画家として活躍しながら、ルーベンス工房でも一時期活動していたという。その二人の作品も何点か展示されていた。
写真がない当時において、版画は、絵画を広めるための有力な手段だった。有名な”キリスト降架”を、ルーベンスが自らの監督の元で作成させた版画作品。左右が逆に描かれている。
まだ著作権の確立してない当時にあっては、勝手に版画を作成されることも、よくあったという。
ルーベンスの生きた時代においては、絵画というものも、それを描く画家というものも、現代とはかなり違った状況にあったということが、この展覧会を通じて垣間見えた。
ルーベンスは、1600年から1608年まで、イタリアのマントヴァ公のゴンザーガ家の宮廷画家を務め、その間に、イタリア中の様々な芸術作品に触れ、大きな影響を受けた。
”ロムルスとレムスの発見”は、1612年頃、イタリアから帰国してから書かれた作品だが、ローマのある枢機卿の注文で製作された。帰国後も、イタリアとの関係はずっと続いていた。この展覧会での唯一の大作で、ローマの建国神話を描いたもの。
帰国したルーベンスは、アントワープにイタリア風の建物の工房を建て、本格的に活動を開始した。弟子には、徹底的に自分の技法を真似させ、多くの絵画を大量に製作するシステムを作り上げた。
ベラスケスの仕えた、スペインのフェリペ4世は、ルーベンスの大ファンだった。そのフェリペ4世の注文による連作のための油彩スケッチ6点。
30cm四方の小さな作品。素早いタッチで、全体の構図、人物の動き、色合いなどを描いている。ルーベンスの特徴である、登場人物の躍動感が感じられるポーズが、この段階ですでに完成されている。
当時は、工房内での分業だけでなく、個別の画題に付いては、そのスペシャリストとの共作も行われていた。
”熊狩り”という作品では、人物をルーベンス工房が描き、動物達は、動物画を得意とするフランス・スネイデルスとその工房が描いている。
ルーベンスの行きた時代においては、まだ絵画は工房によって、共同作業で製作され、今日のような、個人の芸術家が、アトリエで一人で描く、というスタイルではなかった。
ヴァン・ダイク、ヨルダーンスといった巨匠も、独立した画家として活躍しながら、ルーベンス工房でも一時期活動していたという。その二人の作品も何点か展示されていた。
写真がない当時において、版画は、絵画を広めるための有力な手段だった。有名な”キリスト降架”を、ルーベンスが自らの監督の元で作成させた版画作品。左右が逆に描かれている。
まだ著作権の確立してない当時にあっては、勝手に版画を作成されることも、よくあったという。
ルーベンスの生きた時代においては、絵画というものも、それを描く画家というものも、現代とはかなり違った状況にあったということが、この展覧会を通じて垣間見えた。
クラーク・コレクション展(三菱一号館美術館)
展示の内容は、ルノワールが中心を占めていたが、他にも、コロー、ミレー、ピサロ、モネ、ドガなど、印象派を中心に、18世紀後半のフランス絵画が70点ほど。
ピサロの”ルーアンの港、材木の積み下し”と”ボン・ヌフから見たルーブル”。ピサロにしては、横90cmという大作。
ピサロというと、地上の目線から描く絵が多いイメージがあったが、この2点は、高い場所から、風景を俯瞰している。空気のゆらぎを感じさせるように、工夫をこらして描かれている。
ジャン=レオン・ジェロームの”蛇使い”と”奴隷市場”。いわゆるサロンの画家。世界中を旅した経験を元に、イスラム世界のエキゾチックさを、ヨーロッパの正統的な油絵の手法で描いている。
”蛇使い”では、美しいイズミックタイルが貼りつめられた部屋で、少年がヘビを扱っている。イズミックタイルはトルコ、蛇使いは、エジプトで見たものを組み合わせた、明らかなフィクション。しかし、描かれている絵は、美しい。
そして、ルノワールは、人物画、風景画、静物画と多様なジャンルにわたる、20点ほどが展示されていた。
”劇場の桟敷席(音楽会にて)”は、いかにもルノワールらしい人物画。音楽という聴覚、画面に描かれた花束が嗅覚を、そして、黒服に身を包んだ美しい女性が視覚を、それぞれ意識させる。
”タマネギ”という静物画では、あまり描かれることのない題材を取り上げている。タマネギの皮の、金色に似た色合いが、赤系の色を上手く使って描かれている。こんな色のタマネギが本当に存在したら、飛ぶように売れていくに違いない。
ロバート・スターリング・クラークという人物は、19世紀末にニューヨークの裕福な家庭に生まれ、弁護士を務めていたが、莫大な遺産を得てから、パリに居を移し、そこで多くの美術品を購入した。
第1次大戦後にニューヨークに戻り、世界恐慌の際には、暴落した美術市場で多くの名品を買い漁ったという。
美術品を後世に伝えるという点において、コレクターの存在は大きな意味を持っている。遺産を得て、多くの美術品を買い漁る、というのは、コレクターの1つのパターンであり、そうした存在のお陰で、今日、美術品を楽むことができるのも、1つの事実だ。
ピサロの”ルーアンの港、材木の積み下し”と”ボン・ヌフから見たルーブル”。ピサロにしては、横90cmという大作。
ピサロというと、地上の目線から描く絵が多いイメージがあったが、この2点は、高い場所から、風景を俯瞰している。空気のゆらぎを感じさせるように、工夫をこらして描かれている。
ジャン=レオン・ジェロームの”蛇使い”と”奴隷市場”。いわゆるサロンの画家。世界中を旅した経験を元に、イスラム世界のエキゾチックさを、ヨーロッパの正統的な油絵の手法で描いている。
”蛇使い”では、美しいイズミックタイルが貼りつめられた部屋で、少年がヘビを扱っている。イズミックタイルはトルコ、蛇使いは、エジプトで見たものを組み合わせた、明らかなフィクション。しかし、描かれている絵は、美しい。
そして、ルノワールは、人物画、風景画、静物画と多様なジャンルにわたる、20点ほどが展示されていた。
”劇場の桟敷席(音楽会にて)”は、いかにもルノワールらしい人物画。音楽という聴覚、画面に描かれた花束が嗅覚を、そして、黒服に身を包んだ美しい女性が視覚を、それぞれ意識させる。
”タマネギ”という静物画では、あまり描かれることのない題材を取り上げている。タマネギの皮の、金色に似た色合いが、赤系の色を上手く使って描かれている。こんな色のタマネギが本当に存在したら、飛ぶように売れていくに違いない。
ロバート・スターリング・クラークという人物は、19世紀末にニューヨークの裕福な家庭に生まれ、弁護士を務めていたが、莫大な遺産を得てから、パリに居を移し、そこで多くの美術品を購入した。
第1次大戦後にニューヨークに戻り、世界恐慌の際には、暴落した美術市場で多くの名品を買い漁ったという。
美術品を後世に伝えるという点において、コレクターの存在は大きな意味を持っている。遺産を得て、多くの美術品を買い漁る、というのは、コレクターの1つのパターンであり、そうした存在のお陰で、今日、美術品を楽むことができるのも、1つの事実だ。
2013年6月8日土曜日
中村好文展 小屋においでよ!(ギャラリー間)
中村好文氏には大変失礼だが、始めは、この展覧会に行く予定は、全くなかった。
ギャラリー間で行われる展覧会は、だいたい足を運んでいるが、今回は、パスしようと思っていた。
しかし、たまたま、テレビでこの展覧会の会場の様子が放映されているのを見て、俄然、行きたい気持ちが強くなり、ついに、訪れることとなった。
3階の屋内の展示室には、小さな7つに小屋が作られ、その中に、中村が影響を受けた人物についての写真やパネルなどが展示されていた。
鴨長明、ル・コルビジェ、堀江謙一、ソロー、高村光太郎などのことは知っていたが、猪谷千春の父の猪谷六合雄のことや、立原道造が建築家を目指していたことなど、知らないこともあり、楽しめた。
3階の中庭には、この展覧会の為に作られた、一人で暮らせる20㎡ほどの、文字通りの小屋、Hanem Hutが展示されていた。キッチンやトイレも作られており、実際に暮らすこともできそうだ。屋根の上には、太陽光発電機や、風力発電機も取り付けられている。
4階には、その小屋についてのスケッチや、細かい設計図などが展示されていた。
さらに、中村のこれまでの作品の写真や、その建設の過程を記録した写真も展示されていた。楽しそうに小屋を立てている人々の笑顔。それは、小屋、という人間の体にあったサイズの建築だからこそ、なのかもしれない。
安藤忠雄、伊東豊男、隅研吾など、大きな建物を建てる建築家の業績をたどることも楽しいが、中村好文のような、人間の暖かさが感じられる、サイズの違った建物を建てる建築家のこうした展覧会も、それに劣らず十分に楽しめる。
ギャラリー間で行われる展覧会は、だいたい足を運んでいるが、今回は、パスしようと思っていた。
しかし、たまたま、テレビでこの展覧会の会場の様子が放映されているのを見て、俄然、行きたい気持ちが強くなり、ついに、訪れることとなった。
3階の屋内の展示室には、小さな7つに小屋が作られ、その中に、中村が影響を受けた人物についての写真やパネルなどが展示されていた。
鴨長明、ル・コルビジェ、堀江謙一、ソロー、高村光太郎などのことは知っていたが、猪谷千春の父の猪谷六合雄のことや、立原道造が建築家を目指していたことなど、知らないこともあり、楽しめた。
3階の中庭には、この展覧会の為に作られた、一人で暮らせる20㎡ほどの、文字通りの小屋、Hanem Hutが展示されていた。キッチンやトイレも作られており、実際に暮らすこともできそうだ。屋根の上には、太陽光発電機や、風力発電機も取り付けられている。
4階には、その小屋についてのスケッチや、細かい設計図などが展示されていた。
さらに、中村のこれまでの作品の写真や、その建設の過程を記録した写真も展示されていた。楽しそうに小屋を立てている人々の笑顔。それは、小屋、という人間の体にあったサイズの建築だからこそ、なのかもしれない。
安藤忠雄、伊東豊男、隅研吾など、大きな建物を建てる建築家の業績をたどることも楽しいが、中村好文のような、人間の暖かさが感じられる、サイズの違った建物を建てる建築家のこうした展覧会も、それに劣らず十分に楽しめる。
美の響宴 京都画壇と神坂雪佳(日本橋高島屋)
かねてより、最後の琳派、といわれる神坂雪佳の作品を、まとめて鑑賞したいと思っていた。
これまでは、琳派や日本画の展覧会において、多くの展示の品の中に隠れた数点を見る、といった程度だった。
日本橋の高島屋で開催されたこの展覧会で、ようやく、その機会が訪れることになった。
四季草花図屏風。文字通り、琳派、といった趣の作品。蕨、蒲公英、燕子花などの草花が、1つ1つは繊細に克明に描かれ、それが、左右の金屏風の上に、独特の空間感覚で配置されている。
白梅図では、太い梅の木は、大雑把に、墨の滲みを活かして大胆に描き、枝先の梅はその雌しべまで克明に描く、といったこちらも琳派によく見られる技法が使われている。
人物画のコーナーでは、その神坂の作品は小品が一転のみ。
上村松園の待月。縁側で月の出を待つ一人の着物姿の女性。縁側の向こうを向いているので、顔は全く描かれていない。その着物の線と、団扇を持つ右手の細いてだけで、女性の美しさを見事に表してる。
竹内栖鳳の絵になる最初。天女のモデルとなるため、裸にならなければならない女性の、服を脱ぐ前の恥じらいの一瞬の表情を捉えている。表情といっても、その半分ほどは、顔の前に持っていった手によって、隠されている。隠れた部分を、見るものの想像に任せている。見事、という他に言葉はない。
再び、神坂に戻り、杜若図屏風。一面の金箔の屏風に、杜若だけが描かれているという、琳派の象徴ともいえる題材。神坂は、先人の作品の雰囲気を踏襲しつつ、少しだけ、自分の個性を主張している。
伊勢物語や平家物語に題材をとった、団扇絵や掛け軸。物語の一場面を、かろうして想像できる人物や風景だけを描き、他の余計なものは、一切削ぎ落として描いている。
人間の認識の方法を熟知しているからこそ、こうした作品が描ける。
神坂は、絵以外にも、工芸品や染め物のデザインを多く手がけていた。それがゆえに、長く、正統的な画家とは認められなかったという。
まったく、ばかげた話としかいう他はない。
神坂の作品を一度でも目にしたことがある人間に取っては、肩書きなどは、全く気にはならないだろう。
その作品こそが、神坂が一体何者だったのか、ということを、見事に語り得るのだ。
これまでは、琳派や日本画の展覧会において、多くの展示の品の中に隠れた数点を見る、といった程度だった。
日本橋の高島屋で開催されたこの展覧会で、ようやく、その機会が訪れることになった。
四季草花図屏風。文字通り、琳派、といった趣の作品。蕨、蒲公英、燕子花などの草花が、1つ1つは繊細に克明に描かれ、それが、左右の金屏風の上に、独特の空間感覚で配置されている。
白梅図では、太い梅の木は、大雑把に、墨の滲みを活かして大胆に描き、枝先の梅はその雌しべまで克明に描く、といったこちらも琳派によく見られる技法が使われている。
人物画のコーナーでは、その神坂の作品は小品が一転のみ。
上村松園の待月。縁側で月の出を待つ一人の着物姿の女性。縁側の向こうを向いているので、顔は全く描かれていない。その着物の線と、団扇を持つ右手の細いてだけで、女性の美しさを見事に表してる。
竹内栖鳳の絵になる最初。天女のモデルとなるため、裸にならなければならない女性の、服を脱ぐ前の恥じらいの一瞬の表情を捉えている。表情といっても、その半分ほどは、顔の前に持っていった手によって、隠されている。隠れた部分を、見るものの想像に任せている。見事、という他に言葉はない。
再び、神坂に戻り、杜若図屏風。一面の金箔の屏風に、杜若だけが描かれているという、琳派の象徴ともいえる題材。神坂は、先人の作品の雰囲気を踏襲しつつ、少しだけ、自分の個性を主張している。
伊勢物語や平家物語に題材をとった、団扇絵や掛け軸。物語の一場面を、かろうして想像できる人物や風景だけを描き、他の余計なものは、一切削ぎ落として描いている。
人間の認識の方法を熟知しているからこそ、こうした作品が描ける。
神坂は、絵以外にも、工芸品や染め物のデザインを多く手がけていた。それがゆえに、長く、正統的な画家とは認められなかったという。
まったく、ばかげた話としかいう他はない。
神坂の作品を一度でも目にしたことがある人間に取っては、肩書きなどは、全く気にはならないだろう。
その作品こそが、神坂が一体何者だったのか、ということを、見事に語り得るのだ。
池袋モンパルナス(東京芸術劇場)
池袋は、戦前、多くの芸術家がアトリエを構えた、芸術家のたまり場だった。その様子は、池袋モンパルナス、と呼ばれていた。そうした芸樹家達に焦点を当てた展覧会。
1930年ごろの池袋は、長崎村という地名だった。村という名前からも想像できる通り、田中佐一郎や春日部たすくの描いた当時の長崎村は、見るからに田舎、という雰囲気だ。
1940年代になると、ヨーロッパの影響を受けて、日本にもシュールレアリズムの画家が現れる。植物の先端をクローズアップで描いた、寺田政明の”発芽”。明らかにアンリ・ルソーを真似した榑松正利の”夢”という作品などを見ると、池袋にも、多くのそうした画家がいたことがわかる。
展覧会の作品の中でも、とりわけ深い印象を残した、1945年4月の池袋への空襲直後の様子を描いた、吉井忠の”ひとびと”。焼け野原の風景に中で、命を落とした家族を抱いて、某然と佇む人々の姿を描いている。
人々の配置には、吉井の構図へのこだわりが見て取れる。この悲劇を、どのように描けば、その悲惨さが効果的に、見るものに伝わるか。吉井の格闘の跡が伺える。
かつて、川越の丸木美術館にある、原爆の図をみたことがあった。その印象は、強烈に心の中に残っている。その丸木夫妻も、かつて池袋にアトリエを構えていた。
丸木俊の”ロシア人形”は、愛くるしい絵画。丸木位里の”グランドキャニオン”は、世界的に有名な観光名所を、黒とピンクを中心とした大胆な色使いで描いている。
井上長三郎の”ドストエフスキーの庭”という作品。井上がロシアを訪れた際に、有名な作家の住まいの跡を訪ねた時のスケッチをもとに描いた作品。意外と小さな平屋の建物が、ロシアの緑の大地の中に、静かな雰囲気で描かれている。
ドストエフスキーの深遠で、重厚な小説世界からは想像できない程、その住まいは、穏やかだった。
池袋で、かつて暮らした経験のある人間にとって、このささやかな展覧会は、ノスタルジーをくすぐる、何とも甘酸っぱい、不思議な雰囲気の展覧会であった。
1930年ごろの池袋は、長崎村という地名だった。村という名前からも想像できる通り、田中佐一郎や春日部たすくの描いた当時の長崎村は、見るからに田舎、という雰囲気だ。
1940年代になると、ヨーロッパの影響を受けて、日本にもシュールレアリズムの画家が現れる。植物の先端をクローズアップで描いた、寺田政明の”発芽”。明らかにアンリ・ルソーを真似した榑松正利の”夢”という作品などを見ると、池袋にも、多くのそうした画家がいたことがわかる。
展覧会の作品の中でも、とりわけ深い印象を残した、1945年4月の池袋への空襲直後の様子を描いた、吉井忠の”ひとびと”。焼け野原の風景に中で、命を落とした家族を抱いて、某然と佇む人々の姿を描いている。
人々の配置には、吉井の構図へのこだわりが見て取れる。この悲劇を、どのように描けば、その悲惨さが効果的に、見るものに伝わるか。吉井の格闘の跡が伺える。
かつて、川越の丸木美術館にある、原爆の図をみたことがあった。その印象は、強烈に心の中に残っている。その丸木夫妻も、かつて池袋にアトリエを構えていた。
丸木俊の”ロシア人形”は、愛くるしい絵画。丸木位里の”グランドキャニオン”は、世界的に有名な観光名所を、黒とピンクを中心とした大胆な色使いで描いている。
井上長三郎の”ドストエフスキーの庭”という作品。井上がロシアを訪れた際に、有名な作家の住まいの跡を訪ねた時のスケッチをもとに描いた作品。意外と小さな平屋の建物が、ロシアの緑の大地の中に、静かな雰囲気で描かれている。
ドストエフスキーの深遠で、重厚な小説世界からは想像できない程、その住まいは、穏やかだった。
池袋で、かつて暮らした経験のある人間にとって、このささやかな展覧会は、ノスタルジーをくすぐる、何とも甘酸っぱい、不思議な雰囲気の展覧会であった。
2013年6月2日日曜日
レオナルド・ダ・ヴィンチ展 天才の肖像(東京都美術館)
レオナルドの名を冠する美術館を、開催することは自体は簡単だが、それが成功したといえるかどうかを判断するのは、難しい問題だ。
なにしろ、油絵の作品については、極端に作品数が少ない。レオナルドの油絵の作品が1枚でも展示されればいい方で、中には、真作が一枚も展示されない展覧会もある。
果たして、この展覧会はどうだったのか?
この展覧会には、音楽家の肖像、というレオナルドの作品が出品された。この作品は、ポーランドのクラクフにある白貂を抱く貴婦人、を描いていたのと同じ頃、ミラノのスフォルツァ家に使えていた時の作品と言われている。
しかし、この作品が、本当にレオナルドの作品かどうかということは、長い間の議論があり、19世紀の間は、真作とは考えていられなかったという。
一目見たとたんに、これは完成作ではないということが分かる。表情はレオナルドらしい、スフマートの技法で描かれており、その巻き毛の髪の毛は、初期の有名なキリストの洗礼の天使の巻き毛を思い起こさせる。
しかし、首から下の衣服は、単に色を塗っただけのように見え、赤い鮮やかな帽子も、簡単に陰翳だけを表現している。
絵の一番下に描かれた右手の手先、その握っている楽譜はしっかりと描かれている。楽譜には、音符まで描き込まれている。
この展覧会のもう一つの目玉は、アトレティコ手稿。レオナルドが残した膨大な手稿の一部のうち、22枚が展示された。
蔵書目録、デッサンのようなスケッチ、永久機関の設計図、飛行機の翼の設計図、など、様々な分野の手稿が、レオナルドの関心の高さを伺わせる。
その他、面白い展示内容としては、レオナルドの蔵書目録から、勿論レオナルドが実際に所有していたものでないが、同じ時代、あるいは後の時代に出版された本などが出展された。
東方見聞録、フィチィーノのプラトン神学、農政論、軍事論集など。そうした蔵書からも、レオナルドの多方面への感心の広さが見て取れる。
レオナルドのことを、ルネサンスの万能人と紹介することが多い。万能人だとは思わないが、当時の知的状況をその全身で吸収し、幅広い感心を、自らが特異とした絵画、という形式で表現しようとした希有の人物、であるということは、間違いがないようだ。
なにしろ、油絵の作品については、極端に作品数が少ない。レオナルドの油絵の作品が1枚でも展示されればいい方で、中には、真作が一枚も展示されない展覧会もある。
果たして、この展覧会はどうだったのか?
この展覧会には、音楽家の肖像、というレオナルドの作品が出品された。この作品は、ポーランドのクラクフにある白貂を抱く貴婦人、を描いていたのと同じ頃、ミラノのスフォルツァ家に使えていた時の作品と言われている。
しかし、この作品が、本当にレオナルドの作品かどうかということは、長い間の議論があり、19世紀の間は、真作とは考えていられなかったという。
一目見たとたんに、これは完成作ではないということが分かる。表情はレオナルドらしい、スフマートの技法で描かれており、その巻き毛の髪の毛は、初期の有名なキリストの洗礼の天使の巻き毛を思い起こさせる。
しかし、首から下の衣服は、単に色を塗っただけのように見え、赤い鮮やかな帽子も、簡単に陰翳だけを表現している。
絵の一番下に描かれた右手の手先、その握っている楽譜はしっかりと描かれている。楽譜には、音符まで描き込まれている。
この展覧会のもう一つの目玉は、アトレティコ手稿。レオナルドが残した膨大な手稿の一部のうち、22枚が展示された。
蔵書目録、デッサンのようなスケッチ、永久機関の設計図、飛行機の翼の設計図、など、様々な分野の手稿が、レオナルドの関心の高さを伺わせる。
その他、面白い展示内容としては、レオナルドの蔵書目録から、勿論レオナルドが実際に所有していたものでないが、同じ時代、あるいは後の時代に出版された本などが出展された。
東方見聞録、フィチィーノのプラトン神学、農政論、軍事論集など。そうした蔵書からも、レオナルドの多方面への感心の広さが見て取れる。
レオナルドのことを、ルネサンスの万能人と紹介することが多い。万能人だとは思わないが、当時の知的状況をその全身で吸収し、幅広い感心を、自らが特異とした絵画、という形式で表現しようとした希有の人物、であるということは、間違いがないようだ。
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