大晦日ということで、空いてるかな?と思いきや、展望台目当てか、意外に多くの人出。中には、家族連れで、小さい子を肩車しながら、会場を巡る人もいた。
素直に、現代アートを鑑賞する人が増えた、と信じたい。
3年に一度開催される六本木クロッシング。今年は、森美術館が開館して10周年。東日本大震災後に初めて行われるということで、かなり気合いが入っていて、しかも、”福島”に関連する作品が多かった。
テーマは、アウト・オブ・ダウト(疑念から)。そこにも、そうした状況がよく現れている。
サイモン・フジワラの、岩について考える。コンクリートで作られた岩の表面に、人の手のひらの形が、ペンキで縁取りされている。
世界中に残されている、古代人の壁画に残されている同様のイメージを思い起こさせる作品。
フジワラは、この岩を使って、福岡の太宰府天満宮でパフォーマンスを行い、その制作過程の映像も紹介されていた。
丹羽良徳の展示コーナーは赤一色。この赤は、勿論、共産党のアカを意味している。
丹羽は、この写真にもあるように、日本共産党に、カール・マルクスの写真を掲げるように、依頼したという。丹羽は1982年生まれ。彼の世代にとっては、カール・マルクスという存在は、プラスのイメージのようだ。
長い景気後退。そして福島の原発事故。現代の世代にとって、マルクスは、純粋に、過去の偉大な思想家の一人なのだろう。
新井卓の作品は、この展覧会の中で、私が一番楽しめた作品。Here and There - 明日の島。
震災後の福島の様子を、ダゲレオタイプ、という古い技術で撮影した写真と、戦後間もない時期の原爆実験のせいで被爆した、第五福竜丸にまつわる写真を、合わせて展示した。
現代の写真だが、まるで、遠い昔の風景のように見える。福島を、なかったこととして、忘れ去ろうとしている一部の人々を強烈に皮肉った作品。
しかし、その一方で、こうした写真がある限りは、決して忘れないとも言っているように見える。
写真というメディアの、そして、それを使ったアートの力を、あらためて実感した。
今年の夏、瀬戸内海の直島を訪れた。
柳幸典の犬島を始めとする、瀬戸内海の島々のプロジェクトの資料展示は、その旅をしばし思い出させた。
アート作品等よりは、建築のプロジェクト資料のようだ。
左側の20世紀の旧発電所が、右側の21世紀の芸術の発電所になるというコンセプトが書かれている。
実に単純で、素朴なアイデアが、実現されると、多くの人の心に、何かを残す作品になる。
オーストラリア生まれの高坂正人の作品。高坂は、幼い時は、ミュージシャンを目指していたという。
社会派の作品が多い中、こうした作品は、純粋に、何かを作ることの楽しさを思い出させてくれる。
遠藤一郎の。未来へ丸。
近寄ってみると、いろいろな人々の未来の夢が、短冊のようにぶら下げられている。
おそらくは、夢を描くということが、アートの原点であるのだろう。
奥村雄樹は、1960年代に活躍した高橋尚愛の、かつて実施された展覧会を写真で再現し、歴史を超えて、それを追体験する、という面白い企画。
高橋尚愛の作品そのものを展示するのではなく、それを撮影した写真を展示するというのがミソ。写真であるということで、それが、以前に起こったことであるということを、見る人は意識させられる。
突然、企業のショールームのような展示スペースが現れて戸惑う。笹本晃の耳の奥という作品。
流井幸治のソウル・コレクター(上流社会)。ポスターをくしゃくしゃにして、人の体を連想させる、木の棒のオブジェにぶら下げている。うすっぺらな上流社会を皮肉っているのか?と思ったが、作者によれば、日本のアニミズムの考え方を取り入れた作品とのこと。
菅木志雄の関連空。1960年代に登場した”もの派”を代表するアーティストが、今年2013年に制作した作品。
宗教的な、荘厳な雰囲気さえ感じさせる。遠方に見える、東京の姿も、初めからそうであったように、いとも簡単に、その作品の中に取り込んでしまう。
会場の最後に、この展覧会を象徴するような、プロジェクトFUKUSHIMA!の展示。
ご覧の通り、この展覧会のほとんどの作品は、撮影が可能。しかし、赤瀬川原平など、一部のアーティストの作品は撮影が不可。
本人の意思というよりは、いろいろな関係者が絡んでいるせいで、そうなっているのだろうが、興ざめ感は拭えない。
撮影を拒否するということは、何かを守っているということだ。しかし、何かを守っているアートからは、世界を変える力など、生まれては来ないだろう。
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