東京、六本木にある泉屋博古館分館で行われた、その収蔵品による、近代日本画の展覧会。
狩野芳崖の寿老人。七福神の一人、寿老人が、岩に腰掛けている。輪郭線の太さや濃淡で、画面の中のオブジェクトの存在感を描き分けている。その手法は、どことなく、曾我蕭白による仙人像を連想させる。
蕭白ほどには、エキセントリックな絵ではないが、あご髭の一本一本がピンと伸びている様子は、その描かれている人物の尋常でなさを、よく表している。
橋本雅邦の深山猛虎。二匹の虎が、滝のような渓流が流れ落ちている深い山奥に描かれている。二匹は、画面の右上を、警戒するように、睨みつけている。画面には描かれていないが、その方角には、龍がいることが、想像できる。
龍そのものを全く描かずに、その存在感を、虎の様子から感じさせるという、見事な手法。
狩野芳崖は、文政11年、1828年。橋本雅邦は、天保6年、1835年の生まれであることに気がついた。
二人とも、明治時代の画家というイメージが強いが、ほとんど江戸時代の人間と言ってもいい生まれ年だったのだ。
富岡鉄斎の3枚の水墨画。最後の文人画家といわれる富岡鉄斎。彼も、その生まれは、天保7年、1836年だった。
岸田劉生の四時競甘。桃、柿、瓜など、四季の果物を、掛軸の日本画に描いている。タッチは粗く、果物の輪郭と色は、微妙にずれている。濃厚な油絵の麗子像の岸田劉生とは、全く違った画家がそこにはいた。
望月玉渓の孔雀図。六双二曲の屏風に、二匹の孔雀が描かれている。その孔雀の羽の細かい描写に、身を奪われ、時間を忘れてしまう。対象を見つめる目と、それを表現する絵師としての技術。いずれが欠けても、この絵は生まれなかっただろう。
わずか40点ほどの出展ながら、日本画の真髄を味わうことができる、印象深い展覧会だった。
2013年8月25日日曜日
2013年8月18日日曜日
アンドレアス・グルスキー展(新国立美術館)
ドイツの国際的に著名な写真家、アンドレアス・グルスキーの写真展。
何よりも目を引くのは、巨大な広角のレンズで撮影された写真の数々。アメリカのショッピングセンター、日本のスーパーカミオカンデ、北朝鮮のマスゲーム、高層のオフィスビルディングなどなど。
オフィスビルの写真は、近寄ってみると、オフィスビルの各フロアの机の上まで、はっきりと見ることができる。
こんなの、広い範囲を、これほど細部まで鮮明に、どうやって撮影したのだろう?と、その技術力に、まず感心させられる。
それらの写真は、実際は撮影されたままのものではない。何枚かの写真をデジタル合成したり、撮影後に不要な被写体などをキレイに消し去ったもの。
本当の現実ではなく、グルスキーの視点によって、加工されたもう一つの世界だ。
被写体は、いずれも、決して目新しいものではないが、グルスキーの写真の中では、自分が思い描いているものとは、少し違って見えてくる。なにか、その対象が、荘厳なもののように見えてくる。
グルスキーは、水面を撮影するのが好きなようで、ところどころに、いくつかのバリエーションのものが展示されていた。いずれも、黒い水面に、光が当たって入る部分が、白い線や円形のような形になっている。
美術館のスタッフに尋ねたところ、グルスキーは、この展覧会の会場のレイアウトや、写真の並べ方、すべてをデザインしたという。ところどころ、迷路のようになっていて、うっかりしていると、いくつかの作品を、見逃してしまう。
作品のそばには、小さな数字のラベルが貼られているだけで、作品の名前や、撮影場所や時期などは、いっさい書かれていない。見学者は、作品リストに書かれた数字を目当てに、作品リストから、作品名や撮影場所や時期を知るしかない。
これも、グルスキー自身が、そうしてほしいと指定したという。とにかく、自分の作品以外の展示は、最小限にしたかったのだという。
この展覧会場の中は、その作品も、展示スペース自身も、すべてグルスキーがデザインしたもの。文字通り、グルスキーの世界、そのものだった。
何よりも目を引くのは、巨大な広角のレンズで撮影された写真の数々。アメリカのショッピングセンター、日本のスーパーカミオカンデ、北朝鮮のマスゲーム、高層のオフィスビルディングなどなど。
オフィスビルの写真は、近寄ってみると、オフィスビルの各フロアの机の上まで、はっきりと見ることができる。
こんなの、広い範囲を、これほど細部まで鮮明に、どうやって撮影したのだろう?と、その技術力に、まず感心させられる。
それらの写真は、実際は撮影されたままのものではない。何枚かの写真をデジタル合成したり、撮影後に不要な被写体などをキレイに消し去ったもの。
本当の現実ではなく、グルスキーの視点によって、加工されたもう一つの世界だ。
被写体は、いずれも、決して目新しいものではないが、グルスキーの写真の中では、自分が思い描いているものとは、少し違って見えてくる。なにか、その対象が、荘厳なもののように見えてくる。
グルスキーは、水面を撮影するのが好きなようで、ところどころに、いくつかのバリエーションのものが展示されていた。いずれも、黒い水面に、光が当たって入る部分が、白い線や円形のような形になっている。
美術館のスタッフに尋ねたところ、グルスキーは、この展覧会の会場のレイアウトや、写真の並べ方、すべてをデザインしたという。ところどころ、迷路のようになっていて、うっかりしていると、いくつかの作品を、見逃してしまう。
作品のそばには、小さな数字のラベルが貼られているだけで、作品の名前や、撮影場所や時期などは、いっさい書かれていない。見学者は、作品リストに書かれた数字を目当てに、作品リストから、作品名や撮影場所や時期を知るしかない。
これも、グルスキー自身が、そうしてほしいと指定したという。とにかく、自分の作品以外の展示は、最小限にしたかったのだという。
この展覧会場の中は、その作品も、展示スペース自身も、すべてグルスキーがデザインしたもの。文字通り、グルスキーの世界、そのものだった。
時代を作った技(国立歴史民俗博物館)
千葉、佐倉にある、国立歴史民俗博物館で開催された企画展。
会場の入り口に、古代に作られたシンプルな陶器と、中世に作られた、漆の茶碗、陶器の器、箸などの、現代とほぼ変わらない食器のセットが、並べて展示されていた。
中世の時代に、いかに技術が発達したのか、一目瞭然。
広島の福山市の草戸千戸遺跡は、場所が中州だったこともあり、中世の村全体が、そのまま発見された珍しい遺跡。この遺跡によって、文書や絵巻物、出土品から、断片的にしかわからなかった中世の生活の全体像が、初めて明らかになったという。
中世という時代が、最近まで、あまりよくわからなかった、ということが、意外に感じられた。
おそらく、中世に発達した技術の多くは、宋からもたらされたものだろう。それが、足利幕府の弱体化に助けられ、各地に広まっていったのだ。
福岡は、宋からの技術がもたらされる玄関口であり、そうからの人々が住んでいる、宋人町があったことが、遺跡からわかっている。
織田信長が、瀬戸焼の職人の棟梁に書いた文書。その地位を保証する代わりに、自らの市でのみ売ることを求めている。地方の守護や実力者による技術の囲い込みの一例だ。
当時の職人たちの給料は、職種によって、おおよその相場があったらしい。決して高い給与ではなかった様だが、物価もやすく、十分に生活していけるレベルだったようだ。
福島県のある鍛冶屋には、自分たちの職業の始まりから、今日に至るまでの歴史が、古事記などの日本の創生神話と絡めて、長々と書かれている巻物が伝わっているという。自らの職業への自負と、正当化の意識が現れている。
中世というと、古代の貴族の時代から、武士の時代へ変化した時代、というイメージが強い。しかし同時に、宋における大きな社会の変化が、日本にもたらされ、日本の社会を大きく変えていった時代でもあったのだろう。
その後、江戸時代には、そうした技術が地方に定着、発展し、各地に特産品というものが生まれた。
モノ作り大国といわれる日本。その現代の技術大国の基礎は、中世の時代に築かれた、ということが、目の前の展示品によって、鮮やかに立証されていた。
会場の入り口に、古代に作られたシンプルな陶器と、中世に作られた、漆の茶碗、陶器の器、箸などの、現代とほぼ変わらない食器のセットが、並べて展示されていた。
中世の時代に、いかに技術が発達したのか、一目瞭然。
広島の福山市の草戸千戸遺跡は、場所が中州だったこともあり、中世の村全体が、そのまま発見された珍しい遺跡。この遺跡によって、文書や絵巻物、出土品から、断片的にしかわからなかった中世の生活の全体像が、初めて明らかになったという。
中世という時代が、最近まで、あまりよくわからなかった、ということが、意外に感じられた。
おそらく、中世に発達した技術の多くは、宋からもたらされたものだろう。それが、足利幕府の弱体化に助けられ、各地に広まっていったのだ。
福岡は、宋からの技術がもたらされる玄関口であり、そうからの人々が住んでいる、宋人町があったことが、遺跡からわかっている。
織田信長が、瀬戸焼の職人の棟梁に書いた文書。その地位を保証する代わりに、自らの市でのみ売ることを求めている。地方の守護や実力者による技術の囲い込みの一例だ。
当時の職人たちの給料は、職種によって、おおよその相場があったらしい。決して高い給与ではなかった様だが、物価もやすく、十分に生活していけるレベルだったようだ。
福島県のある鍛冶屋には、自分たちの職業の始まりから、今日に至るまでの歴史が、古事記などの日本の創生神話と絡めて、長々と書かれている巻物が伝わっているという。自らの職業への自負と、正当化の意識が現れている。
中世というと、古代の貴族の時代から、武士の時代へ変化した時代、というイメージが強い。しかし同時に、宋における大きな社会の変化が、日本にもたらされ、日本の社会を大きく変えていった時代でもあったのだろう。
その後、江戸時代には、そうした技術が地方に定着、発展し、各地に特産品というものが生まれた。
モノ作り大国といわれる日本。その現代の技術大国の基礎は、中世の時代に築かれた、ということが、目の前の展示品によって、鮮やかに立証されていた。
曼荼羅展(根津美術館)
根津美術館が収蔵する、曼荼羅を中心とした仏教界がコレクションを中心にした企画展。
これだけ多くの曼荼羅を、一度に目にする機会は少ない。貴重な展覧会だ。
およそ、2メートル四方の、金剛界八十一尊曼荼羅。13世紀の鎌倉時代に作成されたものだが、実に、色鮮やか。しかも、細かい描写で、数えきれないほどの、たくさんの仏が描かれている。
修行する僧たちによって描かれたのか、あるいは、専門的な絵師たちによって描かれたのか。いずれにしろ、現代の絵を描く、という行為と、行為としてみれば同じなのだろうが、意味的には、全く違っているのかもしれない。
この文字は、後醍醐天皇が書いたという説がある。武力では、劣勢にあった南朝としては、愛染明王のような、密教のパワーに、すがるしかなかったのだろう。
奈良の当麻寺の当麻曼荼羅。数多くのコピーが存在するが、この会場にも、室町時代に描かれたものが展示されていた。
曼荼羅を見ていると、さまざまな妄想が止まらなくなってくる。
これだけ多くの曼荼羅を、一度に目にする機会は少ない。貴重な展覧会だ。
およそ、2メートル四方の、金剛界八十一尊曼荼羅。13世紀の鎌倉時代に作成されたものだが、実に、色鮮やか。しかも、細かい描写で、数えきれないほどの、たくさんの仏が描かれている。
修行する僧たちによって描かれたのか、あるいは、専門的な絵師たちによって描かれたのか。いずれにしろ、現代の絵を描く、という行為と、行為としてみれば同じなのだろうが、意味的には、全く違っているのかもしれない。
14世紀の鎌倉時代に作成された、愛染明王像。こちらは、色が大分落ちてしまっているが、この仏画の特徴は、この絵に描かれた文字にある。
この文字は、後醍醐天皇が書いたという説がある。武力では、劣勢にあった南朝としては、愛染明王のような、密教のパワーに、すがるしかなかったのだろう。
文字を書くことによって、この世界を変えることができると、信じられていた時代の文字を目に前すると、何とも不思議な思いに捉われる。
今日の社会において、文字には、そうした力は、すでに無くなっているように見える。
今日の社会において、文字には、そうした力は、すでに無くなっているように見える。
本物は、写真やテレビの映像でしか見ていないが、色も落ち、描かれている仏や建物も、判別できなくなっているが、この写本は、まだ色も鮮やか。本物ではわからない、細部の部分まで、よく見える。
仏教の曼荼羅というコンセプトを、神道に取り入れて作成された垂迹曼荼羅。日吉山王、春日宮、熊野などの神社の景色や、祭神が描かれた曼荼羅が、並んで展示されていた。
垂迹という方法論、外から来たものを、その形だけを取り入れるという方法論は、現在に至るまで、この国の最も基本的な、方法論である。
曼荼羅は、大日如来が、あらゆる仏に変化する様子を描いている。ひとつの原理が、すべてのものに変化したのが、この世界である、という発想は、物理学の発想と、基本的には同じだ。
曼荼羅を見ていると、さまざまな妄想が止まらなくなってくる。
2013年8月17日土曜日
大倉コレクションの精華Ⅱ(大倉集古館)
大倉グループのコレクションを一同に紹介する企画の第2段は、近代日本画の名品展。
出展された作品の多くは、昭和4年にローマで開催された、日本美術展に展示されたもの。この展覧会は、大倉グループの全面的なバックアップの元で行われた。
当時のイタリアのムッソリーニ政権との友好という意味合いも強かっただろう。
そうした政治的な背景を知ると、何となく、複雑な気持ちを抱いてしまうが、目の前に現れた作品は、文句なく、美しいものばかりだった。
横山大観の”夜桜”。大観の数ある作品の中でも、最も鮮やかな作品の一つだろう。夜でありながら、篝火の中に、白い桜と、緑の松が、華やかに浮かび上がっている。
近づいてみると、桜の花びらのひとつひとつ、篝火の火の粉のひとつひとつまで、克明に描いている。
大観は、このローマでの日本美術展に深く関わり、そのポスターを描き、オープニングに当たっては、わざわざローマ入りし、開会式で挨拶を行った。
その大観の夜桜の隣には、前田青屯の”洞窟の頼朝”、という作品が、大観に対するように展示されていた。伊豆での挙兵が失敗に終わり、少数の人数で、洞窟に隠れていた、という歴史の一場面を描いている。
頼朝をはじめとして、周りに集う一人一人の、鎧の表面に編まれた紐まで、細かい筆先で描いている。中心の頼朝の朱色の鎧と、その引き締まった表情が、頼朝の強い意思を、象徴している。
下村観山の”不動尊”。不動尊とその脇尊を、黒地で描き、目鼻などの線を、金の絵の具で描いている。何とも、大胆でダイナミックな作品。
一転して、墨一色の作品。田能村直入の”万里長城図巻”。こちらは、ローマ展への出品作ではない。直入は、高名な田能村竹田を継いだ一番弟子。竹田と同じく、豊後竹田の出身。その丹念な筆さばきには、時間の立つのを忘れてしまう。
ローマ展のことなど、今日では覚えている人など、それほど多くはないだろう。美しい日本絵画を楽しみながら、歴史の一ページにも触れた経験も味わえる、不思議な展覧会だった。
出展された作品の多くは、昭和4年にローマで開催された、日本美術展に展示されたもの。この展覧会は、大倉グループの全面的なバックアップの元で行われた。
当時のイタリアのムッソリーニ政権との友好という意味合いも強かっただろう。
そうした政治的な背景を知ると、何となく、複雑な気持ちを抱いてしまうが、目の前に現れた作品は、文句なく、美しいものばかりだった。
横山大観の”夜桜”。大観の数ある作品の中でも、最も鮮やかな作品の一つだろう。夜でありながら、篝火の中に、白い桜と、緑の松が、華やかに浮かび上がっている。
近づいてみると、桜の花びらのひとつひとつ、篝火の火の粉のひとつひとつまで、克明に描いている。
大観は、このローマでの日本美術展に深く関わり、そのポスターを描き、オープニングに当たっては、わざわざローマ入りし、開会式で挨拶を行った。
その大観の夜桜の隣には、前田青屯の”洞窟の頼朝”、という作品が、大観に対するように展示されていた。伊豆での挙兵が失敗に終わり、少数の人数で、洞窟に隠れていた、という歴史の一場面を描いている。
頼朝をはじめとして、周りに集う一人一人の、鎧の表面に編まれた紐まで、細かい筆先で描いている。中心の頼朝の朱色の鎧と、その引き締まった表情が、頼朝の強い意思を、象徴している。
下村観山の”不動尊”。不動尊とその脇尊を、黒地で描き、目鼻などの線を、金の絵の具で描いている。何とも、大胆でダイナミックな作品。
一転して、墨一色の作品。田能村直入の”万里長城図巻”。こちらは、ローマ展への出品作ではない。直入は、高名な田能村竹田を継いだ一番弟子。竹田と同じく、豊後竹田の出身。その丹念な筆さばきには、時間の立つのを忘れてしまう。
ローマ展のことなど、今日では覚えている人など、それほど多くはないだろう。美しい日本絵画を楽しみながら、歴史の一ページにも触れた経験も味わえる、不思議な展覧会だった。
フランシス・アリス展 ジブラルタル海峡編(東京都現代美術館)
東京、木場の東京都現代美術館に、あのクレイジーな男が、またやってきた。
メキシコの広大な平原で、消えては現れる、トルネードに、ハンディカメラを持って、その中に突入していった、クレイジーな男。
フランシス・アリス。
今度は、どんなクレイジーなことを、しでかしたというのか?
2008年に、アフリカ側とヨーロッパ側をわかつ、ジブラルタル海峡に、双方からの子供たちの列で、架け橋を作る、という、これまたクレイジーな試みだ。
その様子を映像に収めた、”川に着く前に橋を渡るな”、という作品が、展示されていた。
勿論、ジブラルタル海峡を、徒歩で渡ることはできない。"子供達は、空想の世界の中で、出会うことができるだろうか?"と、映像の中のナレーションが語っていた。
水着姿のモロッコとスペインの子供達が、サンダルで作った、船の模型を手にして、砂浜から、並んで海に向かって進んで行く。
押し寄せる波が、子供達の前進を阻もうとするが、子供達は、その波を楽しむかのいうに、笑顔で、向こう岸に向かって、進んで行く。
カメラは、子供達といっしょに海の中に入って行く、決して綺麗ではない、緑がかった海の水が、画面一杯に広がる。時々、水草が、視界に映り込んでくる。
会場には、この作品の企画資料や、実際に使ったサンダルの船の模型も合わせて展示されていた。
アリスが描いたスケッチやアイデアのメモなどとともに、ジブラルタル海峡を超え、アフリカからの違法入国者に関する新聞記事の切り抜きも展示されていた。その多くは、悲しい結末を伝えている。
他に、子供の遊ぶ様子を映像に収めた、”砂の城”、”水切り”、という2つの作品。砂の城は、ベルギーで、水切りは、モロッコで撮影された。
この2つの作品は、撮影された土地に関わらず、日本を含めた、世界中のいろいろな場所で、行われている遊び。アリスは、そうした子供の遊びを映像化することで、いろいろなことを語っているように思える。
誰もが、心の中に持っている、幼い頃の遊びの経験。無駄なように見えて、実は、とても大切なそれらの行為。
逆に、重要と思われていること(仕事、政治、宗教?)が、こうした子供の遊びと、本質的に何処か違うのだろうか?などなど。
春に行われたメキシコ編に続き、今回もまた、そのクレイジーさをいかんなく発揮してくれた、フランシス・アリス。
クレイジーであるということだけが、現代の行き場のなくなった状況を、変えることのできる、唯一の方法なのかもしれない。
メキシコの広大な平原で、消えては現れる、トルネードに、ハンディカメラを持って、その中に突入していった、クレイジーな男。
フランシス・アリス。
今度は、どんなクレイジーなことを、しでかしたというのか?
2008年に、アフリカ側とヨーロッパ側をわかつ、ジブラルタル海峡に、双方からの子供たちの列で、架け橋を作る、という、これまたクレイジーな試みだ。
その様子を映像に収めた、”川に着く前に橋を渡るな”、という作品が、展示されていた。
勿論、ジブラルタル海峡を、徒歩で渡ることはできない。"子供達は、空想の世界の中で、出会うことができるだろうか?"と、映像の中のナレーションが語っていた。
水着姿のモロッコとスペインの子供達が、サンダルで作った、船の模型を手にして、砂浜から、並んで海に向かって進んで行く。
押し寄せる波が、子供達の前進を阻もうとするが、子供達は、その波を楽しむかのいうに、笑顔で、向こう岸に向かって、進んで行く。
カメラは、子供達といっしょに海の中に入って行く、決して綺麗ではない、緑がかった海の水が、画面一杯に広がる。時々、水草が、視界に映り込んでくる。
会場には、この作品の企画資料や、実際に使ったサンダルの船の模型も合わせて展示されていた。
アリスが描いたスケッチやアイデアのメモなどとともに、ジブラルタル海峡を超え、アフリカからの違法入国者に関する新聞記事の切り抜きも展示されていた。その多くは、悲しい結末を伝えている。
他に、子供の遊ぶ様子を映像に収めた、”砂の城”、”水切り”、という2つの作品。砂の城は、ベルギーで、水切りは、モロッコで撮影された。
この2つの作品は、撮影された土地に関わらず、日本を含めた、世界中のいろいろな場所で、行われている遊び。アリスは、そうした子供の遊びを映像化することで、いろいろなことを語っているように思える。
誰もが、心の中に持っている、幼い頃の遊びの経験。無駄なように見えて、実は、とても大切なそれらの行為。
逆に、重要と思われていること(仕事、政治、宗教?)が、こうした子供の遊びと、本質的に何処か違うのだろうか?などなど。
春に行われたメキシコ編に続き、今回もまた、そのクレイジーさをいかんなく発揮してくれた、フランシス・アリス。
クレイジーであるということだけが、現代の行き場のなくなった状況を、変えることのできる、唯一の方法なのかもしれない。
2013年8月10日土曜日
モネ、ユトリロ、佐伯と日仏絵画の巨匠たち(ホテルオークラ)
ホテルオークラで、1994年より、毎年開催されている、チャリティーイベント、秘蔵の名品アートコレクション。これまで18回で、45万人の人が訪れ、その収益から1億6千万円を赤十字に寄付してきたという。
寡聞にも、これまで、全くこのことは知らず、今回、初めての鑑賞の機会を得た。
ホテルでの開催ということで、多くのホテルマンが、入り口で、朗らかに、”いらっしゃいませ”、と出迎えてくれた。他の展覧会ではあり得ない経験に、戸惑いながら、会場に入る。
ジュール・シュレの3つのポスター作品。恥ずかしながら、初めて聞く名前だった。説明資料によると、それまで文字が中心だったポスターに、初めて、躍動感のある絵を取り込んだ先駆者だという。ロートレックの先人といったところだろうか。
佐伯祐三の絵が、7点も展示されていた。ちょうど、佐伯に興味がある時期だったので、これはうれしかった。
パリに来てまだ間もない時期に描かれた、セーヌ河の見える風景。まだ、佐伯の代名詞ともいえる、看板の文字が入っていない。
死の前年に描かれた、リュクサンブール公園。こちらも、看板の文字は描かれておらず、長く伸びる道と、そに両脇に連なる、ポプラの木の描写が印象的な一枚。
ギュスターブ・モローに絵を学び、フォービズムを立ち上げたアルベール・マルケ。しかし、マルケの描くパリは、野獣という感じではない。後期印象派風の穏やかな雰囲気を漂わせている。
小磯良平のパリ風景。軽いタッチで、色も薄く、画面の前面に、建物の鉄の黒い手すりを描いている。その手すりの線が重なっており、直線の重なりが、幾何学的な不思議な印象を与える。
出口近くに飾られていた、藤田嗣治の6枚の絵。第2次世界大戦の際に帰国し、従軍画家だった時に、ベトナムの風景を描いた、仏印メコンの広野。
そこには、あの個性的な少女や、フジタの白でパリを席巻した、エコールドパリの画家の面影は、全く感じられない。藤田嗣治という画家の、もうひとつの悲しい側面が、現れている。
他にも、モネ、ルノワール、シャガール、キスリング、児島虎次郎、岡鹿之助などの作品が展示されていた。
寡聞にも、これまで、全くこのことは知らず、今回、初めての鑑賞の機会を得た。
ホテルでの開催ということで、多くのホテルマンが、入り口で、朗らかに、”いらっしゃいませ”、と出迎えてくれた。他の展覧会ではあり得ない経験に、戸惑いながら、会場に入る。
ジュール・シュレの3つのポスター作品。恥ずかしながら、初めて聞く名前だった。説明資料によると、それまで文字が中心だったポスターに、初めて、躍動感のある絵を取り込んだ先駆者だという。ロートレックの先人といったところだろうか。
佐伯祐三の絵が、7点も展示されていた。ちょうど、佐伯に興味がある時期だったので、これはうれしかった。
パリに来てまだ間もない時期に描かれた、セーヌ河の見える風景。まだ、佐伯の代名詞ともいえる、看板の文字が入っていない。
死の前年に描かれた、リュクサンブール公園。こちらも、看板の文字は描かれておらず、長く伸びる道と、そに両脇に連なる、ポプラの木の描写が印象的な一枚。
ギュスターブ・モローに絵を学び、フォービズムを立ち上げたアルベール・マルケ。しかし、マルケの描くパリは、野獣という感じではない。後期印象派風の穏やかな雰囲気を漂わせている。
小磯良平のパリ風景。軽いタッチで、色も薄く、画面の前面に、建物の鉄の黒い手すりを描いている。その手すりの線が重なっており、直線の重なりが、幾何学的な不思議な印象を与える。
出口近くに飾られていた、藤田嗣治の6枚の絵。第2次世界大戦の際に帰国し、従軍画家だった時に、ベトナムの風景を描いた、仏印メコンの広野。
そこには、あの個性的な少女や、フジタの白でパリを席巻した、エコールドパリの画家の面影は、全く感じられない。藤田嗣治という画家の、もうひとつの悲しい側面が、現れている。
他にも、モネ、ルノワール、シャガール、キスリング、児島虎次郎、岡鹿之助などの作品が展示されていた。
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