今回で、12回目となる、東京都写真美術館での新進作家の作品展。
大森克己。ピンク色の球体を、わざとカメラと風景の間に入れて撮影している。風景は、震災の年に福島県で撮影したものが多い。
目ヤニがついた時に、風景がこんなふうに見えることがある。勿論、ピンク色には見えないが。
林ナツミ。いろいろな場所で、自分が浮遊している写真で一躍有名となった。
壁いっぱいに広がる、ほぼ等身大の林の浮遊写真。圧倒的な存在感を誇っていた。
糸崎公朗。何枚かの写真をつなぎ合わせて作品を構成する。町を歩く人と、その路上にいる虫を、それらの写真でつなぎ合わせる。
他に、家の写真を四方から撮影し、その写真を切り取って、立体的に組み立てた作品など。
鍛冶谷直記。歓楽街や、裏通りなどを撮影した写真。
津田隆志。「あなたがテントを張れそうだと思う場所」を人々に尋ねて、その場所を撮影した不思議な作品など。
5人の作家は、いずれも、写真というメディアに、内部や外部を問わず、ひと工夫を加えて、独自の世界を作り上げようとしていた。
2013年12月28日土曜日
高谷史郎 明るい部屋(東京都写真美術館)
芸術監督、映像作家として活躍する高谷史郎の、美術館における初めてとなる古典。
東京都写真美術館の地下1階の展示室は、アートの展覧会場というよりは、実験室のような、あるいは、デザイン会社の整然としたオフィスのようだった。
明るい部屋とは、哲学者のロラン・バルトによって1980年に書かれた写真論の題名。フランス語では、Camera Lucida。カメラとは違うが、画像を映し出す光学装置のこと。
会場の真ん中のテーブルに、そのCamera Lucidaを再現したものが展示されている。写真集が広げられており、その写真が、Camera Lucidaによって、小さなスクリーンに映し出されている。
その周囲の壁には、高谷の写真作品と、東京都写真美術館が収蔵する他の写真家の作品が、別々に展示されている。
高谷は、2008年に、明るい部屋という題名で、舞台上のパフォーマンス作品を発表した。舞台上に、カメラの内部でおこっていることを再現する、というのが、そのパフォーマンスのテーマだったという。
会場では、そのパフォーマンスの映像が、抜粋版で公開されていた。
映像作品として、他に、膨大な数のデジタル写真を、高速に次々と映し出す、frost frame。ハイビジョンの映像を、8つの画面に投影した、Toposcamが展示されていた。
海辺の岩場を映した映像が、画像処理されたストライプ上の映像に、右端から徐々に浸食されていく。
この展覧会は、まるで、高谷の頭の中の一部を、そのまま取り出してきたような、そんな印象を持った。
展示されている高谷の写真作品は、いずれも、1987年に撮影されたもの。その中に、雲を移したものがあった。
なぜだか、その雲の映像が、心に残っている。
東京都写真美術館の地下1階の展示室は、アートの展覧会場というよりは、実験室のような、あるいは、デザイン会社の整然としたオフィスのようだった。
明るい部屋とは、哲学者のロラン・バルトによって1980年に書かれた写真論の題名。フランス語では、Camera Lucida。カメラとは違うが、画像を映し出す光学装置のこと。
会場の真ん中のテーブルに、そのCamera Lucidaを再現したものが展示されている。写真集が広げられており、その写真が、Camera Lucidaによって、小さなスクリーンに映し出されている。
その周囲の壁には、高谷の写真作品と、東京都写真美術館が収蔵する他の写真家の作品が、別々に展示されている。
高谷は、2008年に、明るい部屋という題名で、舞台上のパフォーマンス作品を発表した。舞台上に、カメラの内部でおこっていることを再現する、というのが、そのパフォーマンスのテーマだったという。
会場では、そのパフォーマンスの映像が、抜粋版で公開されていた。
映像作品として、他に、膨大な数のデジタル写真を、高速に次々と映し出す、frost frame。ハイビジョンの映像を、8つの画面に投影した、Toposcamが展示されていた。
海辺の岩場を映した映像が、画像処理されたストライプ上の映像に、右端から徐々に浸食されていく。
この展覧会は、まるで、高谷の頭の中の一部を、そのまま取り出してきたような、そんな印象を持った。
展示されている高谷の写真作品は、いずれも、1987年に撮影されたもの。その中に、雲を移したものがあった。
なぜだか、その雲の映像が、心に残っている。
2013年12月23日月曜日
かたちとシュミレーション 北代省三の写真と実験(川崎市岡本太郎美術館)
川崎市の生田緑地、鬱蒼と広がる森の奥にある、川崎市岡本太郎美術館。
そこで開催された、北代省三の企画展。
北代省三のことは、以前に見た、実験工房についての展覧会で知った。
北代は、1950年代には、絵画やモビール、舞台美術などの、いろいろなジャンルの作品に取り組んでいたが、1960年代以降は、写真を中心に活動するようになっていった。
初期の写真は、一見するとありふれた風景ばかりだが、構図にこだわり、幾何学的な造形を追求している。写真を始めたばかりの人が、はまりそうなパターンで、親近感を感じる。
そして、何よりも、そうした写真を、楽しみながら撮影している北代の顔が、思い浮かぶようだ。
やがて、雑誌の表紙などの写真が多くなり、いろいろなカメラを使った、実験的な作品を撮るようになった。
エンジニア出身であったという北代の、技術に対する興味が、そのまま作品に表れている。
北代の工房を撮影した写真が展示されていた。若い時と晩年の時のものだが、その風景はほとんど変わらない。それは、芸術家の工房というよりは、小さな町工場のように見える。
晩年には、子供の頃に憧れていたという飛行機に取り組むようになり、自ら模型を作って飛ばしたり、模型飛行機入門、という書物を書いたりした。
会場に、年老いて、模型の飛行機を手にし、満面の笑顔で、写真に収まる北代の姿があった。
子供がそのまま大人になった、という言葉があるが、北代は、その言葉が文字通り当てはまる人物だったようだ。
そこで開催された、北代省三の企画展。
北代省三のことは、以前に見た、実験工房についての展覧会で知った。
北代は、1950年代には、絵画やモビール、舞台美術などの、いろいろなジャンルの作品に取り組んでいたが、1960年代以降は、写真を中心に活動するようになっていった。
初期の写真は、一見するとありふれた風景ばかりだが、構図にこだわり、幾何学的な造形を追求している。写真を始めたばかりの人が、はまりそうなパターンで、親近感を感じる。
そして、何よりも、そうした写真を、楽しみながら撮影している北代の顔が、思い浮かぶようだ。
やがて、雑誌の表紙などの写真が多くなり、いろいろなカメラを使った、実験的な作品を撮るようになった。
エンジニア出身であったという北代の、技術に対する興味が、そのまま作品に表れている。
北代の工房を撮影した写真が展示されていた。若い時と晩年の時のものだが、その風景はほとんど変わらない。それは、芸術家の工房というよりは、小さな町工場のように見える。
晩年には、子供の頃に憧れていたという飛行機に取り組むようになり、自ら模型を作って飛ばしたり、模型飛行機入門、という書物を書いたりした。
会場に、年老いて、模型の飛行機を手にし、満面の笑顔で、写真に収まる北代の姿があった。
子供がそのまま大人になった、という言葉があるが、北代は、その言葉が文字通り当てはまる人物だったようだ。
2013年12月22日日曜日
ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館)
アジアでは、初めてとなる、クーデルカの本格的な回顧展。
チェコスロバキアなど、ヨーロッパ各地に暮らすジプシーたちの村に入り込んで、その生活の様子を映し出したジプシーズ。
亡くなった親族を取り囲んで、悲しみを共有している女性のジプシーたち。
警察に捉えられ、手に手錠を嵌められ、村人たちに送られながら連行されようとしている、若者。
小さな子供たちが、床に直接座りながら、集まって食事を取っている様子など。
そうしたジプシーたちの写真が並べれた細い回廊の反対側の壁には、チェコの劇場の様子を撮影した、劇場というシリーズが展示されている。
逃れようのない、ジプシーたちの現実の世界と、作り事を演じている架空の世界。その対比が興味深い。
プラハの春以降、国を追われ、ヨーロッパ各国を巡り撮影された、エクザイルズ。
1970年代、1980年代のヨーロッパ、アイルランド、イタリア、スペイン、フランスなどのヨーロッパの国々の様子が撮影されている。
そこに写されている風景は、いずれも、まるで近代化以前のヨーロッパのように見える。クーデルカは、現代においても、そうした極限の風景を見つけだす独特の感覚を持っているように思える。
クーデルカの名前を一躍有名にした、プラハの春の様子を撮影した、侵攻というシリーズ。
そこには、ソ連軍の侵攻に対して、街に繰り出し、戦車に対した、一般の人々の姿が映されている。その表情は、決して、作られた、虚構のものではない。リアルそのもの。それらの写真は、とても芸術とは呼べない。それらは、文字通りの記録だ。
1980年代以降取り組んでいるという、パノラマ形式のカオスというシリーズ。
それまで、一貫して人間を取り続けてきたクーデルカが、このシリーズでは、崩壊した古代の遺跡や、人が住まなくなった大規模な建物、などを撮影している。
しかし、そこには、人の気配がある。
クーデルカの作品は、いずれも、人間の極限状態をテーマにしているが、ジプシーの悲惨な状況を写した写真においても、何故か、洗練されたもの、高貴なもの、を感じる。
それこそが、クーデルカの、写真家としての本質なのかもしれない。
チェコスロバキアなど、ヨーロッパ各地に暮らすジプシーたちの村に入り込んで、その生活の様子を映し出したジプシーズ。
亡くなった親族を取り囲んで、悲しみを共有している女性のジプシーたち。
警察に捉えられ、手に手錠を嵌められ、村人たちに送られながら連行されようとしている、若者。
小さな子供たちが、床に直接座りながら、集まって食事を取っている様子など。
そうしたジプシーたちの写真が並べれた細い回廊の反対側の壁には、チェコの劇場の様子を撮影した、劇場というシリーズが展示されている。
逃れようのない、ジプシーたちの現実の世界と、作り事を演じている架空の世界。その対比が興味深い。
プラハの春以降、国を追われ、ヨーロッパ各国を巡り撮影された、エクザイルズ。
1970年代、1980年代のヨーロッパ、アイルランド、イタリア、スペイン、フランスなどのヨーロッパの国々の様子が撮影されている。
そこに写されている風景は、いずれも、まるで近代化以前のヨーロッパのように見える。クーデルカは、現代においても、そうした極限の風景を見つけだす独特の感覚を持っているように思える。
クーデルカの名前を一躍有名にした、プラハの春の様子を撮影した、侵攻というシリーズ。
そこには、ソ連軍の侵攻に対して、街に繰り出し、戦車に対した、一般の人々の姿が映されている。その表情は、決して、作られた、虚構のものではない。リアルそのもの。それらの写真は、とても芸術とは呼べない。それらは、文字通りの記録だ。
1980年代以降取り組んでいるという、パノラマ形式のカオスというシリーズ。
それまで、一貫して人間を取り続けてきたクーデルカが、このシリーズでは、崩壊した古代の遺跡や、人が住まなくなった大規模な建物、などを撮影している。
しかし、そこには、人の気配がある。
クーデルカの作品は、いずれも、人間の極限状態をテーマにしているが、ジプシーの悲惨な状況を写した写真においても、何故か、洗練されたもの、高貴なもの、を感じる。
それこそが、クーデルカの、写真家としての本質なのかもしれない。
2013年12月15日日曜日
名品選2013 印象派と世紀末美術(三菱一号館美術館)
東京、丸の内にある、三菱一号館美術館でのコレクション展。
パンフレットには、ルノワールやモネなどのメジャーな先品の、鮮やかな絵画の作品が並んでいるが、この展覧では、リトグラフの作品が印象に残った。
ルドンの、『夜』と『夢想』というリトグラフ集。ノワール、といわれる、幻想的なイメージの数々。
人間の首が、気球に乗って飛んでいたり、人間のような表情をした昆虫のような不思議な生き物など、ルドンの独特の世界が展開されている。
この美術館には、グランブーケといわれる、ルドンの巨大な絵画がある。文字通り、巨大な花のブーケの絵だが、この絵は、とても静物画と呼ぶことはできない。
そこに描かれている花が、とてもこの世の花とは思えない。花という生き物が持っている神秘性、オカルト性が、見事に表現されている。
ヴァロットンがパリの街の様子を描いたリトグラフ集『息づく街パリ』。街を行き交う人々の何気無い表情が、ユーモラスな表現で描かれている。文字通り、パリの浮世絵といった趣き。
モーリス・ドニのアムールというリトグラフ集。パステルカラーで、恋人の様々なシーンが、ドニ特有の平面的で、装飾的な絵で描かれる。
ドニが婚約者のマルトをモデルに、自分たちの関係をそのまま描いたような作品。これほど美しい作品には、そうめったには、お目にかかれない。
パンフレットには、ルノワールやモネなどのメジャーな先品の、鮮やかな絵画の作品が並んでいるが、この展覧では、リトグラフの作品が印象に残った。
ルドンの、『夜』と『夢想』というリトグラフ集。ノワール、といわれる、幻想的なイメージの数々。
人間の首が、気球に乗って飛んでいたり、人間のような表情をした昆虫のような不思議な生き物など、ルドンの独特の世界が展開されている。
この美術館には、グランブーケといわれる、ルドンの巨大な絵画がある。文字通り、巨大な花のブーケの絵だが、この絵は、とても静物画と呼ぶことはできない。
そこに描かれている花が、とてもこの世の花とは思えない。花という生き物が持っている神秘性、オカルト性が、見事に表現されている。
ヴァロットンがパリの街の様子を描いたリトグラフ集『息づく街パリ』。街を行き交う人々の何気無い表情が、ユーモラスな表現で描かれている。文字通り、パリの浮世絵といった趣き。
モーリス・ドニのアムールというリトグラフ集。パステルカラーで、恋人の様々なシーンが、ドニ特有の平面的で、装飾的な絵で描かれる。
ドニが婚約者のマルトをモデルに、自分たちの関係をそのまま描いたような作品。これほど美しい作品には、そうめったには、お目にかかれない。
吉岡徳仁ークリスタライズ(東京都現代美術館)
改装された、パリのオルセー美術館に、ガラスのベンチ、Walter Blockが展示されていることで一躍名前がポピュラーになった、吉岡徳仁。
会場の入り口には、クリスタライズ、という展覧会のテーマをイメージした、クリスタルを想像させる、不思議な細いストローのようなものが、うず高く積み重なり、会場を覆っている。
その不思議なオブジェに導かれるように、来場者は、吉岡の世界に引き込まれて行く。
水槽の中で、自然に成長する結晶をそのまま絵画作品とした、白鳥の湖。チャイコフスキーの音楽を聴かせながら、その結晶の絵画は、生み出されて行ったという。
アンリ・マチスのロザリオ礼拝堂に感銘を受けて製作された、虹の教会。吹き抜けの空間に設置され、圧倒的な存在界を誇る。
500個のクリスタルプリズムでできているステンドグラスは、室内に、その瞬間にしか現れない、虹の世界を作り出す。
自然の蜂の巣の構造は、ハニカム構造といわれ、軽くて高い強度を保つ。そこにヒントを得て紙だけで作られた、ハニーポップという椅子。勿論、人が座ることもできる。
吉岡の作品は、結晶、光など、いずれも自然の中にある構造などをヒントにしている。
現代という時代が、失いかけていて、しかも求められているものが、そこに表現されているように思えた。
会場の入り口には、クリスタライズ、という展覧会のテーマをイメージした、クリスタルを想像させる、不思議な細いストローのようなものが、うず高く積み重なり、会場を覆っている。
その不思議なオブジェに導かれるように、来場者は、吉岡の世界に引き込まれて行く。
水槽の中で、自然に成長する結晶をそのまま絵画作品とした、白鳥の湖。チャイコフスキーの音楽を聴かせながら、その結晶の絵画は、生み出されて行ったという。
アンリ・マチスのロザリオ礼拝堂に感銘を受けて製作された、虹の教会。吹き抜けの空間に設置され、圧倒的な存在界を誇る。
500個のクリスタルプリズムでできているステンドグラスは、室内に、その瞬間にしか現れない、虹の世界を作り出す。
自然の蜂の巣の構造は、ハニカム構造といわれ、軽くて高い強度を保つ。そこにヒントを得て紙だけで作られた、ハニーポップという椅子。勿論、人が座ることもできる。
吉岡の作品は、結晶、光など、いずれも自然の中にある構造などをヒントにしている。
現代という時代が、失いかけていて、しかも求められているものが、そこに表現されているように思えた。
うさぎスマッシュ展(東京都現代美術館)
東京の木場にある、東京都現代美術館で開催された展覧会。
何ともふざけた名前の展覧会だが、うさぎは、ルイス・キャロルの不思議の国のアリスに登場するうさぎを意味し、ワンダーランドに誘う者を意味し、スマッシュは、常識的な固定概念にたいする、一撃を表すという。なるほど。
サブタイトルには、世界に触れるデザイン、とある。
デザイン思考という言葉が、ビジネスの世界では、最近よく使われているが、この展覧会では、この世の中自体、社会を、どのようにデザインするか、をーテーマにしている。
OMA*AMOのEUバーコードは、EUの各国の国旗の色をバーコードのあしらってデザイン、それを実際のEUの首脳会議でも、その他のデザインと合わせて、実際に使用されたという。
マイケル・リーの住居シリーズは、大規模な集合住宅から、普通の住宅までを、シンプルな上部からのシルエットで表現し、展示する。
その中に、アンネ・フランクの住宅もあった。抽象化されている図のはずだが、それを受け取る人物の中では、必ずしも、抽象化されては受け止められない。
リヴィタル・コーエン&テューア・ヴァン・バーレンのライフサポート。うさぎのぬいぐるみや、 チューブや機器などで、生き物の仕組みを表している。
作品自体には、これといって目新しいものはないように思えたが、自分だったら、どのように、この世界をデザインするだろうか、といろいろ妄想する機会を得ることができた。
何ともふざけた名前の展覧会だが、うさぎは、ルイス・キャロルの不思議の国のアリスに登場するうさぎを意味し、ワンダーランドに誘う者を意味し、スマッシュは、常識的な固定概念にたいする、一撃を表すという。なるほど。
サブタイトルには、世界に触れるデザイン、とある。
デザイン思考という言葉が、ビジネスの世界では、最近よく使われているが、この展覧会では、この世の中自体、社会を、どのようにデザインするか、をーテーマにしている。
OMA*AMOのEUバーコードは、EUの各国の国旗の色をバーコードのあしらってデザイン、それを実際のEUの首脳会議でも、その他のデザインと合わせて、実際に使用されたという。
マイケル・リーの住居シリーズは、大規模な集合住宅から、普通の住宅までを、シンプルな上部からのシルエットで表現し、展示する。
その中に、アンネ・フランクの住宅もあった。抽象化されている図のはずだが、それを受け取る人物の中では、必ずしも、抽象化されては受け止められない。
リヴィタル・コーエン&テューア・ヴァン・バーレンのライフサポート。うさぎのぬいぐるみや、 チューブや機器などで、生き物の仕組みを表している。
作品自体には、これといって目新しいものはないように思えたが、自分だったら、どのように、この世界をデザインするだろうか、といろいろ妄想する機会を得ることができた。
2013年12月8日日曜日
植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ 写真であそぶ(東京都写真美術館)
日本とフランスの、有名なアマチュア写真家をテーマにした展覧会。
たまたま、前日に植田正治の展覧会を見ており、同じ作品が多数あった。
そのせいもあり、植田よりも、ラルティーグの作品の方が、印象が強かった。
ラルティーグの作品は、人物を写したものが多い。被写体の人物は、いずれもラルティーグの友人など、身近にいた人々だったようだ。
プールに飛び込む瞬間、飛び上がった瞬間、恋人同士がじゃれあっている瞬間など、ラルティーグの写真には、スナップショットが持つ、躍動感が感じられる。
写真に焼き付けられた人々の表情は、実に自然。親しい人の前だからこそ、できるそうした表情。おそらく、撮影していたラルティーグも、笑顔だったのではないか。
逆に、植田の作品は、あらかじめ本人によって計画され、被写体の人物にもその意図が十分に伝えられているものが多い。
対照的な二人の作品だが、共通しているのは、写真を撮ることへの喜びが感じられることだろうか。
とにかく、この二人のアマチュア写真家の作品は、会場を訪れた人に、何はともあれ、まずはカメラを持って、表に飛び出し、何かを撮ってみろ、と叫んでいるように思えた。
たまたま、前日に植田正治の展覧会を見ており、同じ作品が多数あった。
そのせいもあり、植田よりも、ラルティーグの作品の方が、印象が強かった。
ラルティーグの作品は、人物を写したものが多い。被写体の人物は、いずれもラルティーグの友人など、身近にいた人々だったようだ。
プールに飛び込む瞬間、飛び上がった瞬間、恋人同士がじゃれあっている瞬間など、ラルティーグの写真には、スナップショットが持つ、躍動感が感じられる。
写真に焼き付けられた人々の表情は、実に自然。親しい人の前だからこそ、できるそうした表情。おそらく、撮影していたラルティーグも、笑顔だったのではないか。
逆に、植田の作品は、あらかじめ本人によって計画され、被写体の人物にもその意図が十分に伝えられているものが多い。
対照的な二人の作品だが、共通しているのは、写真を撮ることへの喜びが感じられることだろうか。
とにかく、この二人のアマチュア写真家の作品は、会場を訪れた人に、何はともあれ、まずはカメラを持って、表に飛び出し、何かを撮ってみろ、と叫んでいるように思えた。
古径と土牛(山種美術館)
小林古径の生誕130年を記念し、その弟弟子に当たる奥村土牛との関係をテーマにした、山種美術館での展覧会。
小林古径は、対象を線でしっかりと縁取りした上で、繊細な筆使いで、美しい絵画世界をつくりだす。
一方の奥村土牛は、あまり線は使わず、ぼんやりとした雰囲気の中で、少し幻想的な雰囲気を帯びた世界をつくり出す。
一見、対照的に見える表現方法を持った二人が、兄弟弟子だったというのは、興味深い。
土牛は、兄弟子の古径の真面目な性格を、心から尊敬していたようだ。
古径は、土牛に対して、絶えず絵のことを考えるようにすること、5分以上、絵のことを忘れることがないように、と語ったという。
5分以上、絵のことを忘れることのない人生とは、一体どんな人生なのだろう?
生真面目な性格の古径だが、不思議と、その絵には、独特のユーモアが感じられる。猿曳、という作品では、右の画軸猿の紐を持っている人物が、左には、嬉しそうに飛び回る猿がシンプルに描かれている。
西行法師、という作品では、西行が褒美としてもらった銀製の猫の置物を、子供に与える、という有名なエピソードを描いている。猫の置物を貰って、走り去る子供の描写には、思わず頬が緩んでしまう。
土牛の鳴門という作品は、文字通り、鳴門海峡の渦を描いているが、海の色の緑と、渦を描いている白の対比が美しい。
古径の死後、土牛は中尊寺の仏像を描いた。地元の少女をモデルにしたというが、どうも、私には、古径の面影が映されているように見えた。
小林古径は、対象を線でしっかりと縁取りした上で、繊細な筆使いで、美しい絵画世界をつくりだす。
一方の奥村土牛は、あまり線は使わず、ぼんやりとした雰囲気の中で、少し幻想的な雰囲気を帯びた世界をつくり出す。
一見、対照的に見える表現方法を持った二人が、兄弟弟子だったというのは、興味深い。
土牛は、兄弟子の古径の真面目な性格を、心から尊敬していたようだ。
古径は、土牛に対して、絶えず絵のことを考えるようにすること、5分以上、絵のことを忘れることがないように、と語ったという。
5分以上、絵のことを忘れることのない人生とは、一体どんな人生なのだろう?
生真面目な性格の古径だが、不思議と、その絵には、独特のユーモアが感じられる。猿曳、という作品では、右の画軸猿の紐を持っている人物が、左には、嬉しそうに飛び回る猿がシンプルに描かれている。
西行法師、という作品では、西行が褒美としてもらった銀製の猫の置物を、子供に与える、という有名なエピソードを描いている。猫の置物を貰って、走り去る子供の描写には、思わず頬が緩んでしまう。
土牛の鳴門という作品は、文字通り、鳴門海峡の渦を描いているが、海の色の緑と、渦を描いている白の対比が美しい。
古径の死後、土牛は中尊寺の仏像を描いた。地元の少女をモデルにしたというが、どうも、私には、古径の面影が映されているように見えた。
2013年12月7日土曜日
幕末の北方探検家 松浦武四郎(静嘉堂文庫美術館)
松浦武四郎のことは、その名前を微かに聞いたことがある、程度にしか知らなかった。
武蔵野の面影残る森林の奥に佇む静嘉堂文庫美術館で開催された、この展覧会では、その松浦武四郎について、詳しく知ることができた。
この男、全く、とんでもない人物だった。
子供の頃から、とにかく遠くに行くのが好きだったらしい。よくふらっと家を出て、何日も帰ってこないことなど、ざらだったという。
成人すると、日本全国を歩き回るようになり、当時はまだ未開の地であった蝦夷地方を探検。その成果としての地図が展示されていたが、これが細かい。
一本一本の川、川の名前、その周りの村の名前など、実に細かく描かれている。
明治維新後、そうした実績を買われ、明治政府によっても北海道の開拓に関連した。何より、北海道という名前は、松浦が明治政府に進言し、つけられた名前だという。
松浦は、また古物の収集家、好古家としても知られていた。中国の青銅器、陶磁器、日本の古い土器や銅鏡、近世の工芸品など、実にバラエティにとんだ品々を収集していた。
松浦がコレクションを行うようになったきっかけは、幼い時に、地元の松坂にある本居宣長の鈴屋の古鈴のコレクションを見て、それがきっかけだったという。
妖怪図などで名高い河鍋暁斎とも信仰があり、晩年、自分を仏に見立てて、仏の涅槃図を描かせている。そこには、松浦が実際に収集した仏像など20点ほどのコレクションが、そっくりに描かれている。
また、引退してから、わずか一畳の茶室を造ろうとして、日本全国の寺社に、古木の提供を依頼した。出雲大社を初め、全国の有名な寺社から古木が集められたという。
松浦武四郎というこの桁外れの人物は、まさに、明治という時代を象徴するような人物だった。
武蔵野の面影残る森林の奥に佇む静嘉堂文庫美術館で開催された、この展覧会では、その松浦武四郎について、詳しく知ることができた。
この男、全く、とんでもない人物だった。
子供の頃から、とにかく遠くに行くのが好きだったらしい。よくふらっと家を出て、何日も帰ってこないことなど、ざらだったという。
成人すると、日本全国を歩き回るようになり、当時はまだ未開の地であった蝦夷地方を探検。その成果としての地図が展示されていたが、これが細かい。
一本一本の川、川の名前、その周りの村の名前など、実に細かく描かれている。
明治維新後、そうした実績を買われ、明治政府によっても北海道の開拓に関連した。何より、北海道という名前は、松浦が明治政府に進言し、つけられた名前だという。
松浦は、また古物の収集家、好古家としても知られていた。中国の青銅器、陶磁器、日本の古い土器や銅鏡、近世の工芸品など、実にバラエティにとんだ品々を収集していた。
松浦がコレクションを行うようになったきっかけは、幼い時に、地元の松坂にある本居宣長の鈴屋の古鈴のコレクションを見て、それがきっかけだったという。
妖怪図などで名高い河鍋暁斎とも信仰があり、晩年、自分を仏に見立てて、仏の涅槃図を描かせている。そこには、松浦が実際に収集した仏像など20点ほどのコレクションが、そっくりに描かれている。
また、引退してから、わずか一畳の茶室を造ろうとして、日本全国の寺社に、古木の提供を依頼した。出雲大社を初め、全国の有名な寺社から古木が集められたという。
松浦武四郎というこの桁外れの人物は、まさに、明治という時代を象徴するような人物だった。
生誕100年!植田正治のつくりかた(東京ステーションギャラリー)
アマチュア写真家でありながら、鳥取砂丘で撮影した、不思議な写真で名高い植田正治の生誕100年を記念した、東京ステーションギャラリーの展覧会。
家族を、自分の思う通りに砂漠に並ばせて撮影した、植田を代表する写真の数々。家族だけでなく、さまざまなパターンの砂漠での写真がある。
撮影された年代を見て驚いた。1945年の写真が多い。戦後間も無くだろうか、それにしても、戦後の混乱期といった、そうした時代の厳しさは、全く感じさせない。
植田というと、モノクロ写真が思い浮かぶが、会場にはカラー写真が多く展示されていて、意外だった。
ところどころ、写真と写真の間に、植田の言葉が紹介されている。
旅行が嫌いで、仕事以外では、ほとんど鳥取の地を離れなかったこと。生涯、アマチュアであることを誇りにし、他の写真家のアイデアを、盗むことを厭わなかったことなど、写真だけではわからない、植田の考えなどがわかり、面白かった。
砂漠で撮影した家族の写真や、砂丘モードの写真は、やはりインパクトがある。
しかし、植田は、その後も、いろいろなタイプの写真にチャレンジしていた。
そのチャレンジの中にこそ、アマチュア写真家としての植田の本質が、現れているように思えた。
家族を、自分の思う通りに砂漠に並ばせて撮影した、植田を代表する写真の数々。家族だけでなく、さまざまなパターンの砂漠での写真がある。
撮影された年代を見て驚いた。1945年の写真が多い。戦後間も無くだろうか、それにしても、戦後の混乱期といった、そうした時代の厳しさは、全く感じさせない。
植田というと、モノクロ写真が思い浮かぶが、会場にはカラー写真が多く展示されていて、意外だった。
ところどころ、写真と写真の間に、植田の言葉が紹介されている。
旅行が嫌いで、仕事以外では、ほとんど鳥取の地を離れなかったこと。生涯、アマチュアであることを誇りにし、他の写真家のアイデアを、盗むことを厭わなかったことなど、写真だけではわからない、植田の考えなどがわかり、面白かった。
砂漠で撮影した家族の写真や、砂丘モードの写真は、やはりインパクトがある。
しかし、植田は、その後も、いろいろなタイプの写真にチャレンジしていた。
そのチャレンジの中にこそ、アマチュア写真家としての植田の本質が、現れているように思えた。
2013年12月1日日曜日
日本のデザインミュージアム実現にむけて展(21_21 DESIGN SIGHT)
六本木にある、東京ミッドタウンの21-21DESIGN SIGHTで開催された展覧会。
2003年の会館以来、これまでに開催された23回の展覧会を4つのテーマにまとめ、この施設のスタートの一つの意図であった、日本におけるデザインミュージアムの開設を、改めてアピールするという趣意。
この施設も、すでに立派なデザインミュージアムだと思えるが。
最初のスペースは、CREATINGと題し、ルーシー・リィー、田中一光、倉俣史朗など、デザイナーの先人達をテーマにした展覧会を振り返っている。
続いて、広い大きなスペースは、FINDING、MAKING、LINKING、3つのテーマに分けられていた。
デザイン『あ』展、チョコレートをテーマにした展覧会。ペットボトルを効果的に使った展示で印象に残る水についての展覧会、東北の様々な民芸品や生活用品をテーマにした展覧会などなど。
こうして見て行くと、私が実際に足を運んだのは、全体の半分ほどだろうか。意外と通っているようにも、意外と行っていなかったようにも思える。
これまで訪れたことがある人にとっては、過去を振り返ることができるいい経験になるかもしれないが、初めて訪れた人にとっては、入場料に見合う価値があったのだろうか?
と考えてしまう内容の展覧会だった。
2003年の会館以来、これまでに開催された23回の展覧会を4つのテーマにまとめ、この施設のスタートの一つの意図であった、日本におけるデザインミュージアムの開設を、改めてアピールするという趣意。
この施設も、すでに立派なデザインミュージアムだと思えるが。
最初のスペースは、CREATINGと題し、ルーシー・リィー、田中一光、倉俣史朗など、デザイナーの先人達をテーマにした展覧会を振り返っている。
続いて、広い大きなスペースは、FINDING、MAKING、LINKING、3つのテーマに分けられていた。
デザイン『あ』展、チョコレートをテーマにした展覧会。ペットボトルを効果的に使った展示で印象に残る水についての展覧会、東北の様々な民芸品や生活用品をテーマにした展覧会などなど。
こうして見て行くと、私が実際に足を運んだのは、全体の半分ほどだろうか。意外と通っているようにも、意外と行っていなかったようにも思える。
これまで訪れたことがある人にとっては、過去を振り返ることができるいい経験になるかもしれないが、初めて訪れた人にとっては、入場料に見合う価値があったのだろうか?
と考えてしまう内容の展覧会だった。
印象派を超えてー点描の画家たち(新国立美術館)
オランダにあるクレラー=ミュラー美術館の作品を中心に、後期印象、特に分割主義をテーマにした展覧会。
印象派における点描画の手法が、後期印象派を通じてオランダに渡り、ゴッホなどを通し、やがてモンドリアンの抽象的な絵画を生み出すまでを、様々な作品でその流れを辿ることができる。
会場の最初に展示されていたのは、モネの作品だった。色を線で描いて行くその手法は、その後の分割主義者たちに大きな影響を与えた。
スーラの点描画はさすがに素晴らしい。微妙な空の色合いを、スーラの点描画は見事に表現している。
スーラは、裕福な家庭に生まれ、他の多くの同時代の画家たちと違い、生活の心配をすることなく、色彩の研究と絵の作成に没頭していたが、わずか31才で他界してしまった。
しかし、その短い生涯を通じて、スーラの残したものは、あまりにも大きい。
この展覧会に展示された油絵はわずか3点だったが、十分、スーラの世界を堪能することができる。
点描画は、一般的には、色彩は上手く表現できるが、点で構成されているが故に、動きを表現することは、不得意だと言われていた。
しかし、点でなく、線を使うことで、絵を躍動的に描くことができる。ゴッホの種を撒く人、という作品は、点と線の描写を組み合わせ、色彩感が豊かで、しかも種を撒いている人の躍動感を、同時に表現している。
この展覧会は、宣伝では、どうしても、有名な、ゴッホ、スーラ、モンドリアンを前面に出している。しかし、見所は、日本ではあまり紹介される機会がない、オランダの後期印象派の画家たちが紹介されていること。
レイセルベルへ、ド・ヴェルド、トーロップ、といったオランダの画家たちは、忠実に、スーラの分割主義を継承している。中でも、ブリッカーという象徴主義の特徴を加えた画家の作品が、印象的だった。
そして、最後はピエト・モンドリアンのコーナー。
かつて、もっとも好きな画家の一人だったモンドリアン。最近は、少し熱が冷めていたが、久し振りに、まとまった数の作品を楽しんだ。
スーラの分割主義を友人を通じて学んだモンドリアンは、当時流行していた、神秘的な思想神智主義などの影響を受けながら、より抽象度を深めて行って、あの線と色だけの世界を作り上げて行く。その画風の変化を、このコーナーで追体験できた。
印象派における点描画の手法が、後期印象派を通じてオランダに渡り、ゴッホなどを通し、やがてモンドリアンの抽象的な絵画を生み出すまでを、様々な作品でその流れを辿ることができる。
会場の最初に展示されていたのは、モネの作品だった。色を線で描いて行くその手法は、その後の分割主義者たちに大きな影響を与えた。
スーラの点描画はさすがに素晴らしい。微妙な空の色合いを、スーラの点描画は見事に表現している。
スーラは、裕福な家庭に生まれ、他の多くの同時代の画家たちと違い、生活の心配をすることなく、色彩の研究と絵の作成に没頭していたが、わずか31才で他界してしまった。
しかし、その短い生涯を通じて、スーラの残したものは、あまりにも大きい。
この展覧会に展示された油絵はわずか3点だったが、十分、スーラの世界を堪能することができる。
点描画は、一般的には、色彩は上手く表現できるが、点で構成されているが故に、動きを表現することは、不得意だと言われていた。
しかし、点でなく、線を使うことで、絵を躍動的に描くことができる。ゴッホの種を撒く人、という作品は、点と線の描写を組み合わせ、色彩感が豊かで、しかも種を撒いている人の躍動感を、同時に表現している。
この展覧会は、宣伝では、どうしても、有名な、ゴッホ、スーラ、モンドリアンを前面に出している。しかし、見所は、日本ではあまり紹介される機会がない、オランダの後期印象派の画家たちが紹介されていること。
レイセルベルへ、ド・ヴェルド、トーロップ、といったオランダの画家たちは、忠実に、スーラの分割主義を継承している。中でも、ブリッカーという象徴主義の特徴を加えた画家の作品が、印象的だった。
そして、最後はピエト・モンドリアンのコーナー。
かつて、もっとも好きな画家の一人だったモンドリアン。最近は、少し熱が冷めていたが、久し振りに、まとまった数の作品を楽しんだ。
スーラの分割主義を友人を通じて学んだモンドリアンは、当時流行していた、神秘的な思想神智主義などの影響を受けながら、より抽象度を深めて行って、あの線と色だけの世界を作り上げて行く。その画風の変化を、このコーナーで追体験できた。
天井の舞 飛天の美(サントリー美術館)
サントリー美術館で開催された飛天のイメージを巡る、壮大なテーマの展覧会。
2、3世紀のガンダーラ地方の石の彫刻には、空を飛ぶ人のイメージが彫られている。ヨーロッパの天使とも繫がるそのイメージは、東アジアで、独自の展開を遂げることになる。
天女は、楽器を演奏したり、歌を歌う楽人のイメージと重なった。日本の雅楽の名でも、羽をつけ美しい衣装を着た人物画踊るという形式が見られる。
唐時代の敦煌の壁画を剥ぎ取ったといわれる壁画の一部。背中の羽根の羽毛の一本一本までが、細かい筆さばきで描かれている。
有名な、法隆寺金堂の飛天の壁画は、あきらかに中国の影響を受けている。
奈良国立博物館の14世紀の当麻曼荼羅の複写の中では、羽根を持った楽人たちが、歌い、踊る。
阿弥陀信仰来迎図の中では、飛天のみならず、阿弥陀自身が空を飛んで信者の元を飛んでくる。福島美術館の重要文化財になっている阿弥陀来迎図では、そうした仏たちが金色で描かれている。
禅の影響が強いせいか、仏教というと、地味なイメージが強いが、昔は、仏教とは大陸からもたらされた先進的なものであり、華やかなイメージに包まれていたのかもしれない。
この展覧会の目玉は、宇治の平等院の本堂の壁に飾られている飛天の展示。当時の様子を再現した天女は、原色で色鮮やかに彩色されている。
現在のくすんだ色合いからは、渋さを感じるが、作られた当初は、色鮮やかで、華やかな仏の世界が、この世に現れたように感じられたのだろう。
そこは、死んだ後に訪れる浄土の世界。西洋でいえば天国。絢爛豪華な世界であるべきだろう。
2、3世紀のガンダーラ地方の石の彫刻には、空を飛ぶ人のイメージが彫られている。ヨーロッパの天使とも繫がるそのイメージは、東アジアで、独自の展開を遂げることになる。
天女は、楽器を演奏したり、歌を歌う楽人のイメージと重なった。日本の雅楽の名でも、羽をつけ美しい衣装を着た人物画踊るという形式が見られる。
唐時代の敦煌の壁画を剥ぎ取ったといわれる壁画の一部。背中の羽根の羽毛の一本一本までが、細かい筆さばきで描かれている。
有名な、法隆寺金堂の飛天の壁画は、あきらかに中国の影響を受けている。
奈良国立博物館の14世紀の当麻曼荼羅の複写の中では、羽根を持った楽人たちが、歌い、踊る。
阿弥陀信仰来迎図の中では、飛天のみならず、阿弥陀自身が空を飛んで信者の元を飛んでくる。福島美術館の重要文化財になっている阿弥陀来迎図では、そうした仏たちが金色で描かれている。
禅の影響が強いせいか、仏教というと、地味なイメージが強いが、昔は、仏教とは大陸からもたらされた先進的なものであり、華やかなイメージに包まれていたのかもしれない。
この展覧会の目玉は、宇治の平等院の本堂の壁に飾られている飛天の展示。当時の様子を再現した天女は、原色で色鮮やかに彩色されている。
現在のくすんだ色合いからは、渋さを感じるが、作られた当初は、色鮮やかで、華やかな仏の世界が、この世に現れたように感じられたのだろう。
そこは、死んだ後に訪れる浄土の世界。西洋でいえば天国。絢爛豪華な世界であるべきだろう。
2013年11月24日日曜日
井戸茶碗 戦国武将が憧れたうつわ(根津美術館)
井戸茶碗。
朝鮮半島では、一般の民衆が使っていたといわれ、くすんだ、黄色がかったクリーム色。決して美しいとはいえない。
しかし、日本の茶の世界では、それは、もっとも格の高い茶碗であると考えられている。
根津美術館で行われた、その井戸茶碗の展覧会。
ぱっと、会場を眺めると、ほとんど同じように見える、くすんだ色の茶碗がならんでいるだけ。
しかし、近づいて見ると、そのひとつひとつの茶碗は、色合い、形、表面状に偶然つけられたひび割れ、釉薬のかかり具合など、微妙な違いが見えてくる。
茶人たちは、その微妙な違いを見いだして、評価し、ひとつひとつの器に名前を付けてきた。本願寺、金森、巌、対馬・・・。
茶の世界とはまったく無縁の人から見れば、どれも古びた同じような茶碗にしか見えず、その違いを見分けることに、何の意味も見いださないだろう。まるで、クレイジーなこととしか、見えないかもしれない。
しかし、日本の茶の世界の本質は、まさしく、そのクレイジーさにあるのだろう。
喜左衛門という名の国宝の大井戸茶碗は、他の作品とは別に、それだけでガラスケースに収められ展示されていた。
国宝ということから、予見をもってみるからだろうか、他の器と比べると、野性的で、荒ぶるような、そんな印象を受けた。
井戸茶碗は、16世紀以降に朝鮮半島からもたらされたものだが、今日の韓国では、ほとんど残されていないという。
しかも、この美しくもない、何の変哲もない器に、韓国の人々は、何の興味も持っていないともいう。
そのことが、余計、この井戸茶碗というものがどんなものであるかを、物語っているように思える。
朝鮮半島では、一般の民衆が使っていたといわれ、くすんだ、黄色がかったクリーム色。決して美しいとはいえない。
しかし、日本の茶の世界では、それは、もっとも格の高い茶碗であると考えられている。
根津美術館で行われた、その井戸茶碗の展覧会。
ぱっと、会場を眺めると、ほとんど同じように見える、くすんだ色の茶碗がならんでいるだけ。
しかし、近づいて見ると、そのひとつひとつの茶碗は、色合い、形、表面状に偶然つけられたひび割れ、釉薬のかかり具合など、微妙な違いが見えてくる。
茶人たちは、その微妙な違いを見いだして、評価し、ひとつひとつの器に名前を付けてきた。本願寺、金森、巌、対馬・・・。
茶の世界とはまったく無縁の人から見れば、どれも古びた同じような茶碗にしか見えず、その違いを見分けることに、何の意味も見いださないだろう。まるで、クレイジーなこととしか、見えないかもしれない。
しかし、日本の茶の世界の本質は、まさしく、そのクレイジーさにあるのだろう。
喜左衛門という名の国宝の大井戸茶碗は、他の作品とは別に、それだけでガラスケースに収められ展示されていた。
国宝ということから、予見をもってみるからだろうか、他の器と比べると、野性的で、荒ぶるような、そんな印象を受けた。
井戸茶碗は、16世紀以降に朝鮮半島からもたらされたものだが、今日の韓国では、ほとんど残されていないという。
しかも、この美しくもない、何の変哲もない器に、韓国の人々は、何の興味も持っていないともいう。
そのことが、余計、この井戸茶碗というものがどんなものであるかを、物語っているように思える。
ウィリアム・モリス 美しい生活(府中市立美術館)
紅葉が美しい、府中の森公園。その公園の奥の方に、ひっそりと佇む、府中市立美術館。私の好きな美術館の一つ。そこで、ウィリアム・モリスの展覧会が開催された。
最初のコーナーは、セント・マーティン教会などイギリス各地の、モリスらデザインが関係したステンドクラスの美しい写真が展示されていた。
モリスの他、ロセッティ、バーン=ジョーンズなど、ラファエロ前派の面々がデザインしたステンドクラスは、小さな写真だけだが、実に美しい。
モリスが理想とした中世の世界が、会場に再現したかのようだった。
柳、ひなぎく、るりはこべなどの植物や、小鳥などの動物をあしらった、モリスがデザインした、美しい壁紙の数々。
中でも、展覧会の目玉と言える、いちご泥棒、という不思議な名前の布生地へのプリントは、難しいと言われるインディゴの青の色の染色など、全部で24色の版木で染められている高価なもの。
モリスは、産業革命の、機械的な工業品を嫌い、それ以前にあった、手作りの暖かい工芸品の復活を夢見たが、皮肉にも、そうした工芸品は、一般の民衆が手にするには、あまりに高価な物になってしまった。
美しいデザインがテーマの展覧会とあって、殺風景な、いつもの絵画などの展覧会とは違い、展示場の装飾も、モリスの世界を再現すべく、凝ったものだった。
モリスのその美しい空間を抜け、現実の世界に舞い戻る。紅葉の森を、モリスの美しい世界の余韻を感じながら、会場を後にした。
最初のコーナーは、セント・マーティン教会などイギリス各地の、モリスらデザインが関係したステンドクラスの美しい写真が展示されていた。
モリスの他、ロセッティ、バーン=ジョーンズなど、ラファエロ前派の面々がデザインしたステンドクラスは、小さな写真だけだが、実に美しい。
モリスが理想とした中世の世界が、会場に再現したかのようだった。
柳、ひなぎく、るりはこべなどの植物や、小鳥などの動物をあしらった、モリスがデザインした、美しい壁紙の数々。
中でも、展覧会の目玉と言える、いちご泥棒、という不思議な名前の布生地へのプリントは、難しいと言われるインディゴの青の色の染色など、全部で24色の版木で染められている高価なもの。
モリスは、産業革命の、機械的な工業品を嫌い、それ以前にあった、手作りの暖かい工芸品の復活を夢見たが、皮肉にも、そうした工芸品は、一般の民衆が手にするには、あまりに高価な物になってしまった。
美しいデザインがテーマの展覧会とあって、殺風景な、いつもの絵画などの展覧会とは違い、展示場の装飾も、モリスの世界を再現すべく、凝ったものだった。
モリスのその美しい空間を抜け、現実の世界に舞い戻る。紅葉の森を、モリスの美しい世界の余韻を感じながら、会場を後にした。
2013年11月23日土曜日
カイユボット展ー都市の印象派(ブリヂストン美術館)
カイユボットというと、印象派展などで、モネやルノワールといった巨匠を横目で見ながら、その片隅に1点か2点が紹介される、という印象の画家でしかなかった。
東京のブリジストン美術館で開催されたこの展覧会では、はじめて、まとまってカイユボットの作品を見る機会を得た。日本で初めてとなる回顧展ということだ。
その感想を一言でいえば、カイユボットという画家は、何とも捉えどころがない画家だなあ、ということになるだろうか。
会場の入り口に、3枚の自画像があった。
彼を写した写真と比べて見ると、そっくりで、対象をそのまま捉えようした、この画家の特徴が見て取れる。
人物を描いた肖像画は、いずれも、友人や親戚など、身近な人々を描いた作品が多い。やや粗いタッチながら、対象人物を決して美化せずに、ありのままの姿を表現しているようだ。一言でいえば、上手い。
都市の画家、というこの展覧会のサブタイトルが表すように、パリを描いた作品のコーナーでは、大作が並べられ、展覧会のハイライトとなっていた。
”ヨーロッパ橋”と”建物のペンキ塗り”という2つの大作は、パリという大都会における、様々な階層の人々の人間模様を、一つの場面に集約している。
”イエール川のペリソワール”という作品は、川で独り乗りのボートを漕いでいる人々を描いている。漕ぎ手の麦わら帽子と、オールの先の丸くなった部分が、形が似ていて、同じ黄色っぽい色で描かれ、その不思議な対比が面白い。
カイユボットは、若くして親の財産を引き継ぎ、絵に没頭できる環境を得た。同時に、知り合いでもあったモネやルノワールらの作品を購入し、他の印象派の画家たちの生活を支えていた、という一面も持っていた。
カイユボットの作品に、どこかのんびりとした、他の印象派に感じる緊張感や緊迫感が感じられないのは、そうした状況があったからなのかもしれない。
自身も、印象派展に何度も出展しており、会場には、その印象派展のカタログも合わせて展示されていた。
画家としての力量は、この展覧会を見た人々であれば、誰も納得するに違いない。
受け継いだ財産で購入したパリ郊外の別荘の周辺を描いた風景画では、モネやルノワールの、点描画のような独特の風景画の手法を使い、のどかな郊外の農村風景を多数描いている。
会場には、弟で写真家でもあったマルシャルの写した、カイユボットは勿論、その家族や、当時のフランスの風景を写した、多くの写真も飾られていた。
中でも興味深かったのは、モネやルノワールの若き日に描いた場所として有名な、アルジャントゥイユの写真が何枚かあったこと。写真からの印象は、モネやルノワールの絵画とは、少し違っていた。
東京のブリジストン美術館で開催されたこの展覧会では、はじめて、まとまってカイユボットの作品を見る機会を得た。日本で初めてとなる回顧展ということだ。
その感想を一言でいえば、カイユボットという画家は、何とも捉えどころがない画家だなあ、ということになるだろうか。
会場の入り口に、3枚の自画像があった。
彼を写した写真と比べて見ると、そっくりで、対象をそのまま捉えようした、この画家の特徴が見て取れる。
人物を描いた肖像画は、いずれも、友人や親戚など、身近な人々を描いた作品が多い。やや粗いタッチながら、対象人物を決して美化せずに、ありのままの姿を表現しているようだ。一言でいえば、上手い。
都市の画家、というこの展覧会のサブタイトルが表すように、パリを描いた作品のコーナーでは、大作が並べられ、展覧会のハイライトとなっていた。
”ヨーロッパ橋”と”建物のペンキ塗り”という2つの大作は、パリという大都会における、様々な階層の人々の人間模様を、一つの場面に集約している。
”イエール川のペリソワール”という作品は、川で独り乗りのボートを漕いでいる人々を描いている。漕ぎ手の麦わら帽子と、オールの先の丸くなった部分が、形が似ていて、同じ黄色っぽい色で描かれ、その不思議な対比が面白い。
カイユボットは、若くして親の財産を引き継ぎ、絵に没頭できる環境を得た。同時に、知り合いでもあったモネやルノワールらの作品を購入し、他の印象派の画家たちの生活を支えていた、という一面も持っていた。
カイユボットの作品に、どこかのんびりとした、他の印象派に感じる緊張感や緊迫感が感じられないのは、そうした状況があったからなのかもしれない。
自身も、印象派展に何度も出展しており、会場には、その印象派展のカタログも合わせて展示されていた。
画家としての力量は、この展覧会を見た人々であれば、誰も納得するに違いない。
受け継いだ財産で購入したパリ郊外の別荘の周辺を描いた風景画では、モネやルノワールの、点描画のような独特の風景画の手法を使い、のどかな郊外の農村風景を多数描いている。
会場には、弟で写真家でもあったマルシャルの写した、カイユボットは勿論、その家族や、当時のフランスの風景を写した、多くの写真も飾られていた。
中でも興味深かったのは、モネやルノワールの若き日に描いた場所として有名な、アルジャントゥイユの写真が何枚かあったこと。写真からの印象は、モネやルノワールの絵画とは、少し違っていた。
2013年11月17日日曜日
描かれた風景(東京都国立博物館)
上野の東京都国立博物館で開催された、江戸時代の風景画を中心にした、小規模な展覧会。
同時に開催されていた、上海博物館の中国絵画の特別展と、セットのような形で開催された。
会場は、本館の2階にある、小さな特別室2つだけを利用したものだったが、展示された作品は、あまり普段は目にする機会がない、珍しいものばかりだった。
池大雅が、松島の風景を瀟湘八景図になぞらえて、長い巻物に描いた作品。
瀟湘八景図は、日本の絵師たちにとっては、風景画のひとつのモデルだった。湖の部分は、何も描かずに、余白で残す。そうした描き方も、日本の絵師たちには、受け入れやすかったのだろう。
松平定信のお抱え絵師だった谷文晁が、パトロンの定信に従って訪れた土地の風景を、西洋絵画の技法を一部に取り入れながら描いた、相州名勝図帖。
数多くの絵画技法をマスターしていた谷文晁らしい、写実的な風景画だ。
個性的な絵で知られる長沢蘆雪が、厳島神社とその周辺の風景を描いた、宮島八景図。いわゆる蘆雪らしさを抑えて、依頼者の意図を忠実に描いた、といわれている。
普段、あまり目にする機会がない、朝鮮王朝時代のいくつかの風景絵画。
江戸時代の日本では、朝鮮の絵画も、中国の絵画として見ていたという。一見しただけでは、これらが朝鮮で描かれたものとは、確かにわからない。当時の、東アジアの文化的な関係が、よく伺える。
小規模ながら、見所の多い展覧会だった。
同時に開催されていた、上海博物館の中国絵画の特別展と、セットのような形で開催された。
会場は、本館の2階にある、小さな特別室2つだけを利用したものだったが、展示された作品は、あまり普段は目にする機会がない、珍しいものばかりだった。
池大雅が、松島の風景を瀟湘八景図になぞらえて、長い巻物に描いた作品。
瀟湘八景図は、日本の絵師たちにとっては、風景画のひとつのモデルだった。湖の部分は、何も描かずに、余白で残す。そうした描き方も、日本の絵師たちには、受け入れやすかったのだろう。
松平定信のお抱え絵師だった谷文晁が、パトロンの定信に従って訪れた土地の風景を、西洋絵画の技法を一部に取り入れながら描いた、相州名勝図帖。
数多くの絵画技法をマスターしていた谷文晁らしい、写実的な風景画だ。
個性的な絵で知られる長沢蘆雪が、厳島神社とその周辺の風景を描いた、宮島八景図。いわゆる蘆雪らしさを抑えて、依頼者の意図を忠実に描いた、といわれている。
普段、あまり目にする機会がない、朝鮮王朝時代のいくつかの風景絵画。
江戸時代の日本では、朝鮮の絵画も、中国の絵画として見ていたという。一見しただけでは、これらが朝鮮で描かれたものとは、確かにわからない。当時の、東アジアの文化的な関係が、よく伺える。
小規模ながら、見所の多い展覧会だった。
清時代の書ー碑学派(東京国立博物館、書道博物館)
上野の東京国立博物館と、鴬谷にある台東区書道博物館で共同開催された、清時代の書に関する展覧会。
清時代には、青銅器や石碑に書かれた文字に注目し、漢字の原点に帰ろうとした、碑学派という人々が現れた。
鄧石如は、その碑学派の祖といわれるが、その鄧石如の生誕270年を記念した展覧会だった。
古い青銅器には、漢字が最初に作られた、象形文字としての特徴がよく残っている字が刻まれている。そうした雰囲気を残しているのが、いわゆる篆書。
鄧石如の篆書には、物の形をそのまま表そうとした、象形文字としての漢字の原点が、如実に表れている。
その一方で、鄧石如の書いた行書、草書は、大胆に線を縦にあるいは横に伸ばして書いて、一転して革新的な様相を見せる。
展示されていた、他の作家のいくつかの作品には、石碑などの写しと、その下に、石碑に書かれた文字を忠実に筆で描いた書がある。碑学派とはなにか、これほどよく説明するものはないだろう。
清は、満州族が明を倒して征服した王朝。清の皇帝は、中国の伝統文化に敬意を払い、碑学派の運動にも理解を示した。
しかし、碑学派の人々の心の中には、異民族に支配されている現状を、快く思わず、古代の自分たちの王朝に思いを馳せ、いつか、異民族の支配を終わらせたい、という思いがあったのに違いない。
2つの会場に並べられた、多くの篆書を見ながら、そんな思いにとらわれた。
清時代には、青銅器や石碑に書かれた文字に注目し、漢字の原点に帰ろうとした、碑学派という人々が現れた。
鄧石如は、その碑学派の祖といわれるが、その鄧石如の生誕270年を記念した展覧会だった。
古い青銅器には、漢字が最初に作られた、象形文字としての特徴がよく残っている字が刻まれている。そうした雰囲気を残しているのが、いわゆる篆書。
鄧石如の篆書には、物の形をそのまま表そうとした、象形文字としての漢字の原点が、如実に表れている。
その一方で、鄧石如の書いた行書、草書は、大胆に線を縦にあるいは横に伸ばして書いて、一転して革新的な様相を見せる。
展示されていた、他の作家のいくつかの作品には、石碑などの写しと、その下に、石碑に書かれた文字を忠実に筆で描いた書がある。碑学派とはなにか、これほどよく説明するものはないだろう。
清は、満州族が明を倒して征服した王朝。清の皇帝は、中国の伝統文化に敬意を払い、碑学派の運動にも理解を示した。
しかし、碑学派の人々の心の中には、異民族に支配されている現状を、快く思わず、古代の自分たちの王朝に思いを馳せ、いつか、異民族の支配を終わらせたい、という思いがあったのに違いない。
2つの会場に並べられた、多くの篆書を見ながら、そんな思いにとらわれた。
2013年11月10日日曜日
ターナー展(東京都美術館)
東京、上野の東京都美術館で開催された、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの展覧会。
この展覧会のことは、昨年の暮れに知った。それ以来、ずっと楽しみにしていた。2013年に開催される展覧会の中でも、最も期待していた展覧会のひとつだった。
ターナーのコレクションで知られる、ロンドンのテートミュージアムから、生涯のほとんどの期間をカバーする、およそ100点の油彩、水彩、スケッチなどの作品が、一同に展示される。
出展作の中には、ターナーを紹介する本の中で、必ずといっていいほど紹介されるような、ターナーの代表作といっていい作品も、何点か含まれている。
日本で、これほど多くのターナーの作品を鑑賞する日が来るとは、少し前までは、全く想像できなかった。
リッチモンド・ヒルを描いた、横3メートルの大作。フランスのヴァトーの絵にヒントを得て、広大な平原の中に、沢山の人物が描かれている。
近づいて見ると、遠くの人間の姿が、白い絵の具で、小さくしかし克明に描かれている。この頃のターナーは、一枚の絵の中で、大雑把に描く技法と、詳細に描く技法を、対象に応じて描き分けていた。
この絵だけを見ると、ターナーは、ダ・ヴィンチ、ティツアーノ、クロード・ロラン、オランダ風景画などの伝統的なヨーロッパ絵画の手法を駆使した画家、ということになる。
ターナーは、若くしてアカデミーの会員になるなど、早くから成功し、生活はゆとりのあるものだった。その後、いわゆる”ターナー的”な、大胆な画法の試みを行えたのも、そうした状況があったからに違いない。
日の出、湖に沈む夕陽、などの後期の作品を見ると、水の上に映る光や空の光の微妙な色合いを、何とか捉えようとするターナーの格闘の様子が伺える。刻一刻と変化するあの微妙な色合いを、ターナーは、キャンバスの中に閉じ込めようとしたのだろうか。
彼のそうした試みは、後の絵画史に大きな影響を与えた。
ターナーの活躍した時期は、ちょうどパリの印象派が登場する少し前だった。モネは、明らかにターナーから影響を受けていたが、決してそのことを認めなかったという。
日本の竹内栖鳳、横山大観などの画家たちも、もしかしたら、ターナーを参考にしたのかもしれない。
夏目漱石はターナーの絵を愛したが、漱石は、ターナーの作品の中に、中国の山水画に通ずるものを感じ取ったのかもしれない。確かに、ターナーの作品の中には、いわゆる”気”のような、自然の神秘のようなものを感じることがある。
それにしても、夢の時間は、あっというまに過ぎてしまう。もう出口にたどり着いてしまった。
果たして、私は、この後、何回、入口から出口を行ったり来たりするのだろう。
この展覧会のことは、昨年の暮れに知った。それ以来、ずっと楽しみにしていた。2013年に開催される展覧会の中でも、最も期待していた展覧会のひとつだった。
ターナーのコレクションで知られる、ロンドンのテートミュージアムから、生涯のほとんどの期間をカバーする、およそ100点の油彩、水彩、スケッチなどの作品が、一同に展示される。
出展作の中には、ターナーを紹介する本の中で、必ずといっていいほど紹介されるような、ターナーの代表作といっていい作品も、何点か含まれている。
日本で、これほど多くのターナーの作品を鑑賞する日が来るとは、少し前までは、全く想像できなかった。
リッチモンド・ヒルを描いた、横3メートルの大作。フランスのヴァトーの絵にヒントを得て、広大な平原の中に、沢山の人物が描かれている。
近づいて見ると、遠くの人間の姿が、白い絵の具で、小さくしかし克明に描かれている。この頃のターナーは、一枚の絵の中で、大雑把に描く技法と、詳細に描く技法を、対象に応じて描き分けていた。
この絵だけを見ると、ターナーは、ダ・ヴィンチ、ティツアーノ、クロード・ロラン、オランダ風景画などの伝統的なヨーロッパ絵画の手法を駆使した画家、ということになる。
ターナーは、若くしてアカデミーの会員になるなど、早くから成功し、生活はゆとりのあるものだった。その後、いわゆる”ターナー的”な、大胆な画法の試みを行えたのも、そうした状況があったからに違いない。
日の出、湖に沈む夕陽、などの後期の作品を見ると、水の上に映る光や空の光の微妙な色合いを、何とか捉えようとするターナーの格闘の様子が伺える。刻一刻と変化するあの微妙な色合いを、ターナーは、キャンバスの中に閉じ込めようとしたのだろうか。
彼のそうした試みは、後の絵画史に大きな影響を与えた。
ターナーの活躍した時期は、ちょうどパリの印象派が登場する少し前だった。モネは、明らかにターナーから影響を受けていたが、決してそのことを認めなかったという。
日本の竹内栖鳳、横山大観などの画家たちも、もしかしたら、ターナーを参考にしたのかもしれない。
夏目漱石はターナーの絵を愛したが、漱石は、ターナーの作品の中に、中国の山水画に通ずるものを感じ取ったのかもしれない。確かに、ターナーの作品の中には、いわゆる”気”のような、自然の神秘のようなものを感じることがある。
それにしても、夢の時間は、あっというまに過ぎてしまう。もう出口にたどり着いてしまった。
果たして、私は、この後、何回、入口から出口を行ったり来たりするのだろう。
横山大観展 良き師、良き友(横浜美術館)
横浜美術館で開催された、横山大観の展覧会。主要な作品を、前期と後期で展示替えしながら紹介する大規模な展覧会。
その一方で、大観だけでなく、その友人や、弟子たちの作も合わせて展示するという、贅沢な内容の展覧会だった。
大観というと、生々流転や瀟湘八景図に見られるような、ぼかしを活かした、いわゆる朦朧体、という表現方法が必ず思い浮かぶ。
確かに、墨という一色の色だけを使って、その微妙な濃淡で、多彩な世界を生み出す技術には、ただただ舌を巻くしかない。
しかし、大観の作品を、年代順に見て行くと、そうした絵は多いが、決してそれだけではないことが、よくわかる。
大観の作品には、意外に、色鮮やかなものが多い。
秋色、という作品では、緑色の葉の色が、秋になり、周囲から徐々に紅色に染まってい様子が描かれている。実際に、このように見えるかどうかはわからないが、野心的な、大胆な描き方だ。
野の花、という作品では、文字通り、野に咲く日本の花々が描かれている。葉の緑色がベースになっており、その中に、花々が、いろいろな色で描かれている。決して、真っ赤とか真っ黄色の花はない、いわゆる、日本の地味な花の色が、この絵に、不思議な華やかさを生み出している。
大観の人物像を見ると、同じ人物が描いたのか、と思われるほど、多彩な描き方をしている。生涯にわたり、いろいろな表現方法を模索していたという大観の姿が、そうした人物像の中に垣間見える。
横山大観と同じ年で、大観が日本美術院の同人に推薦したという、小川芋銭。芋銭は、茨城県の牛久沼の生まれで、その地にある河童伝説などを中心に、何とも不思議なユーモラスな絵を描いた。
その一方で、漢籍に造詣が深く、大観は、芋銭のそうした展を深く尊敬し、生涯にわたって、”芋銭先生”と敬意を込めて呼び続けていたという。
おそらくこの展覧会は、大観の多彩な世界は、周りの人々との、様々な交流を通して、生み出されて行った、ということをいいたかったのだろう。
その一方で、大観だけでなく、その友人や、弟子たちの作も合わせて展示するという、贅沢な内容の展覧会だった。
大観というと、生々流転や瀟湘八景図に見られるような、ぼかしを活かした、いわゆる朦朧体、という表現方法が必ず思い浮かぶ。
確かに、墨という一色の色だけを使って、その微妙な濃淡で、多彩な世界を生み出す技術には、ただただ舌を巻くしかない。
しかし、大観の作品を、年代順に見て行くと、そうした絵は多いが、決してそれだけではないことが、よくわかる。
大観の作品には、意外に、色鮮やかなものが多い。
秋色、という作品では、緑色の葉の色が、秋になり、周囲から徐々に紅色に染まってい様子が描かれている。実際に、このように見えるかどうかはわからないが、野心的な、大胆な描き方だ。
野の花、という作品では、文字通り、野に咲く日本の花々が描かれている。葉の緑色がベースになっており、その中に、花々が、いろいろな色で描かれている。決して、真っ赤とか真っ黄色の花はない、いわゆる、日本の地味な花の色が、この絵に、不思議な華やかさを生み出している。
大観の人物像を見ると、同じ人物が描いたのか、と思われるほど、多彩な描き方をしている。生涯にわたり、いろいろな表現方法を模索していたという大観の姿が、そうした人物像の中に垣間見える。
横山大観と同じ年で、大観が日本美術院の同人に推薦したという、小川芋銭。芋銭は、茨城県の牛久沼の生まれで、その地にある河童伝説などを中心に、何とも不思議なユーモラスな絵を描いた。
その一方で、漢籍に造詣が深く、大観は、芋銭のそうした展を深く尊敬し、生涯にわたって、”芋銭先生”と敬意を込めて呼び続けていたという。
おそらくこの展覧会は、大観の多彩な世界は、周りの人々との、様々な交流を通して、生み出されて行った、ということをいいたかったのだろう。
2013年11月9日土曜日
描かれた都ー開封・杭州・京都・江戸(大倉集古館)
東京、虎ノ門にある、大倉集古館で行われた展覧会。中国と日本を代表する、4つの都市を描いた絵画を一同に展示する特別展。
入り口を入ったすぐの所に展示された、清明上河図。ただし、これは、明の時代に仇英によって描かれていると言われているコピーだ。
オリジナルは、北京の故宮博物院にあり、昨年、上野で行われた展覧会で展示され、私もそこで見る機会を得た。
オリジナルは、すでに色はかなり落ちてしまい、色も黒ずんでしまっていた。こちらのコピーはさすがに色鮮やかで、オリジナルの当時の雰囲気をよく伝えているように思える。
解説によれば、仇英は、基本的にはオリジナルを忠実に描いているが、一部は、自分が暮らしていた蘇州の様子を取り入れたという。
会場には、2点の仇英の款の入った作品が展示されていたが、ひとつは後の清の時代のもので、もうひとつも明の時代に描かれたものだが、仇英のものではないようだ。
つまり、これらの絵は、コピーのコピーということになり、この清明上河図という作品の持っている、尋常ではない背景が感じられる。
杭州の代表的な名勝地といえば、西湖。清の時代に描かれた西湖図は、上空から西湖全体を俯瞰している。清の時代の、合理的な精神が伺える。
日本の狩野山楽が描いた西湖図は、それとは全く違っている。山楽独特の表現で、湖の浮き島と、その左側の対岸の風景に焦点を当てて、大きな余白を作りながら描いている。中国と日本の絵画への意識の違いが表れていて、面白い。
曾我蕭白の描いた西湖図は、湖の畔に建つ住居を中心に描いている。蕭白の晩年の作品というが、そこには、例のエキセントリックさはなく、美しい風景を、緻密な線で、伸びやかに描いている。
この展覧会で一番印象に深く残ったのは、長谷川巴龍という人物が江戸時代に描いた、洛中洛外図。いわゆる素人の素朴画に近い。
ある程度の絵の修行は行ったように見えるが、建物が水平に描かれていたなかったり、人の目鼻が、子供が描くように、横棒を引いただけだったりする。
しかし、そうした稚拙さが、かえってこの絵にダイナミックさを与えており、これまで見てきた、幾多の洛中洛外図の中でも、とりわけ強烈な印象を残す。
江戸時代の日本橋を描いた、東都繁盛図。かつて、日本橋のたもとにあった魚市場が描かれている。そこに描かれている魚の種類の豊富さに驚かされる。クジラかサメのような、大きな魚まで描かれている。
そのあたりは、現在は、オフィス街となってしまい、まったくその面影はない。
4つの都の時間旅行をしたような、実に贅沢な内容の展覧会だった。
入り口を入ったすぐの所に展示された、清明上河図。ただし、これは、明の時代に仇英によって描かれていると言われているコピーだ。
オリジナルは、北京の故宮博物院にあり、昨年、上野で行われた展覧会で展示され、私もそこで見る機会を得た。
オリジナルは、すでに色はかなり落ちてしまい、色も黒ずんでしまっていた。こちらのコピーはさすがに色鮮やかで、オリジナルの当時の雰囲気をよく伝えているように思える。
解説によれば、仇英は、基本的にはオリジナルを忠実に描いているが、一部は、自分が暮らしていた蘇州の様子を取り入れたという。
会場には、2点の仇英の款の入った作品が展示されていたが、ひとつは後の清の時代のもので、もうひとつも明の時代に描かれたものだが、仇英のものではないようだ。
つまり、これらの絵は、コピーのコピーということになり、この清明上河図という作品の持っている、尋常ではない背景が感じられる。
杭州の代表的な名勝地といえば、西湖。清の時代に描かれた西湖図は、上空から西湖全体を俯瞰している。清の時代の、合理的な精神が伺える。
日本の狩野山楽が描いた西湖図は、それとは全く違っている。山楽独特の表現で、湖の浮き島と、その左側の対岸の風景に焦点を当てて、大きな余白を作りながら描いている。中国と日本の絵画への意識の違いが表れていて、面白い。
曾我蕭白の描いた西湖図は、湖の畔に建つ住居を中心に描いている。蕭白の晩年の作品というが、そこには、例のエキセントリックさはなく、美しい風景を、緻密な線で、伸びやかに描いている。
この展覧会で一番印象に深く残ったのは、長谷川巴龍という人物が江戸時代に描いた、洛中洛外図。いわゆる素人の素朴画に近い。
ある程度の絵の修行は行ったように見えるが、建物が水平に描かれていたなかったり、人の目鼻が、子供が描くように、横棒を引いただけだったりする。
しかし、そうした稚拙さが、かえってこの絵にダイナミックさを与えており、これまで見てきた、幾多の洛中洛外図の中でも、とりわけ強烈な印象を残す。
江戸時代の日本橋を描いた、東都繁盛図。かつて、日本橋のたもとにあった魚市場が描かれている。そこに描かれている魚の種類の豊富さに驚かされる。クジラかサメのような、大きな魚まで描かれている。
そのあたりは、現在は、オフィス街となってしまい、まったくその面影はない。
4つの都の時間旅行をしたような、実に贅沢な内容の展覧会だった。
2013年11月7日木曜日
伊万里染付の美(泉屋博古館分館)
東京、六本木の泉屋博古館分館で行われた、伊万里焼の大皿を一同に展示した展覧会。
江戸時代後期、時代が成熟し、全国から江戸に集まった様々な食材から、華麗な料理文化が生まれた。
そうした料理を盛りつけたのが、そこに展示されていた、美しい絵柄の大皿だった。
絵柄の題材は多彩だ。伝統的な花鳥風月もあれば、相撲の力士、美人画など、当時の浮世絵の絵柄をそのまま写し取ったものもある。
中でも面白かったのは、東海道五十三次をテーマにした絵皿。大きな皿の中の、小さな丸い円の中に、箱根、品川、川崎など、お馴染みの地名が、それを象徴するイメージで描かれている。
解説文によれば、この大皿は当時、好評を博し、沢山のバージョンが作られたという。
それにしても、江戸時代の伊万里焼の絵師の職人達の、デザインセンスの高さに、改めて舌を巻いた。
描いた職人の名前が分かっていないだけに、純粋のその絵柄を楽しむことができた。
江戸時代後期、時代が成熟し、全国から江戸に集まった様々な食材から、華麗な料理文化が生まれた。
そうした料理を盛りつけたのが、そこに展示されていた、美しい絵柄の大皿だった。
絵柄の題材は多彩だ。伝統的な花鳥風月もあれば、相撲の力士、美人画など、当時の浮世絵の絵柄をそのまま写し取ったものもある。
中でも面白かったのは、東海道五十三次をテーマにした絵皿。大きな皿の中の、小さな丸い円の中に、箱根、品川、川崎など、お馴染みの地名が、それを象徴するイメージで描かれている。
解説文によれば、この大皿は当時、好評を博し、沢山のバージョンが作られたという。
それにしても、江戸時代の伊万里焼の絵師の職人達の、デザインセンスの高さに、改めて舌を巻いた。
描いた職人の名前が分かっていないだけに、純粋のその絵柄を楽しむことができた。
2013年10月27日日曜日
バルビゾンへの道(ザ・ミュージアム)
東京、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催された、山形県の山寺にある、後藤美術館のコレクション展。
山寺は、松尾芭蕉が、”閑けさや岩にしみいる蝉の声”というあまりにも有名な句を詠んだ場所として知られている。私も、前に訪れたことがあったが、その近くに、そうした美術館があることはしらなかった。
ムリーリョの悲しみの聖母。涙を浮かべた目で、左上を見上げるマリアの半身図。ムリーリョの真筆かどうかには、異論もあるようだが、そのマリアの表情からは、確かに、ムリーリョの作品のように見える。
ブーシェの聖ヨセフの夢。聖ヨセフの夢の中に、天使が現れている、という作品。ブーシェの華やかなイメージとは異なり、夜ということで、背景は暗い色に描かれている。これがブーシェ?というのが素直な感想だ。
風景画家として知られるコンスタブルが、グルーズの絵を模写した、少女と鳩、という作品。グルーズの描く典型的な美しいフランス娘は、コンスタブルの絵のイメージとは全く結びつかない。コンスタブルの画家としての技術の確かさがよく表れている。
ジョン・エバレット・ミレイのクラリッサ。破滅していく小説の主人公を描いた作品。手紙を破いて、心ここにあらず、と遠くを見つめている若い女性像。小説のを読んでいなくても、そのシチュエーションは、よく伝わってくる。
ロイスダールの小川と森の風景。空の雲、画面中央の大樹、右側に描かれた小川の水の様子、そこに遊ぶ小さく描かれた牛。まさしく、オランダの空気感まで描いたような作品。
それに続き、ド・ラ・ペニャ、ルソー、ミレーなどのバルビゾン派の画家たちの作品が続いて展示される。
クルーベの波、という作品は、文字通り海の波だけを描いた作品。画面の中央に、ひと際大きな波が描かれていて、その波が、この絵の主役であることを示している。クールベの本質が表れているような作品で、実に、見応えがあった。
錚々たるそうした作品群から、後藤美術館のコレクションの質の高さが感じられた。
山寺は、松尾芭蕉が、”閑けさや岩にしみいる蝉の声”というあまりにも有名な句を詠んだ場所として知られている。私も、前に訪れたことがあったが、その近くに、そうした美術館があることはしらなかった。
ムリーリョの悲しみの聖母。涙を浮かべた目で、左上を見上げるマリアの半身図。ムリーリョの真筆かどうかには、異論もあるようだが、そのマリアの表情からは、確かに、ムリーリョの作品のように見える。
ブーシェの聖ヨセフの夢。聖ヨセフの夢の中に、天使が現れている、という作品。ブーシェの華やかなイメージとは異なり、夜ということで、背景は暗い色に描かれている。これがブーシェ?というのが素直な感想だ。
風景画家として知られるコンスタブルが、グルーズの絵を模写した、少女と鳩、という作品。グルーズの描く典型的な美しいフランス娘は、コンスタブルの絵のイメージとは全く結びつかない。コンスタブルの画家としての技術の確かさがよく表れている。
ジョン・エバレット・ミレイのクラリッサ。破滅していく小説の主人公を描いた作品。手紙を破いて、心ここにあらず、と遠くを見つめている若い女性像。小説のを読んでいなくても、そのシチュエーションは、よく伝わってくる。
ロイスダールの小川と森の風景。空の雲、画面中央の大樹、右側に描かれた小川の水の様子、そこに遊ぶ小さく描かれた牛。まさしく、オランダの空気感まで描いたような作品。
それに続き、ド・ラ・ペニャ、ルソー、ミレーなどのバルビゾン派の画家たちの作品が続いて展示される。
クルーベの波、という作品は、文字通り海の波だけを描いた作品。画面の中央に、ひと際大きな波が描かれていて、その波が、この絵の主役であることを示している。クールベの本質が表れているような作品で、実に、見応えがあった。
錚々たるそうした作品群から、後藤美術館のコレクションの質の高さが感じられた。
モローとルオー 聖なるものの継承と変容(パナソニック汐留ミュージアム)
幻想的な絵で知られるギュスターブ・モローは、絵画学校の教師を務めていた。その教え子の一人に、イコンのような独特の絵画で知られるジョルジュ・ルオーがいた。
この二人の関係をテーマにした、パナソニック汐留ミュージアムでの展覧会。
モローは、私がもっとも好きな画家の一人。ルオーも、今はそれほどではないが、かつては入れ込んだことのある画家だった。この二人が師弟関係にあったことは、その後に知った。
モローのピエタ。未完成作品だが、モローがどのように絵画世界を作り上げて行ったかの過程がよくわかる。
画面の右側は森が、左側には遠景が描かれている。中央に、十字架から降りされたキリストがおり、それをマリアが体ごと支えるように抱きかかえている。伝統的な構成のピエタだ。
モローは、部分部分を描いて行くのではなく、全体を描きながら、少しづつ絵の具を重ね、その濃密な世界を徐々に深めて行くように、絵を仕上げて行ったようだ。
後年の同じテーマの作品では、全体の構成がよりシンプルになり、広い平原に、キリストとマリアだけが描かれている。
ルオーは、太い黒い線と、その中に原色の絵の具を落としこむような画風を確立して行くが、初期の頃の作品は、モローの影響を受けてだろうか、神秘的ながら繊細な画風の絵を描いていた。
当時の画家としての登竜門と言えるローマ賞を目指して、大作を準備していた頃のルオーのデッサンなどからは、まだ後のミゼレーレなどの作品の雰囲気は、あまり感じられない。
モローのヘラクレスとレルネのヒュドラ。9つの頭を持つヘビの姿を持つヒュドラを、モローは、いろいろな種類のヘビの頭を組み合わせて描いている。
モローは、現実には存在しない伝説上の人物や風景を描くにあたり、いろいろな図鑑や書物を参考にしていたという。この作品を描くのに、沢山の種類のヘビを試してみたのかもしれない。
モローの教え子の中には、マチスなどもいたが、中でのルオーを最も評価していたという。その二人の作品が、母国を遠く離れた地で、このような形で展示されるようになるとは、本人たちは、おそらく想像もしなかったに違いない。
この二人の関係をテーマにした、パナソニック汐留ミュージアムでの展覧会。
モローは、私がもっとも好きな画家の一人。ルオーも、今はそれほどではないが、かつては入れ込んだことのある画家だった。この二人が師弟関係にあったことは、その後に知った。
モローのピエタ。未完成作品だが、モローがどのように絵画世界を作り上げて行ったかの過程がよくわかる。
画面の右側は森が、左側には遠景が描かれている。中央に、十字架から降りされたキリストがおり、それをマリアが体ごと支えるように抱きかかえている。伝統的な構成のピエタだ。
モローは、部分部分を描いて行くのではなく、全体を描きながら、少しづつ絵の具を重ね、その濃密な世界を徐々に深めて行くように、絵を仕上げて行ったようだ。
後年の同じテーマの作品では、全体の構成がよりシンプルになり、広い平原に、キリストとマリアだけが描かれている。
ルオーは、太い黒い線と、その中に原色の絵の具を落としこむような画風を確立して行くが、初期の頃の作品は、モローの影響を受けてだろうか、神秘的ながら繊細な画風の絵を描いていた。
当時の画家としての登竜門と言えるローマ賞を目指して、大作を準備していた頃のルオーのデッサンなどからは、まだ後のミゼレーレなどの作品の雰囲気は、あまり感じられない。
モローのヘラクレスとレルネのヒュドラ。9つの頭を持つヘビの姿を持つヒュドラを、モローは、いろいろな種類のヘビの頭を組み合わせて描いている。
モローは、現実には存在しない伝説上の人物や風景を描くにあたり、いろいろな図鑑や書物を参考にしていたという。この作品を描くのに、沢山の種類のヘビを試してみたのかもしれない。
モローの教え子の中には、マチスなどもいたが、中でのルオーを最も評価していたという。その二人の作品が、母国を遠く離れた地で、このような形で展示されるようになるとは、本人たちは、おそらく想像もしなかったに違いない。
柳宗理の見てきたもの(日本民藝館)
東京、駒場にある日本民藝館へ。
この、いわゆる民藝品を数多く所蔵する施設を創設したのは、民藝運動を起こした柳宗悦。その息子で、デザイナーとして世界的に名が知られている柳宗理は、父の後を継いで、その館長を長く務めた。
柳宗理は、おしくも2年前に、96歳で亡くなったが、ゆかりの日本民藝館で、彼が集めたコレクションの数々が、展示された。
父の宗悦が、日本を中心とした民藝品を集めたのに対して、宗理は、インド、アフリカ、ヨーロッパ、南米など、世界中から、素朴な生活用品、仮面などを収集した。その差は、時代の違いがもたらしたものだろう。
そうした展示品の中で、とりわけ深い印象を残したのは、ドゴン族を代表する、アフリカ各地の奇妙な仮面の数々だった。
デフォルメという言葉では、とても収まりそうもない、その不思議な形には、ただただ呆れるばかり。
3メートルほどの細長い仮面。博物館などに展示している分には、別に問題はないが、実際につけるとなると、つけた人間は、そのバランスを保つのに、相当苦労するはずだ。
真っ直ぐな、6本の平木を組み合わせて作られた仮面。最初は、これが仮面?と思ったが、よくよく見ると、下の方には、目を表す穴があり、木を組み合わせたオブジェが、人の顔に見えてきた。
アフリカのある部族の腰布。そこに描かれている文様が、実に不思議。一つ一つの文様は、シンプルだが、その組み合わせ方が、不規則なように見え、しかし、何かの規則がありそうにも見える。その規則を見つけようとして、なかなかその前から離れられない。
朝鮮時代に描かれた3つの地図。一つは、中国を中心とした世界地図。しかし、そこにはヨーロッパやアフリカなどは描かれてはいない。まさに、中華思想そのもの。
2つめの地図は日本国。3つ目の地図は琉球国。この時代、朝鮮では、琉球はひとつの国と考えていた。
現在、東アジアの国境問題が話題になっているが、国境というものは、所詮は時代的なものだということが、そうした地図からよくわかる。
インドやアフリカの絞りの染物が何点か展示されていた。その素朴な味わいは、日本の絞り染めの原点のようなものを感じる。絞りという技術は、世界各地で自然に誕生した技術なのだろう。
宗理が、日常の生活で使っていた、濱田庄司や河井寛次郎らの器や茶碗などが、その生活を再現するように、テーブルの上に並べられていた。それらを見ていると、懐かしいような、何か暖かいものが感じられる。
大量生産された、誰が作ったのか分からない、個性のない食器に囲まれた現代人の暮らしと比べると、柳宗理の日常は、少し違っていたようだ。
宗理のデザインは、世界中の様々な品々からのインスピレーションや、そうした日常を彩る品々の中から生まれたのだ、ということが、この展覧会から伺えた。
この、いわゆる民藝品を数多く所蔵する施設を創設したのは、民藝運動を起こした柳宗悦。その息子で、デザイナーとして世界的に名が知られている柳宗理は、父の後を継いで、その館長を長く務めた。
柳宗理は、おしくも2年前に、96歳で亡くなったが、ゆかりの日本民藝館で、彼が集めたコレクションの数々が、展示された。
父の宗悦が、日本を中心とした民藝品を集めたのに対して、宗理は、インド、アフリカ、ヨーロッパ、南米など、世界中から、素朴な生活用品、仮面などを収集した。その差は、時代の違いがもたらしたものだろう。
そうした展示品の中で、とりわけ深い印象を残したのは、ドゴン族を代表する、アフリカ各地の奇妙な仮面の数々だった。
デフォルメという言葉では、とても収まりそうもない、その不思議な形には、ただただ呆れるばかり。
3メートルほどの細長い仮面。博物館などに展示している分には、別に問題はないが、実際につけるとなると、つけた人間は、そのバランスを保つのに、相当苦労するはずだ。
真っ直ぐな、6本の平木を組み合わせて作られた仮面。最初は、これが仮面?と思ったが、よくよく見ると、下の方には、目を表す穴があり、木を組み合わせたオブジェが、人の顔に見えてきた。
アフリカのある部族の腰布。そこに描かれている文様が、実に不思議。一つ一つの文様は、シンプルだが、その組み合わせ方が、不規則なように見え、しかし、何かの規則がありそうにも見える。その規則を見つけようとして、なかなかその前から離れられない。
朝鮮時代に描かれた3つの地図。一つは、中国を中心とした世界地図。しかし、そこにはヨーロッパやアフリカなどは描かれてはいない。まさに、中華思想そのもの。
2つめの地図は日本国。3つ目の地図は琉球国。この時代、朝鮮では、琉球はひとつの国と考えていた。
現在、東アジアの国境問題が話題になっているが、国境というものは、所詮は時代的なものだということが、そうした地図からよくわかる。
インドやアフリカの絞りの染物が何点か展示されていた。その素朴な味わいは、日本の絞り染めの原点のようなものを感じる。絞りという技術は、世界各地で自然に誕生した技術なのだろう。
宗理が、日常の生活で使っていた、濱田庄司や河井寛次郎らの器や茶碗などが、その生活を再現するように、テーブルの上に並べられていた。それらを見ていると、懐かしいような、何か暖かいものが感じられる。
大量生産された、誰が作ったのか分からない、個性のない食器に囲まれた現代人の暮らしと比べると、柳宗理の日常は、少し違っていたようだ。
宗理のデザインは、世界中の様々な品々からのインスピレーションや、そうした日常を彩る品々の中から生まれたのだ、ということが、この展覧会から伺えた。
2013年10月26日土曜日
国宝「卯花墻」と桃山の名陶(三井記念美術館)
三井記念美術館で開催された、国宝「卯花墻」と桃山の名陶展。桃山時代に製作された、志野、瀬戸、織部が展示された。
志野は、全体的に肉厚。釉薬は、少しピンクがかった、クリーム系の色。形は勿論だが、その釉薬のかかり具合や、表面に描かれた絵柄が、器の個性を生み出す。
鼠志野は、文字通り、鼠色がかった釉薬が使われている。純粋な志野よりも、渋さを感じさせる。
志野の表面の絵柄は、草木や動物を、シンプルなイメージで描いているものが多い。そのシンプルさが、見ている者に、なにか暖かいものを感じさせる。
黄瀬戸は、志野とは違って、器が薄手で、釉薬もその薄さを邪魔しない。洗練された印象を与える。描かれている絵柄も、実に細かい部分まで描かれている。
瀬戸黒は、文字通りの黒。まるで楽茶碗のようだ。
織部といえば、奇妙な形をして、濃い緑の釉薬がかかっている、というイメージがある。しかし、会場には、そうしたイメージを覆す器が多数並んでいた。
展覧会の目玉は、国宝の「卯花墻」。うやうやしく、特別な場所に展示されていた。茶器は、そのの形、釉薬のかかり具合、偶然にできたちょっとした模様など、微妙な違いが、他の器との違いを生み出す。
その違いを人々が、どのように解釈するかで、その器の価値が決まる。ある器は、国の宝となり、違いがないものは、ただ普通の人々に使われる器となる。
志野は、全体的に肉厚。釉薬は、少しピンクがかった、クリーム系の色。形は勿論だが、その釉薬のかかり具合や、表面に描かれた絵柄が、器の個性を生み出す。
鼠志野は、文字通り、鼠色がかった釉薬が使われている。純粋な志野よりも、渋さを感じさせる。
志野の表面の絵柄は、草木や動物を、シンプルなイメージで描いているものが多い。そのシンプルさが、見ている者に、なにか暖かいものを感じさせる。
黄瀬戸は、志野とは違って、器が薄手で、釉薬もその薄さを邪魔しない。洗練された印象を与える。描かれている絵柄も、実に細かい部分まで描かれている。
瀬戸黒は、文字通りの黒。まるで楽茶碗のようだ。
織部といえば、奇妙な形をして、濃い緑の釉薬がかかっている、というイメージがある。しかし、会場には、そうしたイメージを覆す器が多数並んでいた。
展覧会の目玉は、国宝の「卯花墻」。うやうやしく、特別な場所に展示されていた。茶器は、そのの形、釉薬のかかり具合、偶然にできたちょっとした模様など、微妙な違いが、他の器との違いを生み出す。
その違いを人々が、どのように解釈するかで、その器の価値が決まる。ある器は、国の宝となり、違いがないものは、ただ普通の人々に使われる器となる。
2013年10月14日月曜日
西洋版画の流れ(神奈川県近代美術館 鎌倉別館)
JR北鎌倉駅から、建長寺などを巡り、鎌倉の市街地の方向へ下って、鶴岡八幡宮まで間も無くの辺りまで歩いてくると、右手に見えてくるのが、神奈川県近代美術館 鎌倉別館だ。
私の好きな美術館の一つで、小規模ながら、味わいの深い展覧会を企画している。
今回は、西洋版画の流れ、と題して、当館が所有する、数多くの版画が展示された。
ブリューゲル、ジャック・カロ、ポントルモ、ゴヤ、マックス・クリンガー、ピカソ、モロー、シャーガールなどの作品が展示されていた。
ブリューゲルの7つの大罪を描いた作品は、フランドル地方の諺にちなんだと言われている、不思議で不気味なイメージが、虫眼鏡でないとよく見えないような細かさで表現されていて、ずっと見つめていると、文字通り、時間の経つのを忘れてしまう。
ピカソのフランコ光と影、という作品は、スペインの独裁者のフランコ将軍を強烈に風刺した作品。民衆の悲惨な姿と、バカっぽく描かれたフランコの姿の対比が、ピカソらしい。
しかし、この展覧会の目玉は、ジゼル・ツェラン・レトランジュの銅版画。寡聞にも、彼女のことは、これまで、まったく知らなかった。
1927年にフランスの伯爵家に生まれ、絵画と素描を学び、ドイツ人の詩人として名高いパウル・ツェランとの結婚後、銅版画を始めた。
彼女の銅版画が、こうしてまとまって展示されるのは、国内では初めてのことだという。その作品は、強烈な印象を、私の心に残した。
初期や中期の作品は、抽象的な作品が多い。線を使って、不思議な造形美を生み出している。線は、細かったり、太かったり。時に、人の列や、空を飛ぶ鳥の群れを連想するような作品もある。
しばらく見つめていると、中国やイスラムの書道のようにも見えてくる。単純なイメージの中に、実に多くのことが隠されているように思える。
1970年には、心の病にかかっていた夫がなくなり、ジゼルの作品には、自然の風景を写したものが多くなった。ジゼルも1991年にパリで亡くなった。
そのジゼルの不思議な世界に魅了されたまま、会場を後にした。
私の好きな美術館の一つで、小規模ながら、味わいの深い展覧会を企画している。
今回は、西洋版画の流れ、と題して、当館が所有する、数多くの版画が展示された。
ブリューゲル、ジャック・カロ、ポントルモ、ゴヤ、マックス・クリンガー、ピカソ、モロー、シャーガールなどの作品が展示されていた。
ブリューゲルの7つの大罪を描いた作品は、フランドル地方の諺にちなんだと言われている、不思議で不気味なイメージが、虫眼鏡でないとよく見えないような細かさで表現されていて、ずっと見つめていると、文字通り、時間の経つのを忘れてしまう。
ピカソのフランコ光と影、という作品は、スペインの独裁者のフランコ将軍を強烈に風刺した作品。民衆の悲惨な姿と、バカっぽく描かれたフランコの姿の対比が、ピカソらしい。
しかし、この展覧会の目玉は、ジゼル・ツェラン・レトランジュの銅版画。寡聞にも、彼女のことは、これまで、まったく知らなかった。
1927年にフランスの伯爵家に生まれ、絵画と素描を学び、ドイツ人の詩人として名高いパウル・ツェランとの結婚後、銅版画を始めた。
彼女の銅版画が、こうしてまとまって展示されるのは、国内では初めてのことだという。その作品は、強烈な印象を、私の心に残した。
初期や中期の作品は、抽象的な作品が多い。線を使って、不思議な造形美を生み出している。線は、細かったり、太かったり。時に、人の列や、空を飛ぶ鳥の群れを連想するような作品もある。
しばらく見つめていると、中国やイスラムの書道のようにも見えてくる。単純なイメージの中に、実に多くのことが隠されているように思える。
1970年には、心の病にかかっていた夫がなくなり、ジゼルの作品には、自然の風景を写したものが多くなった。ジゼルも1991年にパリで亡くなった。
そのジゼルの不思議な世界に魅了されたまま、会場を後にした。
北条時頼とその時代(鎌倉国宝館)
北条時頼という人物のことは、よく知らなかった。
北条義時以来の5代目の執権であり、北条氏と対抗していた三浦一族などを滅ぼし、北条家の権力の安定をもたらした、中興の祖といわれている。
また、仏教にも信仰が厚く、南宋から禅宗の高僧であった蘭溪道隆を招き、建長寺を建てたことでも知られている。
その北条時頼の没後750年を記念して、ゆかりのある鎌倉国宝館にて、特別展が開かれた。
時頼の坐像が3点展示されていたが、その表情はかなり違っている。時頼には、全国を行脚して、世直しを行ったという、史実とはことなる言い伝えが残されている。坐像の表情の違いには、神話化された時頼のイメージというものが、垣間見える。
時頼は、蘭溪道隆を始め、当時の様々な高僧と関係を持っていた。
時頼が執権をしていた時、日蓮が立正安国論を書いて時頼に提出した。日蓮はその書の中で他の宗派を激しく攻撃した。時頼は、日蓮に対しては、それほど反感は持っていなかったようだが、他の宗派に配慮して、日蓮の追放を命じている。
その様子を描いた、日蓮聖人法難絵は、細長く描かれた絵巻物のようだが、よく見ると、人物の目鼻が描かれていない。あまり見られないタイプの絵物語だ。
曹洞宗の開祖、道元が鎌倉を訪れた際、時頼と面会したという。この面会がきかっけで、時頼は禅の教えに興味を持ったといわれている。
展示の後半は、時頼が蘭渓道隆を招いて建立した建長寺に関する展示品が多かった。
蘭渓道隆の肖像や坐像は、時頼と違って、その表情や体格はほとんど同じ。皆面長で、細身の体つきをしている。実際にそのような人物であったのだろう。
南宋において、名のある高僧であった蘭渓道隆が、時頼の招きに応じて日本に来た背景には、モンゴル人の国家、元の影響を逃れる意味もあったのだろう。
蘭渓道隆にとって、当時の日本の様子、北条時頼などは、どのように感じられたのだろうか。展示作品は、いずれも、寺の規律を記したものばかりで、その心情を伝えるものは、なにもなかった。
江戸時代に水戸光圀が寄進した際に描かれた、建長寺の境内絵図。鎌倉時代には立派な伽藍が立ち並んでいた建長寺も、江戸時代には寂れており、それを見かねた光圀が寄進を申し出たという。
南宋時代に龍泉窯で作られ、鎌倉の地にもたらされた、青磁の大きな花瓶と香炉。当時の鎌倉は、南宋と直接交流していた。多くの文物を輸入し、僧侶や商人も多数訪れ、国際的な都市であったに違いない。
時頼は、父が早世したことで20才で執権に地位について、30才で出家。しかし、影の実力者として実権を握っていたが、わずか37才で病でこの世を去ってしまった。しかし、その37年という短い歳月の中には、実に多くのことがあったのだということが、この特別展でよくわかった。
北条義時以来の5代目の執権であり、北条氏と対抗していた三浦一族などを滅ぼし、北条家の権力の安定をもたらした、中興の祖といわれている。
また、仏教にも信仰が厚く、南宋から禅宗の高僧であった蘭溪道隆を招き、建長寺を建てたことでも知られている。
その北条時頼の没後750年を記念して、ゆかりのある鎌倉国宝館にて、特別展が開かれた。
時頼の坐像が3点展示されていたが、その表情はかなり違っている。時頼には、全国を行脚して、世直しを行ったという、史実とはことなる言い伝えが残されている。坐像の表情の違いには、神話化された時頼のイメージというものが、垣間見える。
時頼は、蘭溪道隆を始め、当時の様々な高僧と関係を持っていた。
時頼が執権をしていた時、日蓮が立正安国論を書いて時頼に提出した。日蓮はその書の中で他の宗派を激しく攻撃した。時頼は、日蓮に対しては、それほど反感は持っていなかったようだが、他の宗派に配慮して、日蓮の追放を命じている。
その様子を描いた、日蓮聖人法難絵は、細長く描かれた絵巻物のようだが、よく見ると、人物の目鼻が描かれていない。あまり見られないタイプの絵物語だ。
曹洞宗の開祖、道元が鎌倉を訪れた際、時頼と面会したという。この面会がきかっけで、時頼は禅の教えに興味を持ったといわれている。
展示の後半は、時頼が蘭渓道隆を招いて建立した建長寺に関する展示品が多かった。
蘭渓道隆の肖像や坐像は、時頼と違って、その表情や体格はほとんど同じ。皆面長で、細身の体つきをしている。実際にそのような人物であったのだろう。
南宋において、名のある高僧であった蘭渓道隆が、時頼の招きに応じて日本に来た背景には、モンゴル人の国家、元の影響を逃れる意味もあったのだろう。
蘭渓道隆にとって、当時の日本の様子、北条時頼などは、どのように感じられたのだろうか。展示作品は、いずれも、寺の規律を記したものばかりで、その心情を伝えるものは、なにもなかった。
江戸時代に水戸光圀が寄進した際に描かれた、建長寺の境内絵図。鎌倉時代には立派な伽藍が立ち並んでいた建長寺も、江戸時代には寂れており、それを見かねた光圀が寄進を申し出たという。
南宋時代に龍泉窯で作られ、鎌倉の地にもたらされた、青磁の大きな花瓶と香炉。当時の鎌倉は、南宋と直接交流していた。多くの文物を輸入し、僧侶や商人も多数訪れ、国際的な都市であったに違いない。
時頼は、父が早世したことで20才で執権に地位について、30才で出家。しかし、影の実力者として実権を握っていたが、わずか37才で病でこの世を去ってしまった。しかし、その37年という短い歳月の中には、実に多くのことがあったのだということが、この特別展でよくわかった。
2013年10月12日土曜日
仙厓と禅の世界(出光美術館)
出光美術館は、仙厓の作品を多く所有することで知られる。これまでも、何度か仙厓をテーマにした展覧会を開催してきたが、今回は、禅僧としての仙厓にテーマを当てた内容だった。
仙厓は、現在の岐阜県に1750年に生まれ、地元の寺で臨済宗の僧として修行した後、横浜の東輝庵という寺でも修行を重ね、やがて、福岡の禅寺、聖福寺の住職となった。
晩年になってから、若き日に修行した寺を描いた東輝庵画賛。素朴ながら、それでも細かい筆さばきで、思い出の中にある、東輝庵とその周りの山麓の風景を描いている。
仙厓というと、その素朴な画風で知られる。しかし、同時に、厳しい修行を重ねた禅僧でもあった。仙厓は、難しい禅のエピソードを、わかりやすく、時に独自の解釈を加え、その絵とともに、若い僧たちに伝えた。
仙厓による、禅の経典、碧眼録の講義ノート。しっかりとした文字で、中国の禅の先人たちのエピソードを、延々と解説している。そこには、微笑ましい絵から受けるイメージとは、少し違った仙厓の姿が伺える。
しかし、仙厓の絵の前に立つと、やはり、その愛らしい、個性的な表現に、思わず笑みがこぼれてしまう。
南泉という高僧が、騒動のもとになったネコを殺してしまうエピソードを描いた、南泉斬猫画賛の中では、南泉は今にもネコを斬ろうと刀を振り上げているが、そのユーモラスな表情からは、とても実際に殺せるようには思えない。掴まれているネコも、そんなことは起こるまいと、のんきな表情に描かれている。
仙厓が晩年に使っていた茶器などの品々も展示されていた。仙厓が絵を付けた器もある。また、仙厓が作った茶杓も展示されていた。
仙厓は、88才で大往生を遂げるが、晩年は、死にまつわる絵が多くなった。いずれも、死を人生の一部として捉えるように、という趣旨の内容だが、もしかしたら、自分に対しての意味もあったのかもしれない。
この展覧会では、一休が応永の乱の際に、住吉に逃れた際に作った床菜庵という禅寺にゆかりの、一休の書や画賛も合わせて展示されていた。
一休は、仙厓より時代は大きく遡るが、同じ臨済宗の禅僧。
仙厓よりおよそ100年前に活躍した白隠も臨済宗の禅僧で、臨済宗という宗派の日本文化に対する影響の大きさを実感した展覧会でもあった。
仙厓は、現在の岐阜県に1750年に生まれ、地元の寺で臨済宗の僧として修行した後、横浜の東輝庵という寺でも修行を重ね、やがて、福岡の禅寺、聖福寺の住職となった。
晩年になってから、若き日に修行した寺を描いた東輝庵画賛。素朴ながら、それでも細かい筆さばきで、思い出の中にある、東輝庵とその周りの山麓の風景を描いている。
仙厓というと、その素朴な画風で知られる。しかし、同時に、厳しい修行を重ねた禅僧でもあった。仙厓は、難しい禅のエピソードを、わかりやすく、時に独自の解釈を加え、その絵とともに、若い僧たちに伝えた。
仙厓による、禅の経典、碧眼録の講義ノート。しっかりとした文字で、中国の禅の先人たちのエピソードを、延々と解説している。そこには、微笑ましい絵から受けるイメージとは、少し違った仙厓の姿が伺える。
しかし、仙厓の絵の前に立つと、やはり、その愛らしい、個性的な表現に、思わず笑みがこぼれてしまう。
南泉という高僧が、騒動のもとになったネコを殺してしまうエピソードを描いた、南泉斬猫画賛の中では、南泉は今にもネコを斬ろうと刀を振り上げているが、そのユーモラスな表情からは、とても実際に殺せるようには思えない。掴まれているネコも、そんなことは起こるまいと、のんきな表情に描かれている。
仙厓が晩年に使っていた茶器などの品々も展示されていた。仙厓が絵を付けた器もある。また、仙厓が作った茶杓も展示されていた。
仙厓は、88才で大往生を遂げるが、晩年は、死にまつわる絵が多くなった。いずれも、死を人生の一部として捉えるように、という趣旨の内容だが、もしかしたら、自分に対しての意味もあったのかもしれない。
この展覧会では、一休が応永の乱の際に、住吉に逃れた際に作った床菜庵という禅寺にゆかりの、一休の書や画賛も合わせて展示されていた。
一休は、仙厓より時代は大きく遡るが、同じ臨済宗の禅僧。
仙厓よりおよそ100年前に活躍した白隠も臨済宗の禅僧で、臨済宗という宗派の日本文化に対する影響の大きさを実感した展覧会でもあった。
明治のこころ(江戸東京博物館)
大森貝塚を発見したことで知られるエドワード・モース。明治維新後間もない、1877年、明治10年に初めて日本を訪れて、その後も2度来日した。
モースは、当時の日本人の暮らしに深い興味を抱き、様々な物を、本国のアメリカに持ち帰った。それらは、現在では、アメリカの二つの美術館、博物館に収められている。
江戸東京博物館で開催されたこの展覧会では、その中から、320点を展示した。
明治時代、そうした品々を実際に使っていた人々は、まさか、およそ100年後に、それらが博物館に展示されるとは、夢にも思わなかったに違いない。
下駄、簪、日常の着物、手ぬぐい、お歯黒道具、しゃもじ、皮むき、まな板、タバコ入れ、トコロテンつき、菓子箱、弁当箱、箒、はたき、燭台、こま、虫かご、双六、店の看板・・・
明治時代の人々の生活が、蘇ったようだ。
モースは、その滞在の様子を、『日本 その日その日』という本に記している。会場には、その本から抜粋された言葉が、パネルで展示されていた。
モースは、当時の日本が、家の扉を開けっ放しにしていても泥棒が入る心配をしなくていいほど平和な町であること、一般の人々が正直で素直であること、日常の生活用品が実に美しく作られていること、などを大きな驚きをもって記している。
展覧会のパンフレットには、”アメリカから里帰り”、と書かれている。そうした品々が帰ってきた国では、誰もが将来に不安を抱え、ストーカーに命を奪われる危険を感じ、家族を装う他人に金を奪われ、他人の苦しみを自分のものと感じられない、という生活を送っている。
モースが、かつて見た国は、残念ながら、もはやどこにも存在しないようだ。
そして、これからも、そうした国は、二度と、現れることはないのではないか。
モースは、当時の日本人の暮らしに深い興味を抱き、様々な物を、本国のアメリカに持ち帰った。それらは、現在では、アメリカの二つの美術館、博物館に収められている。
江戸東京博物館で開催されたこの展覧会では、その中から、320点を展示した。
明治時代、そうした品々を実際に使っていた人々は、まさか、およそ100年後に、それらが博物館に展示されるとは、夢にも思わなかったに違いない。
下駄、簪、日常の着物、手ぬぐい、お歯黒道具、しゃもじ、皮むき、まな板、タバコ入れ、トコロテンつき、菓子箱、弁当箱、箒、はたき、燭台、こま、虫かご、双六、店の看板・・・
明治時代の人々の生活が、蘇ったようだ。
モースは、その滞在の様子を、『日本 その日その日』という本に記している。会場には、その本から抜粋された言葉が、パネルで展示されていた。
モースは、当時の日本が、家の扉を開けっ放しにしていても泥棒が入る心配をしなくていいほど平和な町であること、一般の人々が正直で素直であること、日常の生活用品が実に美しく作られていること、などを大きな驚きをもって記している。
展覧会のパンフレットには、”アメリカから里帰り”、と書かれている。そうした品々が帰ってきた国では、誰もが将来に不安を抱え、ストーカーに命を奪われる危険を感じ、家族を装う他人に金を奪われ、他人の苦しみを自分のものと感じられない、という生活を送っている。
モースが、かつて見た国は、残念ながら、もはやどこにも存在しないようだ。
そして、これからも、そうした国は、二度と、現れることはないのではないか。
2013年10月6日日曜日
トスカーナと近代絵画(損保ジャパン東郷青児美術館)
東京、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催された展覧会。
展示されたのは、イタリア、フィレンツェにある、ピッティ宮殿近代美術館が所蔵する、トスカーナを中心にした、イタリアの19世紀、20世紀の近代絵画の作品。
トスカーナの絵画といえば、ルネサンス、マニエリズム以降は、これといった名前が思い浮かばない。この展覧会は、そうした隙間を埋める、貴重な内容だった。
アントニオ・フォンタネージのサンタ・トリニタ橋付近のアルノ川。フォンタネージは、明治の日本が招聘したお雇い外国人の一人だった。夕焼け色に染まったアルノ川があ、哀愁の気持ちを呼び起こす。
アンドレア・ピエリーニの煉獄におけるダンテとベアトリーチェの出会い。ダンテの神曲の中の有名な場面を、幻想的な雰囲気で描いている。
19世紀後半のイタリアには、フィレンツェを中心に、マッキアオーリという芸術家のグループが現れた。フランスのバルビゾン派の影響を受けた彼らは、ルネサンスの伝統も意識しながら、独自の絵画を生み出して行った。
彼らはフィレンツェにあった、カフェ・ミケランジェロに集まり、芸術論を戦わせた。折しも、イタリアはオーストラリアからの独立と、統一の機運が高まっていた。彼らは、そうした政治的な意識も持っていた。
マッキアオーリの一人、ジュゼッペ・デ・ニッティスのオファント川岸で。横長のキャンバスに、川岸を歩く、牛の長い列が描かれている。
20世紀になると、他の国からの影響を受けて、様々な技法の画家たちが登場する。
オスカル・ギーリアの貝殻のある風景。静物画だが、画面全体が青緑とワインレッドの2色で分けられており、その中に、白い貝殻と、水の入ったコップが描かれている。
ジョバンニ・コステッティの物思いに耽る女性。ルネサンスのフラ・アンジェリコのような、透明感を持った、それでいて不思議な雰囲気を持った作品。
近代のトスカーナの画家たちにとって、ルネサンス芸術は、良い意味でも悪い意味でも、圧倒的な存在感で、大きな影響を与えていたことが伺える。
こも展覧会は、ルネサンスではない、トスカーナの近代絵画を味わうことができる、実に貴重な経験だった。
展示されたのは、イタリア、フィレンツェにある、ピッティ宮殿近代美術館が所蔵する、トスカーナを中心にした、イタリアの19世紀、20世紀の近代絵画の作品。
トスカーナの絵画といえば、ルネサンス、マニエリズム以降は、これといった名前が思い浮かばない。この展覧会は、そうした隙間を埋める、貴重な内容だった。
アントニオ・フォンタネージのサンタ・トリニタ橋付近のアルノ川。フォンタネージは、明治の日本が招聘したお雇い外国人の一人だった。夕焼け色に染まったアルノ川があ、哀愁の気持ちを呼び起こす。
アンドレア・ピエリーニの煉獄におけるダンテとベアトリーチェの出会い。ダンテの神曲の中の有名な場面を、幻想的な雰囲気で描いている。
19世紀後半のイタリアには、フィレンツェを中心に、マッキアオーリという芸術家のグループが現れた。フランスのバルビゾン派の影響を受けた彼らは、ルネサンスの伝統も意識しながら、独自の絵画を生み出して行った。
彼らはフィレンツェにあった、カフェ・ミケランジェロに集まり、芸術論を戦わせた。折しも、イタリアはオーストラリアからの独立と、統一の機運が高まっていた。彼らは、そうした政治的な意識も持っていた。
マッキアオーリの一人、ジュゼッペ・デ・ニッティスのオファント川岸で。横長のキャンバスに、川岸を歩く、牛の長い列が描かれている。
20世紀になると、他の国からの影響を受けて、様々な技法の画家たちが登場する。
オスカル・ギーリアの貝殻のある風景。静物画だが、画面全体が青緑とワインレッドの2色で分けられており、その中に、白い貝殻と、水の入ったコップが描かれている。
ジョバンニ・コステッティの物思いに耽る女性。ルネサンスのフラ・アンジェリコのような、透明感を持った、それでいて不思議な雰囲気を持った作品。
近代のトスカーナの画家たちにとって、ルネサンス芸術は、良い意味でも悪い意味でも、圧倒的な存在感で、大きな影響を与えていたことが伺える。
こも展覧会は、ルネサンスではない、トスカーナの近代絵画を味わうことができる、実に貴重な経験だった。
2013年10月5日土曜日
色彩のラプソディー(DIC川村記念美術館)
千葉の佐倉にある、DIC川村記念美術館のコレクション展の第2段。
今回の目玉は、その豊富なコレクションで世界的に知られるフランク・ステラの作品群を、広い展示室いっぱいに展示したステラ・ルーム。
初期の、線を中心とした地味な作品と、80年代以降のカラフルでいろいろな形状をしたオブジェを組み合わせた作品が、しきいによって2つのコーナーに分けて展示され、展示室内は、文字通りのステラ・ワールドと化していた。
80年代以降の作品を見ていると、高校の学園祭で教室内に迷路を作った時に、そのあちこちに配置するために作った、意味もないオブジェのことを思い出す。
しかし、そのステラの作品よりも、私の心に残ったのは、エーリヒ・ブラウアーによる”ソロモンの箴言より”という12枚の連作版画だった。
寡聞にもブラウアーの名前は知らなかった。1929年にウィーンでユダヤ系の家系に生まれ、ウィーン幻想派の画家として知られているという。
12枚の版画は、それぞれが、旧約聖書の箴言の言葉をもとに描かれている。人間や動物、自然の風景が、幻想的でカラフルで、どこかユーモラスな感じで描かれている。
近づいてよく見ると、それぞれの絵の元になっている聖書の言葉が、キャンバスの隅に、英語とヘブライ語で書かれている。ヘブライ語の方は、それが理解できない人間には、記号のようにしか見えない。
英語で表現されているもの、ヘブライ語で表現されているもの、そして、ブラウアーの絵で表現されているもの、その3つは、似通っているようで、微妙に異なっているのかもしれない。
コレクション展ということで、他にも、線をテーマに、ジョルジュ・ブラック、ブリジット・ライリー、ジャクソン・ポロック、李禹煥、などの作家の作品が展示されていた。
今回の目玉は、その豊富なコレクションで世界的に知られるフランク・ステラの作品群を、広い展示室いっぱいに展示したステラ・ルーム。
初期の、線を中心とした地味な作品と、80年代以降のカラフルでいろいろな形状をしたオブジェを組み合わせた作品が、しきいによって2つのコーナーに分けて展示され、展示室内は、文字通りのステラ・ワールドと化していた。
80年代以降の作品を見ていると、高校の学園祭で教室内に迷路を作った時に、そのあちこちに配置するために作った、意味もないオブジェのことを思い出す。
しかし、そのステラの作品よりも、私の心に残ったのは、エーリヒ・ブラウアーによる”ソロモンの箴言より”という12枚の連作版画だった。
寡聞にもブラウアーの名前は知らなかった。1929年にウィーンでユダヤ系の家系に生まれ、ウィーン幻想派の画家として知られているという。
12枚の版画は、それぞれが、旧約聖書の箴言の言葉をもとに描かれている。人間や動物、自然の風景が、幻想的でカラフルで、どこかユーモラスな感じで描かれている。
近づいてよく見ると、それぞれの絵の元になっている聖書の言葉が、キャンバスの隅に、英語とヘブライ語で書かれている。ヘブライ語の方は、それが理解できない人間には、記号のようにしか見えない。
英語で表現されているもの、ヘブライ語で表現されているもの、そして、ブラウアーの絵で表現されているもの、その3つは、似通っているようで、微妙に異なっているのかもしれない。
コレクション展ということで、他にも、線をテーマに、ジョルジュ・ブラック、ブリジット・ライリー、ジャクソン・ポロック、李禹煥、などの作家の作品が展示されていた。
戦争/美術1940-1950モダニズムの連鎖と変容(神奈川県立近代美術館葉山館)
神奈川の逗子の駅から車で15分ほど、海を見下ろす場所に建っているモダンな建物が、神奈川県立近代美術館葉山館。開館10周年を記念した行われたのは、1940年から50年にかけての日本絵画を紹介するという、珍しい内容の展覧会だった。
最近、とみに注目を浴びている松本竣介は、この時代を代表する作家だ。立てる像、と題された有名な自画像は、焼け野原の中で、完全と自分の運命を向き合っている画家の姿を描いている。
松本は、自らの絵画と戦争協力との間に、はっきりと一線を引いていた。惜しくも、戦後すぐに病いで亡くなってしまった。
藤田嗣治のソロモン海峡に置ける米兵の末路という作品。戦前、エコールドパリの画家として華麗な活躍をした、軍人の子でもあった藤田は、戦争が近づくと帰国し、従軍記者として数多くの絵画を描いた。
戦後は、その戦時中の軍への強力を厳しく批判され、逃げるようにしてパリへ旅立ち、二度と日本に戻ることはなかった。
その絵は、明らかにドラクロアやジェリコーの絵画を参考にして描かれている。画家は、社会という人間の集団の中で生きている以上、どうしても、絵画の描き方だけではなく、その中に描いているものによっても、評価されてしまう。
山下菊治は、戦前は反米的な、日本の敵米国の崩壊、という絵を描いたが、戦後は逆に、あけぼの村物語、のような、反権力的な絵画を描いた。
描かれているテーマは異なっているが、その技法は、ほとんど変わっていないように見える。
新日本百景、という版画集。日本版画協会が1938年から1941年にかけて出版した。京都や富士山というお馴染みの風景の中に、台北や平壌などの風景もある。その時代、日本は台湾や朝鮮半島は日本の植民地だった。
日本の南洋への進出に伴い、南洋ブームのようなものが起こり、画家たちも、そうした絵を数多く描いた。画家たちにとっても、南洋はゴーギャンの影響もあり、魅力的な対象だったのだろう。
丸木位里、俊の夫婦による、広島の原爆による惨状を描いた作品の数々。広島は、丸木位里の故郷であり、原爆の投下を知った位里は、すぐに広島に向かい、その惨状を目の当りにした。その絵の圧倒的な存在感は、見た者の心に強烈な印象を残す。
それは、広島の原爆を題材としながら、描かれているものは、いつも時代にも起こりうる、この世の地獄の姿になっている。それらの絵画は、普遍的な何事かを、見るものに訴えかけている。
時代に翻弄されながらも、絵画を描き続けた、そうした画家たちの姿に、芸術と社会の何とも言えない不思議で奇妙な関係を、改めて考えさせられた。
最近、とみに注目を浴びている松本竣介は、この時代を代表する作家だ。立てる像、と題された有名な自画像は、焼け野原の中で、完全と自分の運命を向き合っている画家の姿を描いている。
松本は、自らの絵画と戦争協力との間に、はっきりと一線を引いていた。惜しくも、戦後すぐに病いで亡くなってしまった。
藤田嗣治のソロモン海峡に置ける米兵の末路という作品。戦前、エコールドパリの画家として華麗な活躍をした、軍人の子でもあった藤田は、戦争が近づくと帰国し、従軍記者として数多くの絵画を描いた。
戦後は、その戦時中の軍への強力を厳しく批判され、逃げるようにしてパリへ旅立ち、二度と日本に戻ることはなかった。
その絵は、明らかにドラクロアやジェリコーの絵画を参考にして描かれている。画家は、社会という人間の集団の中で生きている以上、どうしても、絵画の描き方だけではなく、その中に描いているものによっても、評価されてしまう。
山下菊治は、戦前は反米的な、日本の敵米国の崩壊、という絵を描いたが、戦後は逆に、あけぼの村物語、のような、反権力的な絵画を描いた。
描かれているテーマは異なっているが、その技法は、ほとんど変わっていないように見える。
新日本百景、という版画集。日本版画協会が1938年から1941年にかけて出版した。京都や富士山というお馴染みの風景の中に、台北や平壌などの風景もある。その時代、日本は台湾や朝鮮半島は日本の植民地だった。
日本の南洋への進出に伴い、南洋ブームのようなものが起こり、画家たちも、そうした絵を数多く描いた。画家たちにとっても、南洋はゴーギャンの影響もあり、魅力的な対象だったのだろう。
丸木位里、俊の夫婦による、広島の原爆による惨状を描いた作品の数々。広島は、丸木位里の故郷であり、原爆の投下を知った位里は、すぐに広島に向かい、その惨状を目の当りにした。その絵の圧倒的な存在感は、見た者の心に強烈な印象を残す。
それは、広島の原爆を題材としながら、描かれているものは、いつも時代にも起こりうる、この世の地獄の姿になっている。それらの絵画は、普遍的な何事かを、見るものに訴えかけている。
時代に翻弄されながらも、絵画を描き続けた、そうした画家たちの姿に、芸術と社会の何とも言えない不思議で奇妙な関係を、改めて考えさせられた。
2013年9月28日土曜日
アンリ・ルソーから始まる(世田谷美術館)
東京、用賀の世田谷美術館で行われた、その収蔵作品による素朴派およびアウトサイダー・アートを紹介する展覧会。
アンリ・ルソーから始まる、ということで、会場の最初のコーナーは、ルソーの特別ルームという趣で、うやうやしく、ルソーの3枚の絵が飾られていた。
イタリアで靴のデザイナーだったオルオネーレ・メテルリが、ジョルジョーネの嵐、を模写してオマージュを表した作品。
メテルリは、靴のデザイナーとしては、国際品評会の審査員をするほどの実績があった人物だったという。
このジョルジョーネのあまりにも有名な作品には、世界中の学者たちによって、様々な解釈がなされている。このメルテリの作品は、”むずかしいことをいろいろ議論するより、単に、この絵をマネして描いてみたら?”と言っているようにも見える。
同じくイタリア人のクラーリー・シトロエン。60才になってから絵を書き始め、80才で亡くなるまで、身近な花瓶の花の絵などを書き続けた。
背景を描かず、ただ小さな花々だけを、シンプルに描いたそうした作品には、作家の穏やかな性格、暮らしが、よく表れているように見える。
草間彌生、山下清、バスキアなどのポピュラーな作家たちの作品も展示されていたが、どうしても、あまり耳にしたことのない作家の作品に、自然と目がいってしまう。
久永強も、60才を過ぎてから絵を書き始める。ある時、香月泰男のシベリア抑留の絵を見て、自分がそこにいたときの、封印したはずの記憶が鮮明に蘇り、その記憶を、多くの作品として描いた。
痩せ細った自分の姿、亡くなった友人、その友人を埋葬する場面、自分たちを苦しめた看守などの30ほどの作品が、久光の言葉とともに、展示されていた。
それらは、絵画、というよりは、記録、あるいは、歴史、といった方がいいのかもしれない。
修道院で働いている時に、”絵を描きなさい”という神の声を聞き、生涯にわたってを描き続けたセラフィーヌ。彼女が描いた枝、という作品。真っ黄色な背景に、斜めにつぼみと花がついた枝が描かれている。
戦争で心を病んでしまったカルロ・ジネッリの作品は、まるで、古代や中世の人々が描いた、神話の世界を描いた壁画のように見える。
素朴派、あるいはアウトサーダーズといわれる人々の作品には、人間が絵を描くということはいったいどんなことなのか、という問いへの、本質的な答えが隠されているように思えてならない。
アンリ・ルソーから始まる、ということで、会場の最初のコーナーは、ルソーの特別ルームという趣で、うやうやしく、ルソーの3枚の絵が飾られていた。
イタリアで靴のデザイナーだったオルオネーレ・メテルリが、ジョルジョーネの嵐、を模写してオマージュを表した作品。
メテルリは、靴のデザイナーとしては、国際品評会の審査員をするほどの実績があった人物だったという。
このジョルジョーネのあまりにも有名な作品には、世界中の学者たちによって、様々な解釈がなされている。このメルテリの作品は、”むずかしいことをいろいろ議論するより、単に、この絵をマネして描いてみたら?”と言っているようにも見える。
同じくイタリア人のクラーリー・シトロエン。60才になってから絵を書き始め、80才で亡くなるまで、身近な花瓶の花の絵などを書き続けた。
背景を描かず、ただ小さな花々だけを、シンプルに描いたそうした作品には、作家の穏やかな性格、暮らしが、よく表れているように見える。
草間彌生、山下清、バスキアなどのポピュラーな作家たちの作品も展示されていたが、どうしても、あまり耳にしたことのない作家の作品に、自然と目がいってしまう。
久永強も、60才を過ぎてから絵を書き始める。ある時、香月泰男のシベリア抑留の絵を見て、自分がそこにいたときの、封印したはずの記憶が鮮明に蘇り、その記憶を、多くの作品として描いた。
痩せ細った自分の姿、亡くなった友人、その友人を埋葬する場面、自分たちを苦しめた看守などの30ほどの作品が、久光の言葉とともに、展示されていた。
それらは、絵画、というよりは、記録、あるいは、歴史、といった方がいいのかもしれない。
修道院で働いている時に、”絵を描きなさい”という神の声を聞き、生涯にわたってを描き続けたセラフィーヌ。彼女が描いた枝、という作品。真っ黄色な背景に、斜めにつぼみと花がついた枝が描かれている。
戦争で心を病んでしまったカルロ・ジネッリの作品は、まるで、古代や中世の人々が描いた、神話の世界を描いた壁画のように見える。
素朴派、あるいはアウトサーダーズといわれる人々の作品には、人間が絵を描くということはいったいどんなことなのか、という問いへの、本質的な答えが隠されているように思えてならない。
コスモスー写された自然の形象(東京都写真美術館)
恵比寿の東京都写真美術館の平成25年度のコレクション展、最後となるパートⅢでは、中国の五元思想にヒントを得て、会場を、木・火・土・金・水、の5つのコーナーに分けて、それぞれの対象を写した写真を紹介した。
アリストテレスは、すべての芸術は自然を模倣したものだ、と言ったが、写真という表現形式では、その自然のイメージを、そのまま切り取って提示することができる。
木のコーナーでは、森の風景、花の接写、木造建築の写真などが展示された。
エリオット・ポッターが、ニューハンプシャーで、楓、白樺、樫の樹木を写したカラー写真。秋の色ついた木々が、重なっている。その色があまりに鮮やかで、まるで、マチスの絵画の用に、森の中の遠近感が全く感じられない。
石元泰博による古書院の内部を写した写真。和室の障子、畳などの線が、部屋の奥の中心点に対して、完璧な対称になるように、撮影されている。
人間の感覚は、そうした対称となっているイメージを見ると、何とも言えない安定感を感じる。写真家は、時にその対称を写したり、わざと対称をずらしたり、崩したりして、独自の世界を構築しようとする。
火のコーナーでは、火山などの自然の風景を写した写真も多少あったが、ほとんどは、祭における火、焚き木、囲炉裏の火、町の灯り、などの人間が作り出した火の写真。
人間という生物は、他の生物が忌み嫌う、この火というものを使いこなそうとした生物なのだ、ということが、そうした写真から伺える。
しかし、究極の火、ともいえる原子力という技術を、まだ人類は、上手く使いこなせず、その副作用は、多くの人を苦しめている。
土のコーナーでは、広大な大地を写した写真、人間が耕作した畠や田んぼの写真など。
アンセル・アダムスのデスバレーの砂漠を写した写真。モノクロで、光の部分と影の部分の対比が美しい。自然の景色そのままのようにも見えるが、その対比は、暗室で作られたのだろう。
金のコーナーでは、金そのものよりも、金属、工場、工場から生み出された工業製品などの写真が多かった。
そこは、自然にはあまり存在しない、直線の世界が並んでいた。しかし、直線は、なぜか見るものに安心感を与える。菊地仁の何枚かの写真は、特にそのことを意識した作品だった。
最後の水のコーナーは、海や川を写した写真が多かった。人間にとって、海や川は、通り道であり、魚などの海産物を穫る恵みの源でもあった。
こうして、自然を写した写真をまとめて見てみると、そこに写されていたのは、自然の姿そのものというよりは、その自然と、人間はどのように関わってきた、ということの記録のようにも見えた。
アリストテレスは、すべての芸術は自然を模倣したものだ、と言ったが、写真という表現形式では、その自然のイメージを、そのまま切り取って提示することができる。
木のコーナーでは、森の風景、花の接写、木造建築の写真などが展示された。
エリオット・ポッターが、ニューハンプシャーで、楓、白樺、樫の樹木を写したカラー写真。秋の色ついた木々が、重なっている。その色があまりに鮮やかで、まるで、マチスの絵画の用に、森の中の遠近感が全く感じられない。
石元泰博による古書院の内部を写した写真。和室の障子、畳などの線が、部屋の奥の中心点に対して、完璧な対称になるように、撮影されている。
人間の感覚は、そうした対称となっているイメージを見ると、何とも言えない安定感を感じる。写真家は、時にその対称を写したり、わざと対称をずらしたり、崩したりして、独自の世界を構築しようとする。
火のコーナーでは、火山などの自然の風景を写した写真も多少あったが、ほとんどは、祭における火、焚き木、囲炉裏の火、町の灯り、などの人間が作り出した火の写真。
人間という生物は、他の生物が忌み嫌う、この火というものを使いこなそうとした生物なのだ、ということが、そうした写真から伺える。
しかし、究極の火、ともいえる原子力という技術を、まだ人類は、上手く使いこなせず、その副作用は、多くの人を苦しめている。
土のコーナーでは、広大な大地を写した写真、人間が耕作した畠や田んぼの写真など。
アンセル・アダムスのデスバレーの砂漠を写した写真。モノクロで、光の部分と影の部分の対比が美しい。自然の景色そのままのようにも見えるが、その対比は、暗室で作られたのだろう。
金のコーナーでは、金そのものよりも、金属、工場、工場から生み出された工業製品などの写真が多かった。
そこは、自然にはあまり存在しない、直線の世界が並んでいた。しかし、直線は、なぜか見るものに安心感を与える。菊地仁の何枚かの写真は、特にそのことを意識した作品だった。
最後の水のコーナーは、海や川を写した写真が多かった。人間にとって、海や川は、通り道であり、魚などの海産物を穫る恵みの源でもあった。
こうして、自然を写した写真をまとめて見てみると、そこに写されていたのは、自然の姿そのものというよりは、その自然と、人間はどのように関わってきた、ということの記録のようにも見えた。
2013年9月23日月曜日
国宝 興福寺仏頭展(東京芸術大学大学美術館)
興福寺は、何度か訪れたことがある。この展覧会で展示された、興福寺仏頭も、ずいぶんと前だが、見た記憶がある。
この数奇な運命を辿ってきた仏頭は、会場の3階のやや奥まった場所の、高い所で、スポットライトを浴び、祀り上げられるように、展示されていた。
白鳳時代、天武天皇の治世14年、西暦で言えば685年に製作された、と考えられているこの仏頭は、あまりに多くのことを見てきすぎた。
謀反の疑いを受けて自殺した、蘇我倉山田石川麻呂の供養のために山田寺建てられ、その後、平重衡によって興福寺が焼き討ちにあった後に、復興を急ぐ興福寺の僧兵によって、山田寺より略奪された。
仏頭自体は、丸顔で、仏様というよりは、自分の未来を見つめている少年のように見える。蘇我倉山田石川麻呂の顔を映したのかもしれない。
その仏頭の見下ろす場所には、この展覧会のもう一つの目玉、同じくの国宝の十二神将立像が、それぞれの小さなブースに収まって展示されていた。13世紀、鎌倉時代に作られたもの。
来場者は、それぞれのブースの周りをぐるりと回り、すべての立像を360度鑑賞することができる。
仏や菩薩については、仏典でその外観が規定されていることがよくあるが、この十二神将についてはそうした記述は一切無く、製作者の意図で、どのような姿にも作ることができる。
直立する神像、体をくねらしている神像など、すべてが違ったポーズ。特に、伐折羅大将は、剣を振り上げ、見上げる人を睨みつけ威嚇している。迫力は満点。
同じ十二神将だが、東金堂の壁面に作られた板彫のものも展示されていた。こちらは、少し前の時代、11世紀の平安時代に製作された。
立像と同じ神将を比べて見ると、ポーズも表情も異なっている。作られた時代や作る人によって、解釈が違っていることがよくわかる。
興福寺は、法相宗の寺。インドの世親によってまとめられた唯識の思想を、玄奘三蔵の弟子、慈恩大師が法相宗として体系化した。その教えを、遣唐使として唐を訪れた、玄昉という不思議な僧侶が日本に持ち帰り、興福寺に伝えた。
唯識の思想では、この世はすべて人間の思想が生み出したもの、という考え方をしている。その唯識の思想を広めている寺が、美しい仏頭や十二神将像を大切に伝えているということは、何とも皮肉な感じがしないでもない。
この数奇な運命を辿ってきた仏頭は、会場の3階のやや奥まった場所の、高い所で、スポットライトを浴び、祀り上げられるように、展示されていた。
白鳳時代、天武天皇の治世14年、西暦で言えば685年に製作された、と考えられているこの仏頭は、あまりに多くのことを見てきすぎた。
謀反の疑いを受けて自殺した、蘇我倉山田石川麻呂の供養のために山田寺建てられ、その後、平重衡によって興福寺が焼き討ちにあった後に、復興を急ぐ興福寺の僧兵によって、山田寺より略奪された。
仏頭自体は、丸顔で、仏様というよりは、自分の未来を見つめている少年のように見える。蘇我倉山田石川麻呂の顔を映したのかもしれない。
その仏頭の見下ろす場所には、この展覧会のもう一つの目玉、同じくの国宝の十二神将立像が、それぞれの小さなブースに収まって展示されていた。13世紀、鎌倉時代に作られたもの。
来場者は、それぞれのブースの周りをぐるりと回り、すべての立像を360度鑑賞することができる。
仏や菩薩については、仏典でその外観が規定されていることがよくあるが、この十二神将についてはそうした記述は一切無く、製作者の意図で、どのような姿にも作ることができる。
直立する神像、体をくねらしている神像など、すべてが違ったポーズ。特に、伐折羅大将は、剣を振り上げ、見上げる人を睨みつけ威嚇している。迫力は満点。
同じ十二神将だが、東金堂の壁面に作られた板彫のものも展示されていた。こちらは、少し前の時代、11世紀の平安時代に製作された。
立像と同じ神将を比べて見ると、ポーズも表情も異なっている。作られた時代や作る人によって、解釈が違っていることがよくわかる。
興福寺は、法相宗の寺。インドの世親によってまとめられた唯識の思想を、玄奘三蔵の弟子、慈恩大師が法相宗として体系化した。その教えを、遣唐使として唐を訪れた、玄昉という不思議な僧侶が日本に持ち帰り、興福寺に伝えた。
唯識の思想では、この世はすべて人間の思想が生み出したもの、という考え方をしている。その唯識の思想を広めている寺が、美しい仏頭や十二神将像を大切に伝えているということは、何とも皮肉な感じがしないでもない。
2013年9月22日日曜日
プーシキン美術館展 フランス絵画300年(横浜美術館)
横浜美術館で開催されたプーシキン美術館展。
2011年の秋に開催される予定だったが、東日本大震災の影響で延期され、2年後になってようやく開催された。
会場の入り口に、ニコラ・プッサンの、アモリびとを打ち破るヨシュア、という1メートル四方ほどの作品が展示されていた。
プッサンが1624年、30才の時に、パリの政治的な争いに疲れローマに移った時に描かれたといわれる作品。ラファエロらの作品を参考にしたといわれている。
以降、プッサンは二度と故国のフランスには戻らなかった。フランスのロココ美術を代表する画家だけに、その経緯は意外に感じられる。
この絵画も、エカテリーナ女帝によって購入され、ロシアに渡った。この展覧会を象徴するように作品を最初に持ってくるあたりに、企画の意図が感じられる。
フランソワ・プーシェの、ユピテルとカリプソ。女神ユピテルがカリストを誘惑している場面。その二人の肌の色は、薄くピンクがかった白で、何とも言えず美しい。これぞ、フランスのロココ絵画、といった感じ。現実感が感じられず、王侯貴族のための、美のための美の典型だ。
アングルの、聖杯の前の聖母。アングルらしい、濃厚なこってりしたフランス料理のような絵画。聖母が聖杯の前で手を合わせ、伏し目がちに聖杯を見つめている。聖杯の上には、メダルがまっすぐに立っている。現実的にはあり得ない様子は、ある種の奇跡を描いているのだろう。
ドラクロアの、難破して。濃い緑色で描かれた荒海を進む、一艘の小舟。難破した人々が、ある人は他人を助け、ある人は、負傷して縁に寄りかかっている。小品ながら、ドラクロアを象徴するような作品。
ヴィヤールの、庭。庭の中央にあるイスに、二人の女性が座って話をしている、というだけの作品。ヴィヤールは、形よりも、この絵を色の集まりとして描いている。しかも、色は、灰色や、くすんだ色合いの青や緑を使っている。
それなのに、この絵は、実に美しい。絵といより、色のコンビネーションを表現した、文様のようにも見える。ヴィヤールは、まさに色の魔術師だ。
モーリス・ドニの、緑の浜辺、ペロス=ギレック。縦1メートル、横2メートルの色鮮やかなキャンバスに、思わず声を上げそうになった。
人の肌をピンク色で描く、ドニの独特の色彩感覚。しかし、印象的なのは、遠くに見える空と海の青だった。全面の人々の姿は、伝統的な人間のポーズ、あるいはゴーギャンの絵の中のあるポーズのように見える。
マチスの、カラー、アイリス、ミモザ。マチス独特の平面的で、塗り絵のような花の絵。モロッコを訪れた後に、ロシア人のコレクター、シチューキンの部屋を飾るために描かれた。
ロシアの美術館の展覧会で、フランスの300年に渡る絵画の流れを見ることができるというのは、考えてみれば、不思議なことだ。
ロシア料理が、フランス料理を影響を与えたり、フランスで発展しながら忘れられたバレエが、ロシアで復活されたり、といったこの2つの国の関係は、ヨーロッパのある一つの側面を感じさせる。
2011年の秋に開催される予定だったが、東日本大震災の影響で延期され、2年後になってようやく開催された。
会場の入り口に、ニコラ・プッサンの、アモリびとを打ち破るヨシュア、という1メートル四方ほどの作品が展示されていた。
プッサンが1624年、30才の時に、パリの政治的な争いに疲れローマに移った時に描かれたといわれる作品。ラファエロらの作品を参考にしたといわれている。
以降、プッサンは二度と故国のフランスには戻らなかった。フランスのロココ美術を代表する画家だけに、その経緯は意外に感じられる。
この絵画も、エカテリーナ女帝によって購入され、ロシアに渡った。この展覧会を象徴するように作品を最初に持ってくるあたりに、企画の意図が感じられる。
フランソワ・プーシェの、ユピテルとカリプソ。女神ユピテルがカリストを誘惑している場面。その二人の肌の色は、薄くピンクがかった白で、何とも言えず美しい。これぞ、フランスのロココ絵画、といった感じ。現実感が感じられず、王侯貴族のための、美のための美の典型だ。
アングルの、聖杯の前の聖母。アングルらしい、濃厚なこってりしたフランス料理のような絵画。聖母が聖杯の前で手を合わせ、伏し目がちに聖杯を見つめている。聖杯の上には、メダルがまっすぐに立っている。現実的にはあり得ない様子は、ある種の奇跡を描いているのだろう。
ドラクロアの、難破して。濃い緑色で描かれた荒海を進む、一艘の小舟。難破した人々が、ある人は他人を助け、ある人は、負傷して縁に寄りかかっている。小品ながら、ドラクロアを象徴するような作品。
ヴィヤールの、庭。庭の中央にあるイスに、二人の女性が座って話をしている、というだけの作品。ヴィヤールは、形よりも、この絵を色の集まりとして描いている。しかも、色は、灰色や、くすんだ色合いの青や緑を使っている。
それなのに、この絵は、実に美しい。絵といより、色のコンビネーションを表現した、文様のようにも見える。ヴィヤールは、まさに色の魔術師だ。
モーリス・ドニの、緑の浜辺、ペロス=ギレック。縦1メートル、横2メートルの色鮮やかなキャンバスに、思わず声を上げそうになった。
人の肌をピンク色で描く、ドニの独特の色彩感覚。しかし、印象的なのは、遠くに見える空と海の青だった。全面の人々の姿は、伝統的な人間のポーズ、あるいはゴーギャンの絵の中のあるポーズのように見える。
マチスの、カラー、アイリス、ミモザ。マチス独特の平面的で、塗り絵のような花の絵。モロッコを訪れた後に、ロシア人のコレクター、シチューキンの部屋を飾るために描かれた。
ロシアの美術館の展覧会で、フランスの300年に渡る絵画の流れを見ることができるというのは、考えてみれば、不思議なことだ。
ロシア料理が、フランス料理を影響を与えたり、フランスで発展しながら忘れられたバレエが、ロシアで復活されたり、といったこの2つの国の関係は、ヨーロッパのある一つの側面を感じさせる。
中村不折コレクション 江戸ワールド(書道博物館)
中村不折の旧宅跡地にある、書道博物館。そこで、およそ3ヶ月、3期に分けて開催された、中村不折コレクション 江戸ワールド。
受付のすぐ近く、1階の一番奥に、一つの文字が、人の顔ほどあろうかという、大きな字で書かれた、克己復礼の文字。
己に勝つ、その上で、礼儀を振り返れ、という意味だろうか。現代に住む人々が、忘れてしまっていることのようだ。
江戸城の松の廊下で、主君の浅野内匠頭が、吉良上野介に斬りつけた、という事件の一報を、赤穂にいる大石内蔵助に知らせた、片岡源五右衛門の手紙。
現代であれば、電話やメールで知らせるようなことを、当時は手紙で伝えた。手紙には、それを書いた人の気持ちが、にじみ出ているように見える。
徳川家康はじめ、代々の徳川将軍に仕え、儒教の普及に貢献した林羅山の行書五言絶句軸。その文字の印象は、とても柔らかく、政治の世界に生きた人間の書とは、とても思えない。
小林一茶の2つの俳画軸。決して、達筆とは言えないが、素朴で実に味のある書。そして、一筆書きのように、自らの姿をシンプルに描き、画も一茶、と書き加えている。
良寛の書。草書で書かれた二つの七言絶句の掛け軸。いずれも、よく知られた良寛の独特の書。何が書いてあるか、全くわからない。
同じ良寛の書巻には、あいうえお・・・とひらがな五十音が書かれている。こちらは、誰にでもわかる文字で書かれている。
徳川光圀の草書七言二句軸。草書とあるが、一字一字をしっかりと、書き切っている。機をてらわない、光圀という人物の性格が、よく現れている。
寛政の改革を行った、松平定信の楷書「楽則」軸。楽しいこと、を書き連ねた書。月夜を歩く、名君が治める国に住む、朝に鳥の声を聞く・・・などの言葉が並んでいる。厳しい政治家の別な側面が垣間見える。
井伊直弼の行書五字軸。筆にたっぷりと墨を染み込ませ、太くはっきりとした字で書かれた書。期せずして彦根藩の藩主となり、その後、時代の変わり目に江戸幕府の大老を務め、桜田門外に無念の死を遂げた。その真っ直ぐな性格が、字からも見てとれる。
谷文晁に絵を学んだ渡辺崋山。その草花図軸は、その波乱の人生が想像できないほど、繊細で美しい。
伊藤若冲の描いた松尾芭蕉。薄墨で、実に当たり前に芭蕉を描いている。個性的な若冲のイメージからは、想像できないような、あまりに普通な水墨画。若冲の別な側面を見た気がした。
正岡子規が、この博物館を作った中村不折に書いた手紙が展示されていた。友人のために、不折に絵を書いてくれないか、と依頼している。今日に読んでも、十分に読めるほど、わかりやすい字で書いている。
この博物館の隣には、子規が住んでいたという子規庵がある。今は、ラブホテル街となってしまったこの辺りは、かつては、違った雰囲気の町だったのだろう。
3ヶ月に渡り、3度訪れたこの展覧会。江戸時代の武士、宗教家、文人、僧侶、俳人など、様々なひとびとが書いた書を見た。
文字通り、書は、その人をよく表す。
受付のすぐ近く、1階の一番奥に、一つの文字が、人の顔ほどあろうかという、大きな字で書かれた、克己復礼の文字。
己に勝つ、その上で、礼儀を振り返れ、という意味だろうか。現代に住む人々が、忘れてしまっていることのようだ。
江戸城の松の廊下で、主君の浅野内匠頭が、吉良上野介に斬りつけた、という事件の一報を、赤穂にいる大石内蔵助に知らせた、片岡源五右衛門の手紙。
現代であれば、電話やメールで知らせるようなことを、当時は手紙で伝えた。手紙には、それを書いた人の気持ちが、にじみ出ているように見える。
徳川家康はじめ、代々の徳川将軍に仕え、儒教の普及に貢献した林羅山の行書五言絶句軸。その文字の印象は、とても柔らかく、政治の世界に生きた人間の書とは、とても思えない。
小林一茶の2つの俳画軸。決して、達筆とは言えないが、素朴で実に味のある書。そして、一筆書きのように、自らの姿をシンプルに描き、画も一茶、と書き加えている。
良寛の書。草書で書かれた二つの七言絶句の掛け軸。いずれも、よく知られた良寛の独特の書。何が書いてあるか、全くわからない。
同じ良寛の書巻には、あいうえお・・・とひらがな五十音が書かれている。こちらは、誰にでもわかる文字で書かれている。
徳川光圀の草書七言二句軸。草書とあるが、一字一字をしっかりと、書き切っている。機をてらわない、光圀という人物の性格が、よく現れている。
寛政の改革を行った、松平定信の楷書「楽則」軸。楽しいこと、を書き連ねた書。月夜を歩く、名君が治める国に住む、朝に鳥の声を聞く・・・などの言葉が並んでいる。厳しい政治家の別な側面が垣間見える。
井伊直弼の行書五字軸。筆にたっぷりと墨を染み込ませ、太くはっきりとした字で書かれた書。期せずして彦根藩の藩主となり、その後、時代の変わり目に江戸幕府の大老を務め、桜田門外に無念の死を遂げた。その真っ直ぐな性格が、字からも見てとれる。
谷文晁に絵を学んだ渡辺崋山。その草花図軸は、その波乱の人生が想像できないほど、繊細で美しい。
伊藤若冲の描いた松尾芭蕉。薄墨で、実に当たり前に芭蕉を描いている。個性的な若冲のイメージからは、想像できないような、あまりに普通な水墨画。若冲の別な側面を見た気がした。
正岡子規が、この博物館を作った中村不折に書いた手紙が展示されていた。友人のために、不折に絵を書いてくれないか、と依頼している。今日に読んでも、十分に読めるほど、わかりやすい字で書いている。
この博物館の隣には、子規が住んでいたという子規庵がある。今は、ラブホテル街となってしまったこの辺りは、かつては、違った雰囲気の町だったのだろう。
3ヶ月に渡り、3度訪れたこの展覧会。江戸時代の武士、宗教家、文人、僧侶、俳人など、様々なひとびとが書いた書を見た。
文字通り、書は、その人をよく表す。
2013年9月21日土曜日
ルーブル美術館展 地中海四千年のものがたり(東京都美術館)
東京、上野にある東京都美術館で開催された、ルーブル美術館展は、少し趣向が変わっており、特定の画家や、時代をテーマにして物ではなく、地中海という広い地域の四千年の歴史を、出土品や美術品で振り返るというもの。
ルーブル美術館にある、8つの美術部門がすべて関係した初めての企画であるという。
あまり有名な画家や芸術家の作品は、それほど多くは展示されていない。ほとんどは、古代から中世にかけて、地中海の各地で製作された食器や彫像などの工芸品だった。
その意味では、個々の展示品を楽しむというよりは、それらの全体を通じて、地中海とはそこに暮らす人々にとってどんな場所だったのか、を振り返る、そんな内容の展覧会だった。
古代の地中海地域において、最初に大きな文明を築いたのはエジプトだった。そのエジプトから、海を通じて、様々な物や、イメージが地中海一帯に広がっていった。
ロドス島やキプロス島で発掘された、エジプトの神々をかたどった様々な彫像。古代のガラスはまだ透明ではないが、やはりエジプトなどの中東地域や、地中海の島々から見つかっている。それらの品々は、当時の地中海の状況を、わずかながら、現代に伝えている。
エジプトが衰退すると、ローマとフェニキア人のカルタゴが、地中海の覇権をかけて争った。最終的にはローマが勝利を収め、カルタゴの痕跡を徹底的に消し去ってしまった。
カルタゴが、いかに巨大な存在であったかと言うことが、現代では、よくわからない。北アフリカのチュニジアやモロッコで発掘された石碑などの出土品が、わずかにその面影を伝えている。
勝者のローマは、数多くの大理石の彫刻を、現代にまで残している。私たちが知っている歴史は、あくまでも勝者に歴史であるということが、その立ち並んでいる大理石の銅像から、痛いほど、思い知らされる。
そのローマも衰退の時期を迎え、7世紀には、アラビア半島に起こったイスラム勢力が、地中海の南地域と、スペインのほとんどをその勢力下に治めた。
偶像崇拝が禁止されたイスラム工芸の、その幾何学的な模様が、実に美しい。そうした模様を見ていると、人間や実際の景色を描いた偶像が、いかに不完全であるのか、ということがよくわかる。
キリスト教国とアラビア勢力の間で争われた戦いの中で、地の利を生かし、地中海の主となったのは、小国のヴェネツィアだった。この時代になると、ようやく絵画が登場してくる。
やがて、オスマントルコがコンスタンチノープルを征服し、地中海の覇者となった。スイス人のリオタールという画家は、ナポリからイスタンブールにかけて旅行し、そのままインスタンブールに止まって、その地の人々の姿などを描いた。
当時のヨーロッパは、オスマントルコの脅威に怯えながらも、トルココーヒーや、エキゾチックな文化などを楽しんでもいた。また、トルコ人がヨーロッパの工芸品を好んだこともあり、工芸品の輸出先でもあった。
会場の最後の方に、コローやシャセリオーのオリエント趣味の絵画が展示されていたが、それまでに目にした様々な古代や中世の工芸品や彫像などを目にした後では、そうした作品が、あまり心に入ってこなかった。
ルーブル美術館にある、8つの美術部門がすべて関係した初めての企画であるという。
あまり有名な画家や芸術家の作品は、それほど多くは展示されていない。ほとんどは、古代から中世にかけて、地中海の各地で製作された食器や彫像などの工芸品だった。
その意味では、個々の展示品を楽しむというよりは、それらの全体を通じて、地中海とはそこに暮らす人々にとってどんな場所だったのか、を振り返る、そんな内容の展覧会だった。
古代の地中海地域において、最初に大きな文明を築いたのはエジプトだった。そのエジプトから、海を通じて、様々な物や、イメージが地中海一帯に広がっていった。
ロドス島やキプロス島で発掘された、エジプトの神々をかたどった様々な彫像。古代のガラスはまだ透明ではないが、やはりエジプトなどの中東地域や、地中海の島々から見つかっている。それらの品々は、当時の地中海の状況を、わずかながら、現代に伝えている。
エジプトが衰退すると、ローマとフェニキア人のカルタゴが、地中海の覇権をかけて争った。最終的にはローマが勝利を収め、カルタゴの痕跡を徹底的に消し去ってしまった。
カルタゴが、いかに巨大な存在であったかと言うことが、現代では、よくわからない。北アフリカのチュニジアやモロッコで発掘された石碑などの出土品が、わずかにその面影を伝えている。
勝者のローマは、数多くの大理石の彫刻を、現代にまで残している。私たちが知っている歴史は、あくまでも勝者に歴史であるということが、その立ち並んでいる大理石の銅像から、痛いほど、思い知らされる。
そのローマも衰退の時期を迎え、7世紀には、アラビア半島に起こったイスラム勢力が、地中海の南地域と、スペインのほとんどをその勢力下に治めた。
偶像崇拝が禁止されたイスラム工芸の、その幾何学的な模様が、実に美しい。そうした模様を見ていると、人間や実際の景色を描いた偶像が、いかに不完全であるのか、ということがよくわかる。
キリスト教国とアラビア勢力の間で争われた戦いの中で、地の利を生かし、地中海の主となったのは、小国のヴェネツィアだった。この時代になると、ようやく絵画が登場してくる。
やがて、オスマントルコがコンスタンチノープルを征服し、地中海の覇者となった。スイス人のリオタールという画家は、ナポリからイスタンブールにかけて旅行し、そのままインスタンブールに止まって、その地の人々の姿などを描いた。
当時のヨーロッパは、オスマントルコの脅威に怯えながらも、トルココーヒーや、エキゾチックな文化などを楽しんでもいた。また、トルコ人がヨーロッパの工芸品を好んだこともあり、工芸品の輸出先でもあった。
会場の最後の方に、コローやシャセリオーのオリエント趣味の絵画が展示されていたが、それまでに目にした様々な古代や中世の工芸品や彫像などを目にした後では、そうした作品が、あまり心に入ってこなかった。
2013年9月16日月曜日
清雅なる情景 日本中世の水墨画(根津美術館)
根津美術館が所有する、14世紀から16世紀にかけての水墨画を展示した展覧会。
啓釈という15世紀の画僧が描いた、一葉観音図。一枚の葉っぱの上に、子供のような白衣観音が乗って、海の上を漂っている、という不思議な水墨画。
そのかわいらしい観音様は、江戸時代の白隠や仙厓に通じるものがある。
日本の水墨画の祖、周文の筆と伝わる、江天達意図。画面の左下には、川沿いに建てられた小さな家、そして右上の遠景に、対岸の山がぼんやりと描かれている。周文により描かれたと言われてきたせいか、その上部には、なんと12人による賛が書かれている。
拙宗等揚の山水図と破墨山水図。この拙宗等揚という人物は、現在では、雪舟の若い時の画号であると考えられている。雪舟は、京都の相国寺において、周文の元で水墨画を学んだ。
その破墨山水図は、長く牧谿の作品と考えられていた。大雑把に描いた部分と、木の枝を細かい筆先で描いた部分が混在する、何とも不思議な水墨画。
芸阿弥の観瀑図。芸阿弥は代々足利将軍に仕え、明の国からもたらされた芸術品の管理も任されていた。流れ落ちる滝壺の奥に小さな庵があり、そこに老僧と童が向かい、細い橋を渡って向かっている。
芸阿弥の弟子に当たる、賢江祥啓は、鎌倉・建長寺に務めていた。その祥啓による山水図は、滝こそ描かれていないが、その他の構図は芸阿弥の作品にそっくりで、その絵を写したことが明らかに見て取れる。
その祥啓による人馬図。こちらは水墨画ではなく、色鮮やかに彩色されている。芸阿弥に学んでいる際に、明からもたらされた絵画を写したと思われる作品。中国の絵画は、細い線を使い、馬のたてがみ、人間の髭などを繊細な表現で描いている。
直接の弟子ではないが、雪舟を慕い、その名前の一字をとった雪村周継。その龍虎図屏風は、竜と虎を向かい合わせた屏風に描く伝統的な構図。日本人にとっては、龍も虎も、未知の生き物だった。そのせいか、いずれも、どこかユーモラスに感じられる。
やがて、水墨画の流れは、狩野派という大きな流派を作り出していく。その祖、狩野正信の筆と伝わる観瀑図と、その子の狩野元信の筆と伝わる、養蚕機織図屏風。後者は、六曲二双の屏風に、蚕を育てる所から、織物にするまでを、山水画の世界の中に描いている。
等春の杜子美図。等春は、雪舟の弟子といわれ、加賀の地で活躍した。その等春を師と仰いだのが、狩野派のライバルとなる長谷川等伯だった。
この杜子美図は、一人の官吏が、小さな馬に乗って、悠々と山道を進んでいる。しかし、人物と比べ、馬が余りに小さく、重い人間を背負っている馬が気の毒になって、思わず笑ってしまう。
この展覧会で展示された水墨画の作品は、全部でわずか50点弱ながら、日本の水墨画の流れを概観できる、有意義な内容の展覧会だった。
啓釈という15世紀の画僧が描いた、一葉観音図。一枚の葉っぱの上に、子供のような白衣観音が乗って、海の上を漂っている、という不思議な水墨画。
そのかわいらしい観音様は、江戸時代の白隠や仙厓に通じるものがある。
日本の水墨画の祖、周文の筆と伝わる、江天達意図。画面の左下には、川沿いに建てられた小さな家、そして右上の遠景に、対岸の山がぼんやりと描かれている。周文により描かれたと言われてきたせいか、その上部には、なんと12人による賛が書かれている。
拙宗等揚の山水図と破墨山水図。この拙宗等揚という人物は、現在では、雪舟の若い時の画号であると考えられている。雪舟は、京都の相国寺において、周文の元で水墨画を学んだ。
その破墨山水図は、長く牧谿の作品と考えられていた。大雑把に描いた部分と、木の枝を細かい筆先で描いた部分が混在する、何とも不思議な水墨画。
芸阿弥の観瀑図。芸阿弥は代々足利将軍に仕え、明の国からもたらされた芸術品の管理も任されていた。流れ落ちる滝壺の奥に小さな庵があり、そこに老僧と童が向かい、細い橋を渡って向かっている。
芸阿弥の弟子に当たる、賢江祥啓は、鎌倉・建長寺に務めていた。その祥啓による山水図は、滝こそ描かれていないが、その他の構図は芸阿弥の作品にそっくりで、その絵を写したことが明らかに見て取れる。
その祥啓による人馬図。こちらは水墨画ではなく、色鮮やかに彩色されている。芸阿弥に学んでいる際に、明からもたらされた絵画を写したと思われる作品。中国の絵画は、細い線を使い、馬のたてがみ、人間の髭などを繊細な表現で描いている。
直接の弟子ではないが、雪舟を慕い、その名前の一字をとった雪村周継。その龍虎図屏風は、竜と虎を向かい合わせた屏風に描く伝統的な構図。日本人にとっては、龍も虎も、未知の生き物だった。そのせいか、いずれも、どこかユーモラスに感じられる。
やがて、水墨画の流れは、狩野派という大きな流派を作り出していく。その祖、狩野正信の筆と伝わる観瀑図と、その子の狩野元信の筆と伝わる、養蚕機織図屏風。後者は、六曲二双の屏風に、蚕を育てる所から、織物にするまでを、山水画の世界の中に描いている。
等春の杜子美図。等春は、雪舟の弟子といわれ、加賀の地で活躍した。その等春を師と仰いだのが、狩野派のライバルとなる長谷川等伯だった。
この杜子美図は、一人の官吏が、小さな馬に乗って、悠々と山道を進んでいる。しかし、人物と比べ、馬が余りに小さく、重い人間を背負っている馬が気の毒になって、思わず笑ってしまう。
この展覧会で展示された水墨画の作品は、全部でわずか50点弱ながら、日本の水墨画の流れを概観できる、有意義な内容の展覧会だった。
2013年9月15日日曜日
ミケランジェロ展 天才の軌跡(国立西洋美術館)
東京、上野の国立西洋美術館で開催された、ミケランジェロについての展覧会。
今年は、ラファエロ、ダ・ヴィンチ展が開催され、このミケランジェロ展で、ルネサンスの3巨匠の展覧会が揃って開催されたこととなった。
ラファエロ展では、数多くの油絵が展示され、ダ・ヴィンチ展では、完成品ではないが、音楽家の肖像画と、多くの手記が展示された。
残念ながら、それに比べると、このミケランジェロ点では、15才の時の小さな彫刻が一つ、あとは、断片的なデッサンがほとんどで、内容的には、ラファエロ、ダ・ヴィンチ展に比べると、やや期待はずれな内容だった。
入り口の近くに、マルチェロ・ヴェヌスティという画家が描いたミケランジェロの肖像画が飾ってあった。ミケランジェロ自身は、肖像画を一枚も描いていない。
面白いことに、ライバルと目されたダ・ヴィンチも、肖像画を残していない。しかし、二人を慕っていたというラファエロは、何枚か肖像画を描いている。
ミケランジェロの代表作、システィーナ礼拝堂の壁画。そのデッサンが何枚か展示されていた。しかし、それらは、本当に断片としかいえないものばかり。
実は、ミケランジェロは、自分のデッサンをすべて処分していた。最終的な完成作品以外が、人の目に触れることを嫌ったという。そこに展示されていたのは、何らかの形で、本人の手を離れたものだった。
ミケランジェロが、法王や自分の親類に送った手紙の数々。ミケランジェロというと、気が強く、ワイルドなイメージが強いが、いずれの手紙も、一文字一文字をはっきりと、丁寧に書いて、その几帳面な性格が伺える。
今回の展覧会の目玉ともいえる、階段の聖母、という60センチ、40センチ大の大理石のプレートの彫刻。
この作品を作った時、ミケランジェロはわずか15才だった。先人のドナテッロの作品を学びながら彫ったとという。
この展覧会から垣間見えたミケランジェロという人物は、ただひたすらに、作品と向き合い続けた、一人の芸術家の姿だった。
今年は、ラファエロ、ダ・ヴィンチ展が開催され、このミケランジェロ展で、ルネサンスの3巨匠の展覧会が揃って開催されたこととなった。
ラファエロ展では、数多くの油絵が展示され、ダ・ヴィンチ展では、完成品ではないが、音楽家の肖像画と、多くの手記が展示された。
残念ながら、それに比べると、このミケランジェロ点では、15才の時の小さな彫刻が一つ、あとは、断片的なデッサンがほとんどで、内容的には、ラファエロ、ダ・ヴィンチ展に比べると、やや期待はずれな内容だった。
入り口の近くに、マルチェロ・ヴェヌスティという画家が描いたミケランジェロの肖像画が飾ってあった。ミケランジェロ自身は、肖像画を一枚も描いていない。
面白いことに、ライバルと目されたダ・ヴィンチも、肖像画を残していない。しかし、二人を慕っていたというラファエロは、何枚か肖像画を描いている。
ミケランジェロの代表作、システィーナ礼拝堂の壁画。そのデッサンが何枚か展示されていた。しかし、それらは、本当に断片としかいえないものばかり。
実は、ミケランジェロは、自分のデッサンをすべて処分していた。最終的な完成作品以外が、人の目に触れることを嫌ったという。そこに展示されていたのは、何らかの形で、本人の手を離れたものだった。
ミケランジェロが、法王や自分の親類に送った手紙の数々。ミケランジェロというと、気が強く、ワイルドなイメージが強いが、いずれの手紙も、一文字一文字をはっきりと、丁寧に書いて、その几帳面な性格が伺える。
今回の展覧会の目玉ともいえる、階段の聖母、という60センチ、40センチ大の大理石のプレートの彫刻。
この作品を作った時、ミケランジェロはわずか15才だった。先人のドナテッロの作品を学びながら彫ったとという。
この展覧会から垣間見えたミケランジェロという人物は、ただひたすらに、作品と向き合い続けた、一人の芸術家の姿だった。
ル・コルビュジエと20世紀美術(国立西洋美術館)
東京、上野の国立西洋美術館は、ル・コルビュジエが設計した建物で知られるが、そこで開催された、ル・コルビュジエの芸術家としての側面にフォーカスをあてた展覧会。
ル・コルビュジエは、午前中は絵画を描くなどの芸術家の活動に時間を使い、午後になると、設計事務所で建築の仕事を行った。その習慣は、修正変わらなかった。
ル・コルビュジエにとって、絵画とは、物の形を把握するために必要な活動で、その経験が、建築の分野にも活かされる、と自ら語っていた。
若いスイス人の建築家だったル・コルビュジエを、絵画の世界に引き込んだのは、1才年上のアメデ・オザンファンだった。
その時、ル・コルビュジエは、まだシャルル=エドゥアール・ジャンヌレという名前だった。後年、ル・コルビュジエと名乗ることになるが、実は、そう名付けたのは、このオザンファンだった。
オザンファンのカラフを描いた作品を見ると、平面的で、陰翳をまるでつけないその彩色法などに、20世紀初頭のパリの芸術の流れが感じられる。
1918年にル・コルビュジエが、コーヒーポットやワイン、テーブルなどを描いた作品は、実に簡潔に、しかし対象を忠実に描いている。
やがてル・コルビュジエが建築家として有名になるにつれ、二人の関係は疎遠なものになっていった。
ル・コルビュジエは、フェルナン・レジェなどの画家たちと親しくなっていく。そして、描く絵画も、レジェ風の作品が増えていく。
また、素朴派で知られるアンドレ・ボーシャンの絵画に早くから目を付けて、その名が知られる前から、絵画を購入し、自らが主宰する雑誌『レスプリ/ヌーヴォー』でも紹介し、自宅の寝室に飾っていた。
会場には、ル・コルビュジエ財団が所有するサン=ブリスの嵐、という作品が展示されていた。その絵を見る限り、ル・コルビュジエ自身は、直接は、ボーシャンの作風に影響は受けなかったようだ。
戦後、日本がフランスの没収されていた松方コレクションを返還されることになり、そのコレクションを展示する美術館の設計の依頼がル・コルビュジエの元に来る。
ル・コルビュジエは、自分が暖めていた無限美術館というコンセプトを実現すべく、その設計に取り組んだ。
会場には、その設計の模型が置かれていたが、今日、私たちが目にする美術館とは少し違っている。ル・コルビュジエは、一度だけ現地を訪れ、その後は自分のスタジオで設計していたようで、彼の設計は、実際の敷地のサイズを越えてしまっていた。
ル・コルビュジエは、建築や絵画といった様々な要素が、芸術として統合することを理想とし、自ら設計した建築に、タピスリーや壁画を組み合わせていた。
会場には、奇妙な鳥と牡牛、というタピスリーや、自らが設計した、インドのチャンディガールの高等裁判所に飾るタピスリーの習作などが展示されていた。
彼の頭の中には、ルネサンス期におけるような、総合芸術のイメージを、現代の技術を使い、その社会環境の中で、実現したいという考えがあったのかもしれない。
これまでは、ル・コルビュジエは、建築家としてしか見ていなかったが、彼自身は、実際は、もっと大きな視点で、自分自身の活動を捉えていたということが、この展覧会から伺えた。
ル・コルビュジエは、午前中は絵画を描くなどの芸術家の活動に時間を使い、午後になると、設計事務所で建築の仕事を行った。その習慣は、修正変わらなかった。
ル・コルビュジエにとって、絵画とは、物の形を把握するために必要な活動で、その経験が、建築の分野にも活かされる、と自ら語っていた。
若いスイス人の建築家だったル・コルビュジエを、絵画の世界に引き込んだのは、1才年上のアメデ・オザンファンだった。
その時、ル・コルビュジエは、まだシャルル=エドゥアール・ジャンヌレという名前だった。後年、ル・コルビュジエと名乗ることになるが、実は、そう名付けたのは、このオザンファンだった。
オザンファンのカラフを描いた作品を見ると、平面的で、陰翳をまるでつけないその彩色法などに、20世紀初頭のパリの芸術の流れが感じられる。
1918年にル・コルビュジエが、コーヒーポットやワイン、テーブルなどを描いた作品は、実に簡潔に、しかし対象を忠実に描いている。
やがてル・コルビュジエが建築家として有名になるにつれ、二人の関係は疎遠なものになっていった。
ル・コルビュジエは、フェルナン・レジェなどの画家たちと親しくなっていく。そして、描く絵画も、レジェ風の作品が増えていく。
また、素朴派で知られるアンドレ・ボーシャンの絵画に早くから目を付けて、その名が知られる前から、絵画を購入し、自らが主宰する雑誌『レスプリ/ヌーヴォー』でも紹介し、自宅の寝室に飾っていた。
会場には、ル・コルビュジエ財団が所有するサン=ブリスの嵐、という作品が展示されていた。その絵を見る限り、ル・コルビュジエ自身は、直接は、ボーシャンの作風に影響は受けなかったようだ。
戦後、日本がフランスの没収されていた松方コレクションを返還されることになり、そのコレクションを展示する美術館の設計の依頼がル・コルビュジエの元に来る。
ル・コルビュジエは、自分が暖めていた無限美術館というコンセプトを実現すべく、その設計に取り組んだ。
会場には、その設計の模型が置かれていたが、今日、私たちが目にする美術館とは少し違っている。ル・コルビュジエは、一度だけ現地を訪れ、その後は自分のスタジオで設計していたようで、彼の設計は、実際の敷地のサイズを越えてしまっていた。
ル・コルビュジエは、建築や絵画といった様々な要素が、芸術として統合することを理想とし、自ら設計した建築に、タピスリーや壁画を組み合わせていた。
会場には、奇妙な鳥と牡牛、というタピスリーや、自らが設計した、インドのチャンディガールの高等裁判所に飾るタピスリーの習作などが展示されていた。
彼の頭の中には、ルネサンス期におけるような、総合芸術のイメージを、現代の技術を使い、その社会環境の中で、実現したいという考えがあったのかもしれない。
これまでは、ル・コルビュジエは、建築家としてしか見ていなかったが、彼自身は、実際は、もっと大きな視点で、自分自身の活動を捉えていたということが、この展覧会から伺えた。
2013年9月8日日曜日
幽霊・妖怪画大全集(そごう美術館)
横浜のそごう美術館で、江戸時代の幽霊・妖怪画を展示した、夏らしい展覧会が行われた。
幽霊というと、うら若い女性が、半身で恨めしそうにこちらを睨み、その足は霞のように消えかかっている。
このイメージは、円山応挙が最初に描いたとされるが、実は、完璧に検証されているわけではないようだ。会場には、伝円山応挙ということで、何枚かのそうした絵が展示されていた。
その後には、まるでその伝円山応挙をコピーしたような、同じようなパターンの幽霊画が延々と、これでもかというくらい、並べて展示されていた。
続いては、歌舞伎を描いた浮世絵に描かれた幽霊のコーナー。八百屋お七、お岩、お菊などの、歌舞伎の出し物でお馴染みの面々が、歌川国貞、国芳らの手によって、描かれている。
円山応挙らの絵師の絵の中ではワンパターンだった幽霊たちが、そこでは、実に様々なシチュエーションの中で、水を得た魚のように、生き生きとしている。
演じている役者の顔として描かれているので、その表情も多彩だ。
後半は、百鬼夜行図をその大元とする、様々な妖怪のイメージ。鬼や天狗を始めとしたいろいろな妖怪たち。どうしても、何かの動物をイメージしてしまうのは、仕方ないだろう。
この展覧会では、一度作られたイメージが、一人歩きして、いろいろな画家や絵師の中に生き残っていく過程を、目の当りにすることができた。
幽霊というと、うら若い女性が、半身で恨めしそうにこちらを睨み、その足は霞のように消えかかっている。
このイメージは、円山応挙が最初に描いたとされるが、実は、完璧に検証されているわけではないようだ。会場には、伝円山応挙ということで、何枚かのそうした絵が展示されていた。
その後には、まるでその伝円山応挙をコピーしたような、同じようなパターンの幽霊画が延々と、これでもかというくらい、並べて展示されていた。
続いては、歌舞伎を描いた浮世絵に描かれた幽霊のコーナー。八百屋お七、お岩、お菊などの、歌舞伎の出し物でお馴染みの面々が、歌川国貞、国芳らの手によって、描かれている。
円山応挙らの絵師の絵の中ではワンパターンだった幽霊たちが、そこでは、実に様々なシチュエーションの中で、水を得た魚のように、生き生きとしている。
演じている役者の顔として描かれているので、その表情も多彩だ。
後半は、百鬼夜行図をその大元とする、様々な妖怪のイメージ。鬼や天狗を始めとしたいろいろな妖怪たち。どうしても、何かの動物をイメージしてしまうのは、仕方ないだろう。
この展覧会では、一度作られたイメージが、一人歩きして、いろいろな画家や絵師の中に生き残っていく過程を、目の当りにすることができた。
アートがあればⅡ Why not live for Art? II (東京オペラシティアートギャラリー)
東京オペラシティアートギャラリーで、個人のアートコレクターに焦点を当て、9人の個人コレクターの収蔵品を、9つのスペースに分けて紹介するという、珍しい展覧会が行われた。
まず気になったのは、この展覧会の題名。日本語で、アートがあれば、とあるが、英語では、Why not live for Art?、とちょっとニュアンスが異なる。
サブタイトルも、日本語では、9人の個人コレクターによる個人コレクションの場合、だが英語では、9 collectors reveal their treasures、といった具合。
それぞれの言葉は、翻訳ではないようだ。そのセットで、題名とサブタイトルを表しているのだろう。
各スペースには、展示されている個々の作品とは別に、全体の空間として、明らかに違いが感じられる。その違いが、コレクターが作品を購入する際の基準の違いを表している。
中には、村上隆、奈良美智、荒木経惟、マン・レイといったポピュラーな作家の作品もあるが、それほどメジャーではない、現在も活躍している作家の作品が多い。
個人で購入できるアート作品ということで、限られた予算の中で、自分の趣味に合う作品を見つける、という個人コレクターの行動様式、とでもいうものが感じられる。
通常の展覧会では、個々の作品を味わい、それを作成した作家に思いを馳せる。しかし、この展覧会では、それを描いた作家よりも、それを購入したコレクターの趣味やキャラクターを想像する。
何とも不思議な内容の展覧会だった。
まず気になったのは、この展覧会の題名。日本語で、アートがあれば、とあるが、英語では、Why not live for Art?、とちょっとニュアンスが異なる。
サブタイトルも、日本語では、9人の個人コレクターによる個人コレクションの場合、だが英語では、9 collectors reveal their treasures、といった具合。
それぞれの言葉は、翻訳ではないようだ。そのセットで、題名とサブタイトルを表しているのだろう。
各スペースには、展示されている個々の作品とは別に、全体の空間として、明らかに違いが感じられる。その違いが、コレクターが作品を購入する際の基準の違いを表している。
中には、村上隆、奈良美智、荒木経惟、マン・レイといったポピュラーな作家の作品もあるが、それほどメジャーではない、現在も活躍している作家の作品が多い。
個人で購入できるアート作品ということで、限られた予算の中で、自分の趣味に合う作品を見つける、という個人コレクターの行動様式、とでもいうものが感じられる。
通常の展覧会では、個々の作品を味わい、それを作成した作家に思いを馳せる。しかし、この展覧会では、それを描いた作家よりも、それを購入したコレクターの趣味やキャラクターを想像する。
何とも不思議な内容の展覧会だった。
竹内栖鳳展 近代日本画の巨人(東京国立近代美術館)
東京の竹橋にある、東京国立近代美術館の企画展というと、最近では、フランシス・ベーコン、ジャスパー・ジョーンズ、ゴーギャン、パウル・クレーなど、西洋の近代から現代に向けての作家をテーマにしたものが多かった。
はじめに、この企画を目にした時、”えっ?”と思った。
会場に入ると、作品がガラスのケースに収められており、直接キャンバスと対面できる、上記の西洋の画家たちの場合との違いに違和感を覚えた。
竹内栖鳳は、幕末の京都に生まれ、明治維新後に絵を始めた。始めは、四条派の師の元で学んだが、次第に、狩野派や円山派などの技術も貪欲に習得するようになった。
初期の百騒一睡などの作品には、そうしたいくつかの手法が、同じ作品の中で同時に使われている。
そして、1900年には、パリの万国博覧会を訪れるためにヨーロッパに行く機会を得て、西洋の画家たちの手法を学ぶと同時に、そこに描かれている対象を、実物を見る機会にも恵まれた。
その際に、動物園のライオンを実際に観察したことから生まれた、大獅子図などの数々。
それまでの日本画の画題の定番だった虎の図においては、実際に虎を観察して描かれたものはなかった。円山応挙でさえ、中国の絵や、ネコの観察からの想像で、虎を描いていた。
竹内栖鳳という画家は、いつの時代に生まれても、名作を残していたかもしれないが、幕末から明治初期にかけて、若き日々を過ごしたということは、おそらく、この画家の生涯に、決定的な影響を与えた。
栖鳳は、膨大なノートを残している。そのノートからは、興味のある対象を、それがどんなもので、どのように描こうか、という栖鳳の姿勢が伺える。
ローマの郊外にある水道橋を描いた、羅馬之図。水道橋が、夕日の霞の中で、幻想的にぼんやりと浮かび上がっている。おそらく、実際の水道橋はこのようには見えないだろう。栖鳳は、ヨーロッパの風景を、日本の湿気が多い霞の中に再現したかったのかもしれない。
完成しなかった、京都の東本願寺の太子堂門の天井画のためのスケッチや練習作の数々。栖鳳は、天女を描くために、東京から女性のモデルを呼び寄せた。
いろいろなポーズのスケッチがある。栖鳳は、全体の天井画を、いくつかのパーツに分けて、それぞれを別々に完成させていこうとした。それは、若き日に、いろいろな流派の手法で描いたパーツを元に、絵を完成させた発想と同じだ。
会場の最後の、回廊のような展示スペースには、晩年に栖鳳が描いた作品が並んでいた。
ネコやイヌ、ウサギなどの、身近な小動物の絵が多い。対象を、じっとみつめる栖鳳の視線が、どの作品からも感じられる。
竹内栖鳳という、このとてつもない画家は、その生きた時代と、その膨大な観察とによって生み出されたのだった。
はじめに、この企画を目にした時、”えっ?”と思った。
会場に入ると、作品がガラスのケースに収められており、直接キャンバスと対面できる、上記の西洋の画家たちの場合との違いに違和感を覚えた。
竹内栖鳳は、幕末の京都に生まれ、明治維新後に絵を始めた。始めは、四条派の師の元で学んだが、次第に、狩野派や円山派などの技術も貪欲に習得するようになった。
初期の百騒一睡などの作品には、そうしたいくつかの手法が、同じ作品の中で同時に使われている。
そして、1900年には、パリの万国博覧会を訪れるためにヨーロッパに行く機会を得て、西洋の画家たちの手法を学ぶと同時に、そこに描かれている対象を、実物を見る機会にも恵まれた。
その際に、動物園のライオンを実際に観察したことから生まれた、大獅子図などの数々。
それまでの日本画の画題の定番だった虎の図においては、実際に虎を観察して描かれたものはなかった。円山応挙でさえ、中国の絵や、ネコの観察からの想像で、虎を描いていた。
竹内栖鳳という画家は、いつの時代に生まれても、名作を残していたかもしれないが、幕末から明治初期にかけて、若き日々を過ごしたということは、おそらく、この画家の生涯に、決定的な影響を与えた。
栖鳳は、膨大なノートを残している。そのノートからは、興味のある対象を、それがどんなもので、どのように描こうか、という栖鳳の姿勢が伺える。
ローマの郊外にある水道橋を描いた、羅馬之図。水道橋が、夕日の霞の中で、幻想的にぼんやりと浮かび上がっている。おそらく、実際の水道橋はこのようには見えないだろう。栖鳳は、ヨーロッパの風景を、日本の湿気が多い霞の中に再現したかったのかもしれない。
完成しなかった、京都の東本願寺の太子堂門の天井画のためのスケッチや練習作の数々。栖鳳は、天女を描くために、東京から女性のモデルを呼び寄せた。
いろいろなポーズのスケッチがある。栖鳳は、全体の天井画を、いくつかのパーツに分けて、それぞれを別々に完成させていこうとした。それは、若き日に、いろいろな流派の手法で描いたパーツを元に、絵を完成させた発想と同じだ。
会場の最後の、回廊のような展示スペースには、晩年に栖鳳が描いた作品が並んでいた。
ネコやイヌ、ウサギなどの、身近な小動物の絵が多い。対象を、じっとみつめる栖鳳の視線が、どの作品からも感じられる。
竹内栖鳳という、このとてつもない画家は、その生きた時代と、その膨大な観察とによって生み出されたのだった。
2013年9月7日土曜日
写真のエステ 写真作品のつくりかた(東京都写真美術館)
東京都写真美術館のコレクション展の第2段。
アングル、焦点、光のあつかい、暗室作業、という4つのテーマで、写真家が、どのように作品を作り上げるか、を紹介する展覧会。
対象をどのアングルで撮影するか。森山大道の電線(品川)という作品では、何気ない街中の電線を、下から思いっきり見上げたアングルで撮影し、見たことがないような世界を、作り上げている。
焦点というテーマの中では、田沼武能の浮浪児、浅草にて、という作品が、強烈な印象を残した。1951年に撮影された、その浮浪児の顔は、典型的なモンゴロイドの顔。写真以外の方法で、その表情を表すことはできないだろう。
光のあつかいというコーナーでは、白黒写真とは、ようは光を写したものだ、ということがよくわかる。
福田勝治の光る女体。モデルの女性の顔に光を当てて、体には、そのシルエットだけに光が当たるようにしている。影になっている胸の部分は、写っていない分だけ、逆に存在感が大きくなっている。
最後の暗室作業というコーナーでは、写真は、シャッターを押した時に作られるのではなく、暗室での現像作業で作られる、ということが、数々の名作から、痛感させられる。
アンセル・アダムスのヨセミテ公園を写した作品。自然の雄大さを、これでもかと訴えかけるその作品は、暗室での念密な現像作業から生み出された。
マン・レイの眠るモデル。眠っているモデルが、夢の中で見ている世界を再現たような、不思議な世界を、そのプリントの中に作り上げている。
これから写真を始めようとする人や、フツーの写真から、一歩抜け出したいとおもっているひとには、多くのヒントを与えてくれる、そんな内容の写真展だった。
アングル、焦点、光のあつかい、暗室作業、という4つのテーマで、写真家が、どのように作品を作り上げるか、を紹介する展覧会。
対象をどのアングルで撮影するか。森山大道の電線(品川)という作品では、何気ない街中の電線を、下から思いっきり見上げたアングルで撮影し、見たことがないような世界を、作り上げている。
焦点というテーマの中では、田沼武能の浮浪児、浅草にて、という作品が、強烈な印象を残した。1951年に撮影された、その浮浪児の顔は、典型的なモンゴロイドの顔。写真以外の方法で、その表情を表すことはできないだろう。
光のあつかいというコーナーでは、白黒写真とは、ようは光を写したものだ、ということがよくわかる。
福田勝治の光る女体。モデルの女性の顔に光を当てて、体には、そのシルエットだけに光が当たるようにしている。影になっている胸の部分は、写っていない分だけ、逆に存在感が大きくなっている。
最後の暗室作業というコーナーでは、写真は、シャッターを押した時に作られるのではなく、暗室での現像作業で作られる、ということが、数々の名作から、痛感させられる。
アンセル・アダムスのヨセミテ公園を写した作品。自然の雄大さを、これでもかと訴えかけるその作品は、暗室での念密な現像作業から生み出された。
マン・レイの眠るモデル。眠っているモデルが、夢の中で見ている世界を再現たような、不思議な世界を、そのプリントの中に作り上げている。
これから写真を始めようとする人や、フツーの写真から、一歩抜け出したいとおもっているひとには、多くのヒントを与えてくれる、そんな内容の写真展だった。
2013年9月1日日曜日
速水御舟 日本美術院の精鋭たち(山種美術館)
速水御舟を中心に、横山大観、下村観山、菱田春草、今村紫紅、小茂田青樹、安田靫彦、小倉遊亀など、山種美術館のコレクションによる、日本美術院の画家たちの展覧会。
今村紫紅は、横山大観による朦朧体が主流を占めた、当時の日本画において、中国の影響を受けた、南画の鮮やかな色と線を持ち込んだ。
今村紫紅の早春という作品は、早春の農村の風景が、しっかりと縁取りされ、鮮やかな色合いで描かれている。
大観は、はじめは拒否反応を示したが、今村紫紅の弟格に当たる速水御舟や小茂田青樹は、その影響を受け、自分の絵画に取り込んで行った。
速水御舟の翠苔緑芝という、金箔の屏風の上に、鮮やかな緑を中心とした色合いの作品。右の屏風には黒い猫が、左の屏風には、白いウサギが、対象的に描かれている。
あけぼの・春の宵という2つの小品がセットになった作品で、速水御舟は、その驚きべき筆さばきを見せる。
あけぼのでは、ピンク色ともオレンジ色ともつかない曙の空に、木の枝が黒いシルエットとなって浮かんでいる。その木の枝の細かさは、神業と言う他ない。
春の宵という作品でも、宵というよりすでに日が落ちて暗くなった景色の中で、桜の花が静かに散っている。その小さな花びらの一枚一枚を、速水御舟は丹念に描いている。
白芙蓉という作品では、大きな芙蓉の花の後に、花の幹が右下から左上に、微妙な曲がりで描かれている。安田靫彦は、その幹の描き方を見て、速水御舟の線の描き方の尋常のなさを実感したという。
小倉遊亀の2対の2双の屏風絵。右には黒い着物の舞子、左には紫の衣装の芸者が描かれている。右の舞子は、ちょうど動きを止めた静の舞。左の芸者は、まさにこれから舞おうと、右腕を大きく上げた、動の舞。
山種美術館の代表的な収蔵作品、速水御舟の炎舞。闇の中で、炎が勢いよく舞い上がり、その周りを、蛾が舞っている。
その闇に炎の火の粉が舞い、独特の色合いを醸し出している。速水御舟自身、この色は、2度と描くことはできない、と語ったという。
2014年に、院展が再興100年を迎えることを記念したこの展覧会は、その歩みの偉大さを、華麗に描き出していた。
今村紫紅は、横山大観による朦朧体が主流を占めた、当時の日本画において、中国の影響を受けた、南画の鮮やかな色と線を持ち込んだ。
今村紫紅の早春という作品は、早春の農村の風景が、しっかりと縁取りされ、鮮やかな色合いで描かれている。
大観は、はじめは拒否反応を示したが、今村紫紅の弟格に当たる速水御舟や小茂田青樹は、その影響を受け、自分の絵画に取り込んで行った。
速水御舟の翠苔緑芝という、金箔の屏風の上に、鮮やかな緑を中心とした色合いの作品。右の屏風には黒い猫が、左の屏風には、白いウサギが、対象的に描かれている。
あけぼの・春の宵という2つの小品がセットになった作品で、速水御舟は、その驚きべき筆さばきを見せる。
あけぼのでは、ピンク色ともオレンジ色ともつかない曙の空に、木の枝が黒いシルエットとなって浮かんでいる。その木の枝の細かさは、神業と言う他ない。
春の宵という作品でも、宵というよりすでに日が落ちて暗くなった景色の中で、桜の花が静かに散っている。その小さな花びらの一枚一枚を、速水御舟は丹念に描いている。
白芙蓉という作品では、大きな芙蓉の花の後に、花の幹が右下から左上に、微妙な曲がりで描かれている。安田靫彦は、その幹の描き方を見て、速水御舟の線の描き方の尋常のなさを実感したという。
小倉遊亀の2対の2双の屏風絵。右には黒い着物の舞子、左には紫の衣装の芸者が描かれている。右の舞子は、ちょうど動きを止めた静の舞。左の芸者は、まさにこれから舞おうと、右腕を大きく上げた、動の舞。
山種美術館の代表的な収蔵作品、速水御舟の炎舞。闇の中で、炎が勢いよく舞い上がり、その周りを、蛾が舞っている。
その闇に炎の火の粉が舞い、独特の色合いを醸し出している。速水御舟自身、この色は、2度と描くことはできない、と語ったという。
2014年に、院展が再興100年を迎えることを記念したこの展覧会は、その歩みの偉大さを、華麗に描き出していた。
レオナール・フジタ展(Bunkamuraザ・ミュージアム)
渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで行われた、藤田嗣治、レオナール・フジタの展覧会。ポーラ美術館の収蔵品が中心。
藤田の作品にはネコがよく登場する。藤田が好きで飼っていたのだが、その描き方をよく見ると、シッポなどの毛の一本一本を丹念に描いている。
ネコという画材は、藤田の絵画の特徴である線の表現が、実に効果的に利用されている。藤田がネコをよく描いたのは、決して、好きで飼っていたから、だけではないだろう。
藤田の白といわれた、その独特の白は、シッカロールから作られた、タルクというものをキャンバスに塗り付けて、実現された。
藤田のキャンパスに描かれた線は、普通のキャンバスに描かれた線と、明らかに違っている。日本人の器用さから生み出された、藤田の独特の線描写は、その特別なキャンバスの上で、誰にもマネすることのできない、藤田だけの世界を生み出していった。
白いベッドに、ヌードの金髪の女性が、上を向いて横たわる、仰臥裸婦。左隅にネコがちょこんと描かれている。アングルやマネの同じ題材の作品を踏まえた上で、念密な構成の元に描かれている。
ポーラ美術館のコレクションは、子供を描いた作品が多いこと。
藤田の描く子供は、決してかわいらしいだけの子供ではない。どこか、いじわるな感じがする、独特な表情。特に少女は、目の目の間が広く、目は丸々しているが、目尻がつり上がっており、ネコ目のようにも見える。
浮世絵に描かれる子供も、決して可愛くはない。藤田は、もしかしたら、そのイメージを持っていたのかもしれない。
誕生日という作品。12人の子供が、大きな丸いテーブルに座っている。中央にはバースデーケーキが置かれているが、テーブルが余りに大きく、誰もケーキに手が届きそうにない。
12人の食事風景というと、勿論、これは最後の晩餐のパロディになっている。藤田の独特なユーモア感覚が、よく現れた作品だ。
いろいろな職業を、小さなタイルの上に、1つづつ描いた、プティ・メティエ(小さな職人たち)、というシリース画。
子供を使って、床屋、靴屋、肉屋などを、描いているが、それぞれの職業を表す背景と小道具が、実に見事。職業を表すフランス語が書かれているが、その絵を一見するだけで、文字をみるだけで、その職業がわかる。
藤田の画家としてのセンス、技術の高さが、遺憾なく発揮されている。こちらも、日本にある職人絵をヒントにして描いたのかもしれない。
西洋画の伝統がない日本から、芸術の都であるパリを訪れ、そこで成功した藤田。藤田の絵画には、ヨーロッパの絵画の画材やテーマの背景に、日本の伝統的な手法やイメージが隠されている。
藤田の作品にはネコがよく登場する。藤田が好きで飼っていたのだが、その描き方をよく見ると、シッポなどの毛の一本一本を丹念に描いている。
ネコという画材は、藤田の絵画の特徴である線の表現が、実に効果的に利用されている。藤田がネコをよく描いたのは、決して、好きで飼っていたから、だけではないだろう。
藤田の白といわれた、その独特の白は、シッカロールから作られた、タルクというものをキャンバスに塗り付けて、実現された。
藤田のキャンパスに描かれた線は、普通のキャンバスに描かれた線と、明らかに違っている。日本人の器用さから生み出された、藤田の独特の線描写は、その特別なキャンバスの上で、誰にもマネすることのできない、藤田だけの世界を生み出していった。
白いベッドに、ヌードの金髪の女性が、上を向いて横たわる、仰臥裸婦。左隅にネコがちょこんと描かれている。アングルやマネの同じ題材の作品を踏まえた上で、念密な構成の元に描かれている。
ポーラ美術館のコレクションは、子供を描いた作品が多いこと。
藤田の描く子供は、決してかわいらしいだけの子供ではない。どこか、いじわるな感じがする、独特な表情。特に少女は、目の目の間が広く、目は丸々しているが、目尻がつり上がっており、ネコ目のようにも見える。
浮世絵に描かれる子供も、決して可愛くはない。藤田は、もしかしたら、そのイメージを持っていたのかもしれない。
誕生日という作品。12人の子供が、大きな丸いテーブルに座っている。中央にはバースデーケーキが置かれているが、テーブルが余りに大きく、誰もケーキに手が届きそうにない。
12人の食事風景というと、勿論、これは最後の晩餐のパロディになっている。藤田の独特なユーモア感覚が、よく現れた作品だ。
いろいろな職業を、小さなタイルの上に、1つづつ描いた、プティ・メティエ(小さな職人たち)、というシリース画。
子供を使って、床屋、靴屋、肉屋などを、描いているが、それぞれの職業を表す背景と小道具が、実に見事。職業を表すフランス語が書かれているが、その絵を一見するだけで、文字をみるだけで、その職業がわかる。
藤田の画家としてのセンス、技術の高さが、遺憾なく発揮されている。こちらも、日本にある職人絵をヒントにして描いたのかもしれない。
西洋画の伝統がない日本から、芸術の都であるパリを訪れ、そこで成功した藤田。藤田の絵画には、ヨーロッパの絵画の画材やテーマの背景に、日本の伝統的な手法やイメージが隠されている。
浮世絵 第3期:うつりゆく江戸から東京(三菱一号館美術館)
東京の三菱一号館美術館の浮世絵の企画展の第3期は、幕末から明治にかけての浮世絵とその終焉。
ご存知、広重の名所江戸百景。橋の欄干や鯉のぼりなどを、大胆に画面の前面において、その隙間から、後方の景色をのぞかせる、という革新的な手法。何度見ても、その発想の素晴らしさには、感心させられる。
そして、そこに描かれているのは、日本橋、浅草、深川、両国、虎ノ門など、東京に暮らす自分には、お馴染みの地名。しかし、その風景は、それが現在の場所と同じだとは思えない。全く変わってしまっている。
名所江戸百景が刊行されたのは、1856から1858年にかけて。明治維新のわずか10年前。広重は、文字通り、最後の江戸の姿を記録し、後世の人々に、伝えた。
文字通り、それらは、浮き世であった。
開港した横浜や、明治維新後の江戸を描いた浮世絵の多くは、何枚かの浮世絵を繋げたパノラマが多い。広重や北斎のような、大胆な構図は影を潜め、それまでの日本にはなかった、新しい風景を忠実を描こうとしている。
最後の浮世絵師と言われる、小林清親。江戸時代の浮世絵とは全く違い、ヨーロッパ的な手法が、随所に使われている。
芳年による、まるで江戸時代のような美人画が刊行されたのは、なんと明治20年以降。浮世絵というと、明治維新後にすぐに消えてしまった、というイメージが強かったが、そうではなかった。
しかし、明治の終わりとほぼ時期を同じくして、浮世絵は姿を消していく。新聞の普及により、浮き世を写す方法は、白黒の挿絵や、写真に変わっていた。
3期に分けて行われたこの浮世絵の展覧会で、その歴史を辿ながら、思ったことは、江戸時代の中期から明治にかけて、この国のことを知るには、浮世絵ほど、多くのことを伝えるものはないだろう、ということだった。
ご存知、広重の名所江戸百景。橋の欄干や鯉のぼりなどを、大胆に画面の前面において、その隙間から、後方の景色をのぞかせる、という革新的な手法。何度見ても、その発想の素晴らしさには、感心させられる。
そして、そこに描かれているのは、日本橋、浅草、深川、両国、虎ノ門など、東京に暮らす自分には、お馴染みの地名。しかし、その風景は、それが現在の場所と同じだとは思えない。全く変わってしまっている。
名所江戸百景が刊行されたのは、1856から1858年にかけて。明治維新のわずか10年前。広重は、文字通り、最後の江戸の姿を記録し、後世の人々に、伝えた。
文字通り、それらは、浮き世であった。
開港した横浜や、明治維新後の江戸を描いた浮世絵の多くは、何枚かの浮世絵を繋げたパノラマが多い。広重や北斎のような、大胆な構図は影を潜め、それまでの日本にはなかった、新しい風景を忠実を描こうとしている。
最後の浮世絵師と言われる、小林清親。江戸時代の浮世絵とは全く違い、ヨーロッパ的な手法が、随所に使われている。
芳年による、まるで江戸時代のような美人画が刊行されたのは、なんと明治20年以降。浮世絵というと、明治維新後にすぐに消えてしまった、というイメージが強かったが、そうではなかった。
しかし、明治の終わりとほぼ時期を同じくして、浮世絵は姿を消していく。新聞の普及により、浮き世を写す方法は、白黒の挿絵や、写真に変わっていた。
3期に分けて行われたこの浮世絵の展覧会で、その歴史を辿ながら、思ったことは、江戸時代の中期から明治にかけて、この国のことを知るには、浮世絵ほど、多くのことを伝えるものはないだろう、ということだった。
2013年8月25日日曜日
テーマにみる近代日本画(泉屋博古館分館)
東京、六本木にある泉屋博古館分館で行われた、その収蔵品による、近代日本画の展覧会。
狩野芳崖の寿老人。七福神の一人、寿老人が、岩に腰掛けている。輪郭線の太さや濃淡で、画面の中のオブジェクトの存在感を描き分けている。その手法は、どことなく、曾我蕭白による仙人像を連想させる。
蕭白ほどには、エキセントリックな絵ではないが、あご髭の一本一本がピンと伸びている様子は、その描かれている人物の尋常でなさを、よく表している。
橋本雅邦の深山猛虎。二匹の虎が、滝のような渓流が流れ落ちている深い山奥に描かれている。二匹は、画面の右上を、警戒するように、睨みつけている。画面には描かれていないが、その方角には、龍がいることが、想像できる。
龍そのものを全く描かずに、その存在感を、虎の様子から感じさせるという、見事な手法。
狩野芳崖は、文政11年、1828年。橋本雅邦は、天保6年、1835年の生まれであることに気がついた。
二人とも、明治時代の画家というイメージが強いが、ほとんど江戸時代の人間と言ってもいい生まれ年だったのだ。
富岡鉄斎の3枚の水墨画。最後の文人画家といわれる富岡鉄斎。彼も、その生まれは、天保7年、1836年だった。
岸田劉生の四時競甘。桃、柿、瓜など、四季の果物を、掛軸の日本画に描いている。タッチは粗く、果物の輪郭と色は、微妙にずれている。濃厚な油絵の麗子像の岸田劉生とは、全く違った画家がそこにはいた。
望月玉渓の孔雀図。六双二曲の屏風に、二匹の孔雀が描かれている。その孔雀の羽の細かい描写に、身を奪われ、時間を忘れてしまう。対象を見つめる目と、それを表現する絵師としての技術。いずれが欠けても、この絵は生まれなかっただろう。
わずか40点ほどの出展ながら、日本画の真髄を味わうことができる、印象深い展覧会だった。
狩野芳崖の寿老人。七福神の一人、寿老人が、岩に腰掛けている。輪郭線の太さや濃淡で、画面の中のオブジェクトの存在感を描き分けている。その手法は、どことなく、曾我蕭白による仙人像を連想させる。
蕭白ほどには、エキセントリックな絵ではないが、あご髭の一本一本がピンと伸びている様子は、その描かれている人物の尋常でなさを、よく表している。
橋本雅邦の深山猛虎。二匹の虎が、滝のような渓流が流れ落ちている深い山奥に描かれている。二匹は、画面の右上を、警戒するように、睨みつけている。画面には描かれていないが、その方角には、龍がいることが、想像できる。
龍そのものを全く描かずに、その存在感を、虎の様子から感じさせるという、見事な手法。
狩野芳崖は、文政11年、1828年。橋本雅邦は、天保6年、1835年の生まれであることに気がついた。
二人とも、明治時代の画家というイメージが強いが、ほとんど江戸時代の人間と言ってもいい生まれ年だったのだ。
富岡鉄斎の3枚の水墨画。最後の文人画家といわれる富岡鉄斎。彼も、その生まれは、天保7年、1836年だった。
岸田劉生の四時競甘。桃、柿、瓜など、四季の果物を、掛軸の日本画に描いている。タッチは粗く、果物の輪郭と色は、微妙にずれている。濃厚な油絵の麗子像の岸田劉生とは、全く違った画家がそこにはいた。
望月玉渓の孔雀図。六双二曲の屏風に、二匹の孔雀が描かれている。その孔雀の羽の細かい描写に、身を奪われ、時間を忘れてしまう。対象を見つめる目と、それを表現する絵師としての技術。いずれが欠けても、この絵は生まれなかっただろう。
わずか40点ほどの出展ながら、日本画の真髄を味わうことができる、印象深い展覧会だった。
2013年8月18日日曜日
アンドレアス・グルスキー展(新国立美術館)
ドイツの国際的に著名な写真家、アンドレアス・グルスキーの写真展。
何よりも目を引くのは、巨大な広角のレンズで撮影された写真の数々。アメリカのショッピングセンター、日本のスーパーカミオカンデ、北朝鮮のマスゲーム、高層のオフィスビルディングなどなど。
オフィスビルの写真は、近寄ってみると、オフィスビルの各フロアの机の上まで、はっきりと見ることができる。
こんなの、広い範囲を、これほど細部まで鮮明に、どうやって撮影したのだろう?と、その技術力に、まず感心させられる。
それらの写真は、実際は撮影されたままのものではない。何枚かの写真をデジタル合成したり、撮影後に不要な被写体などをキレイに消し去ったもの。
本当の現実ではなく、グルスキーの視点によって、加工されたもう一つの世界だ。
被写体は、いずれも、決して目新しいものではないが、グルスキーの写真の中では、自分が思い描いているものとは、少し違って見えてくる。なにか、その対象が、荘厳なもののように見えてくる。
グルスキーは、水面を撮影するのが好きなようで、ところどころに、いくつかのバリエーションのものが展示されていた。いずれも、黒い水面に、光が当たって入る部分が、白い線や円形のような形になっている。
美術館のスタッフに尋ねたところ、グルスキーは、この展覧会の会場のレイアウトや、写真の並べ方、すべてをデザインしたという。ところどころ、迷路のようになっていて、うっかりしていると、いくつかの作品を、見逃してしまう。
作品のそばには、小さな数字のラベルが貼られているだけで、作品の名前や、撮影場所や時期などは、いっさい書かれていない。見学者は、作品リストに書かれた数字を目当てに、作品リストから、作品名や撮影場所や時期を知るしかない。
これも、グルスキー自身が、そうしてほしいと指定したという。とにかく、自分の作品以外の展示は、最小限にしたかったのだという。
この展覧会場の中は、その作品も、展示スペース自身も、すべてグルスキーがデザインしたもの。文字通り、グルスキーの世界、そのものだった。
何よりも目を引くのは、巨大な広角のレンズで撮影された写真の数々。アメリカのショッピングセンター、日本のスーパーカミオカンデ、北朝鮮のマスゲーム、高層のオフィスビルディングなどなど。
オフィスビルの写真は、近寄ってみると、オフィスビルの各フロアの机の上まで、はっきりと見ることができる。
こんなの、広い範囲を、これほど細部まで鮮明に、どうやって撮影したのだろう?と、その技術力に、まず感心させられる。
それらの写真は、実際は撮影されたままのものではない。何枚かの写真をデジタル合成したり、撮影後に不要な被写体などをキレイに消し去ったもの。
本当の現実ではなく、グルスキーの視点によって、加工されたもう一つの世界だ。
被写体は、いずれも、決して目新しいものではないが、グルスキーの写真の中では、自分が思い描いているものとは、少し違って見えてくる。なにか、その対象が、荘厳なもののように見えてくる。
グルスキーは、水面を撮影するのが好きなようで、ところどころに、いくつかのバリエーションのものが展示されていた。いずれも、黒い水面に、光が当たって入る部分が、白い線や円形のような形になっている。
美術館のスタッフに尋ねたところ、グルスキーは、この展覧会の会場のレイアウトや、写真の並べ方、すべてをデザインしたという。ところどころ、迷路のようになっていて、うっかりしていると、いくつかの作品を、見逃してしまう。
作品のそばには、小さな数字のラベルが貼られているだけで、作品の名前や、撮影場所や時期などは、いっさい書かれていない。見学者は、作品リストに書かれた数字を目当てに、作品リストから、作品名や撮影場所や時期を知るしかない。
これも、グルスキー自身が、そうしてほしいと指定したという。とにかく、自分の作品以外の展示は、最小限にしたかったのだという。
この展覧会場の中は、その作品も、展示スペース自身も、すべてグルスキーがデザインしたもの。文字通り、グルスキーの世界、そのものだった。
時代を作った技(国立歴史民俗博物館)
千葉、佐倉にある、国立歴史民俗博物館で開催された企画展。
会場の入り口に、古代に作られたシンプルな陶器と、中世に作られた、漆の茶碗、陶器の器、箸などの、現代とほぼ変わらない食器のセットが、並べて展示されていた。
中世の時代に、いかに技術が発達したのか、一目瞭然。
広島の福山市の草戸千戸遺跡は、場所が中州だったこともあり、中世の村全体が、そのまま発見された珍しい遺跡。この遺跡によって、文書や絵巻物、出土品から、断片的にしかわからなかった中世の生活の全体像が、初めて明らかになったという。
中世という時代が、最近まで、あまりよくわからなかった、ということが、意外に感じられた。
おそらく、中世に発達した技術の多くは、宋からもたらされたものだろう。それが、足利幕府の弱体化に助けられ、各地に広まっていったのだ。
福岡は、宋からの技術がもたらされる玄関口であり、そうからの人々が住んでいる、宋人町があったことが、遺跡からわかっている。
織田信長が、瀬戸焼の職人の棟梁に書いた文書。その地位を保証する代わりに、自らの市でのみ売ることを求めている。地方の守護や実力者による技術の囲い込みの一例だ。
当時の職人たちの給料は、職種によって、おおよその相場があったらしい。決して高い給与ではなかった様だが、物価もやすく、十分に生活していけるレベルだったようだ。
福島県のある鍛冶屋には、自分たちの職業の始まりから、今日に至るまでの歴史が、古事記などの日本の創生神話と絡めて、長々と書かれている巻物が伝わっているという。自らの職業への自負と、正当化の意識が現れている。
中世というと、古代の貴族の時代から、武士の時代へ変化した時代、というイメージが強い。しかし同時に、宋における大きな社会の変化が、日本にもたらされ、日本の社会を大きく変えていった時代でもあったのだろう。
その後、江戸時代には、そうした技術が地方に定着、発展し、各地に特産品というものが生まれた。
モノ作り大国といわれる日本。その現代の技術大国の基礎は、中世の時代に築かれた、ということが、目の前の展示品によって、鮮やかに立証されていた。
会場の入り口に、古代に作られたシンプルな陶器と、中世に作られた、漆の茶碗、陶器の器、箸などの、現代とほぼ変わらない食器のセットが、並べて展示されていた。
中世の時代に、いかに技術が発達したのか、一目瞭然。
広島の福山市の草戸千戸遺跡は、場所が中州だったこともあり、中世の村全体が、そのまま発見された珍しい遺跡。この遺跡によって、文書や絵巻物、出土品から、断片的にしかわからなかった中世の生活の全体像が、初めて明らかになったという。
中世という時代が、最近まで、あまりよくわからなかった、ということが、意外に感じられた。
おそらく、中世に発達した技術の多くは、宋からもたらされたものだろう。それが、足利幕府の弱体化に助けられ、各地に広まっていったのだ。
福岡は、宋からの技術がもたらされる玄関口であり、そうからの人々が住んでいる、宋人町があったことが、遺跡からわかっている。
織田信長が、瀬戸焼の職人の棟梁に書いた文書。その地位を保証する代わりに、自らの市でのみ売ることを求めている。地方の守護や実力者による技術の囲い込みの一例だ。
当時の職人たちの給料は、職種によって、おおよその相場があったらしい。決して高い給与ではなかった様だが、物価もやすく、十分に生活していけるレベルだったようだ。
福島県のある鍛冶屋には、自分たちの職業の始まりから、今日に至るまでの歴史が、古事記などの日本の創生神話と絡めて、長々と書かれている巻物が伝わっているという。自らの職業への自負と、正当化の意識が現れている。
中世というと、古代の貴族の時代から、武士の時代へ変化した時代、というイメージが強い。しかし同時に、宋における大きな社会の変化が、日本にもたらされ、日本の社会を大きく変えていった時代でもあったのだろう。
その後、江戸時代には、そうした技術が地方に定着、発展し、各地に特産品というものが生まれた。
モノ作り大国といわれる日本。その現代の技術大国の基礎は、中世の時代に築かれた、ということが、目の前の展示品によって、鮮やかに立証されていた。
曼荼羅展(根津美術館)
根津美術館が収蔵する、曼荼羅を中心とした仏教界がコレクションを中心にした企画展。
これだけ多くの曼荼羅を、一度に目にする機会は少ない。貴重な展覧会だ。
およそ、2メートル四方の、金剛界八十一尊曼荼羅。13世紀の鎌倉時代に作成されたものだが、実に、色鮮やか。しかも、細かい描写で、数えきれないほどの、たくさんの仏が描かれている。
修行する僧たちによって描かれたのか、あるいは、専門的な絵師たちによって描かれたのか。いずれにしろ、現代の絵を描く、という行為と、行為としてみれば同じなのだろうが、意味的には、全く違っているのかもしれない。
この文字は、後醍醐天皇が書いたという説がある。武力では、劣勢にあった南朝としては、愛染明王のような、密教のパワーに、すがるしかなかったのだろう。
奈良の当麻寺の当麻曼荼羅。数多くのコピーが存在するが、この会場にも、室町時代に描かれたものが展示されていた。
曼荼羅を見ていると、さまざまな妄想が止まらなくなってくる。
これだけ多くの曼荼羅を、一度に目にする機会は少ない。貴重な展覧会だ。
およそ、2メートル四方の、金剛界八十一尊曼荼羅。13世紀の鎌倉時代に作成されたものだが、実に、色鮮やか。しかも、細かい描写で、数えきれないほどの、たくさんの仏が描かれている。
修行する僧たちによって描かれたのか、あるいは、専門的な絵師たちによって描かれたのか。いずれにしろ、現代の絵を描く、という行為と、行為としてみれば同じなのだろうが、意味的には、全く違っているのかもしれない。
14世紀の鎌倉時代に作成された、愛染明王像。こちらは、色が大分落ちてしまっているが、この仏画の特徴は、この絵に描かれた文字にある。
この文字は、後醍醐天皇が書いたという説がある。武力では、劣勢にあった南朝としては、愛染明王のような、密教のパワーに、すがるしかなかったのだろう。
文字を書くことによって、この世界を変えることができると、信じられていた時代の文字を目に前すると、何とも不思議な思いに捉われる。
今日の社会において、文字には、そうした力は、すでに無くなっているように見える。
今日の社会において、文字には、そうした力は、すでに無くなっているように見える。
本物は、写真やテレビの映像でしか見ていないが、色も落ち、描かれている仏や建物も、判別できなくなっているが、この写本は、まだ色も鮮やか。本物ではわからない、細部の部分まで、よく見える。
仏教の曼荼羅というコンセプトを、神道に取り入れて作成された垂迹曼荼羅。日吉山王、春日宮、熊野などの神社の景色や、祭神が描かれた曼荼羅が、並んで展示されていた。
垂迹という方法論、外から来たものを、その形だけを取り入れるという方法論は、現在に至るまで、この国の最も基本的な、方法論である。
曼荼羅は、大日如来が、あらゆる仏に変化する様子を描いている。ひとつの原理が、すべてのものに変化したのが、この世界である、という発想は、物理学の発想と、基本的には同じだ。
曼荼羅を見ていると、さまざまな妄想が止まらなくなってくる。
2013年8月17日土曜日
大倉コレクションの精華Ⅱ(大倉集古館)
大倉グループのコレクションを一同に紹介する企画の第2段は、近代日本画の名品展。
出展された作品の多くは、昭和4年にローマで開催された、日本美術展に展示されたもの。この展覧会は、大倉グループの全面的なバックアップの元で行われた。
当時のイタリアのムッソリーニ政権との友好という意味合いも強かっただろう。
そうした政治的な背景を知ると、何となく、複雑な気持ちを抱いてしまうが、目の前に現れた作品は、文句なく、美しいものばかりだった。
横山大観の”夜桜”。大観の数ある作品の中でも、最も鮮やかな作品の一つだろう。夜でありながら、篝火の中に、白い桜と、緑の松が、華やかに浮かび上がっている。
近づいてみると、桜の花びらのひとつひとつ、篝火の火の粉のひとつひとつまで、克明に描いている。
大観は、このローマでの日本美術展に深く関わり、そのポスターを描き、オープニングに当たっては、わざわざローマ入りし、開会式で挨拶を行った。
その大観の夜桜の隣には、前田青屯の”洞窟の頼朝”、という作品が、大観に対するように展示されていた。伊豆での挙兵が失敗に終わり、少数の人数で、洞窟に隠れていた、という歴史の一場面を描いている。
頼朝をはじめとして、周りに集う一人一人の、鎧の表面に編まれた紐まで、細かい筆先で描いている。中心の頼朝の朱色の鎧と、その引き締まった表情が、頼朝の強い意思を、象徴している。
下村観山の”不動尊”。不動尊とその脇尊を、黒地で描き、目鼻などの線を、金の絵の具で描いている。何とも、大胆でダイナミックな作品。
一転して、墨一色の作品。田能村直入の”万里長城図巻”。こちらは、ローマ展への出品作ではない。直入は、高名な田能村竹田を継いだ一番弟子。竹田と同じく、豊後竹田の出身。その丹念な筆さばきには、時間の立つのを忘れてしまう。
ローマ展のことなど、今日では覚えている人など、それほど多くはないだろう。美しい日本絵画を楽しみながら、歴史の一ページにも触れた経験も味わえる、不思議な展覧会だった。
出展された作品の多くは、昭和4年にローマで開催された、日本美術展に展示されたもの。この展覧会は、大倉グループの全面的なバックアップの元で行われた。
当時のイタリアのムッソリーニ政権との友好という意味合いも強かっただろう。
そうした政治的な背景を知ると、何となく、複雑な気持ちを抱いてしまうが、目の前に現れた作品は、文句なく、美しいものばかりだった。
横山大観の”夜桜”。大観の数ある作品の中でも、最も鮮やかな作品の一つだろう。夜でありながら、篝火の中に、白い桜と、緑の松が、華やかに浮かび上がっている。
近づいてみると、桜の花びらのひとつひとつ、篝火の火の粉のひとつひとつまで、克明に描いている。
大観は、このローマでの日本美術展に深く関わり、そのポスターを描き、オープニングに当たっては、わざわざローマ入りし、開会式で挨拶を行った。
その大観の夜桜の隣には、前田青屯の”洞窟の頼朝”、という作品が、大観に対するように展示されていた。伊豆での挙兵が失敗に終わり、少数の人数で、洞窟に隠れていた、という歴史の一場面を描いている。
頼朝をはじめとして、周りに集う一人一人の、鎧の表面に編まれた紐まで、細かい筆先で描いている。中心の頼朝の朱色の鎧と、その引き締まった表情が、頼朝の強い意思を、象徴している。
下村観山の”不動尊”。不動尊とその脇尊を、黒地で描き、目鼻などの線を、金の絵の具で描いている。何とも、大胆でダイナミックな作品。
一転して、墨一色の作品。田能村直入の”万里長城図巻”。こちらは、ローマ展への出品作ではない。直入は、高名な田能村竹田を継いだ一番弟子。竹田と同じく、豊後竹田の出身。その丹念な筆さばきには、時間の立つのを忘れてしまう。
ローマ展のことなど、今日では覚えている人など、それほど多くはないだろう。美しい日本絵画を楽しみながら、歴史の一ページにも触れた経験も味わえる、不思議な展覧会だった。
フランシス・アリス展 ジブラルタル海峡編(東京都現代美術館)
東京、木場の東京都現代美術館に、あのクレイジーな男が、またやってきた。
メキシコの広大な平原で、消えては現れる、トルネードに、ハンディカメラを持って、その中に突入していった、クレイジーな男。
フランシス・アリス。
今度は、どんなクレイジーなことを、しでかしたというのか?
2008年に、アフリカ側とヨーロッパ側をわかつ、ジブラルタル海峡に、双方からの子供たちの列で、架け橋を作る、という、これまたクレイジーな試みだ。
その様子を映像に収めた、”川に着く前に橋を渡るな”、という作品が、展示されていた。
勿論、ジブラルタル海峡を、徒歩で渡ることはできない。"子供達は、空想の世界の中で、出会うことができるだろうか?"と、映像の中のナレーションが語っていた。
水着姿のモロッコとスペインの子供達が、サンダルで作った、船の模型を手にして、砂浜から、並んで海に向かって進んで行く。
押し寄せる波が、子供達の前進を阻もうとするが、子供達は、その波を楽しむかのいうに、笑顔で、向こう岸に向かって、進んで行く。
カメラは、子供達といっしょに海の中に入って行く、決して綺麗ではない、緑がかった海の水が、画面一杯に広がる。時々、水草が、視界に映り込んでくる。
会場には、この作品の企画資料や、実際に使ったサンダルの船の模型も合わせて展示されていた。
アリスが描いたスケッチやアイデアのメモなどとともに、ジブラルタル海峡を超え、アフリカからの違法入国者に関する新聞記事の切り抜きも展示されていた。その多くは、悲しい結末を伝えている。
他に、子供の遊ぶ様子を映像に収めた、”砂の城”、”水切り”、という2つの作品。砂の城は、ベルギーで、水切りは、モロッコで撮影された。
この2つの作品は、撮影された土地に関わらず、日本を含めた、世界中のいろいろな場所で、行われている遊び。アリスは、そうした子供の遊びを映像化することで、いろいろなことを語っているように思える。
誰もが、心の中に持っている、幼い頃の遊びの経験。無駄なように見えて、実は、とても大切なそれらの行為。
逆に、重要と思われていること(仕事、政治、宗教?)が、こうした子供の遊びと、本質的に何処か違うのだろうか?などなど。
春に行われたメキシコ編に続き、今回もまた、そのクレイジーさをいかんなく発揮してくれた、フランシス・アリス。
クレイジーであるということだけが、現代の行き場のなくなった状況を、変えることのできる、唯一の方法なのかもしれない。
メキシコの広大な平原で、消えては現れる、トルネードに、ハンディカメラを持って、その中に突入していった、クレイジーな男。
フランシス・アリス。
今度は、どんなクレイジーなことを、しでかしたというのか?
2008年に、アフリカ側とヨーロッパ側をわかつ、ジブラルタル海峡に、双方からの子供たちの列で、架け橋を作る、という、これまたクレイジーな試みだ。
その様子を映像に収めた、”川に着く前に橋を渡るな”、という作品が、展示されていた。
勿論、ジブラルタル海峡を、徒歩で渡ることはできない。"子供達は、空想の世界の中で、出会うことができるだろうか?"と、映像の中のナレーションが語っていた。
水着姿のモロッコとスペインの子供達が、サンダルで作った、船の模型を手にして、砂浜から、並んで海に向かって進んで行く。
押し寄せる波が、子供達の前進を阻もうとするが、子供達は、その波を楽しむかのいうに、笑顔で、向こう岸に向かって、進んで行く。
カメラは、子供達といっしょに海の中に入って行く、決して綺麗ではない、緑がかった海の水が、画面一杯に広がる。時々、水草が、視界に映り込んでくる。
会場には、この作品の企画資料や、実際に使ったサンダルの船の模型も合わせて展示されていた。
アリスが描いたスケッチやアイデアのメモなどとともに、ジブラルタル海峡を超え、アフリカからの違法入国者に関する新聞記事の切り抜きも展示されていた。その多くは、悲しい結末を伝えている。
他に、子供の遊ぶ様子を映像に収めた、”砂の城”、”水切り”、という2つの作品。砂の城は、ベルギーで、水切りは、モロッコで撮影された。
この2つの作品は、撮影された土地に関わらず、日本を含めた、世界中のいろいろな場所で、行われている遊び。アリスは、そうした子供の遊びを映像化することで、いろいろなことを語っているように思える。
誰もが、心の中に持っている、幼い頃の遊びの経験。無駄なように見えて、実は、とても大切なそれらの行為。
逆に、重要と思われていること(仕事、政治、宗教?)が、こうした子供の遊びと、本質的に何処か違うのだろうか?などなど。
春に行われたメキシコ編に続き、今回もまた、そのクレイジーさをいかんなく発揮してくれた、フランシス・アリス。
クレイジーであるということだけが、現代の行き場のなくなった状況を、変えることのできる、唯一の方法なのかもしれない。
2013年8月10日土曜日
モネ、ユトリロ、佐伯と日仏絵画の巨匠たち(ホテルオークラ)
ホテルオークラで、1994年より、毎年開催されている、チャリティーイベント、秘蔵の名品アートコレクション。これまで18回で、45万人の人が訪れ、その収益から1億6千万円を赤十字に寄付してきたという。
寡聞にも、これまで、全くこのことは知らず、今回、初めての鑑賞の機会を得た。
ホテルでの開催ということで、多くのホテルマンが、入り口で、朗らかに、”いらっしゃいませ”、と出迎えてくれた。他の展覧会ではあり得ない経験に、戸惑いながら、会場に入る。
ジュール・シュレの3つのポスター作品。恥ずかしながら、初めて聞く名前だった。説明資料によると、それまで文字が中心だったポスターに、初めて、躍動感のある絵を取り込んだ先駆者だという。ロートレックの先人といったところだろうか。
佐伯祐三の絵が、7点も展示されていた。ちょうど、佐伯に興味がある時期だったので、これはうれしかった。
パリに来てまだ間もない時期に描かれた、セーヌ河の見える風景。まだ、佐伯の代名詞ともいえる、看板の文字が入っていない。
死の前年に描かれた、リュクサンブール公園。こちらも、看板の文字は描かれておらず、長く伸びる道と、そに両脇に連なる、ポプラの木の描写が印象的な一枚。
ギュスターブ・モローに絵を学び、フォービズムを立ち上げたアルベール・マルケ。しかし、マルケの描くパリは、野獣という感じではない。後期印象派風の穏やかな雰囲気を漂わせている。
小磯良平のパリ風景。軽いタッチで、色も薄く、画面の前面に、建物の鉄の黒い手すりを描いている。その手すりの線が重なっており、直線の重なりが、幾何学的な不思議な印象を与える。
出口近くに飾られていた、藤田嗣治の6枚の絵。第2次世界大戦の際に帰国し、従軍画家だった時に、ベトナムの風景を描いた、仏印メコンの広野。
そこには、あの個性的な少女や、フジタの白でパリを席巻した、エコールドパリの画家の面影は、全く感じられない。藤田嗣治という画家の、もうひとつの悲しい側面が、現れている。
他にも、モネ、ルノワール、シャガール、キスリング、児島虎次郎、岡鹿之助などの作品が展示されていた。
寡聞にも、これまで、全くこのことは知らず、今回、初めての鑑賞の機会を得た。
ホテルでの開催ということで、多くのホテルマンが、入り口で、朗らかに、”いらっしゃいませ”、と出迎えてくれた。他の展覧会ではあり得ない経験に、戸惑いながら、会場に入る。
ジュール・シュレの3つのポスター作品。恥ずかしながら、初めて聞く名前だった。説明資料によると、それまで文字が中心だったポスターに、初めて、躍動感のある絵を取り込んだ先駆者だという。ロートレックの先人といったところだろうか。
佐伯祐三の絵が、7点も展示されていた。ちょうど、佐伯に興味がある時期だったので、これはうれしかった。
パリに来てまだ間もない時期に描かれた、セーヌ河の見える風景。まだ、佐伯の代名詞ともいえる、看板の文字が入っていない。
死の前年に描かれた、リュクサンブール公園。こちらも、看板の文字は描かれておらず、長く伸びる道と、そに両脇に連なる、ポプラの木の描写が印象的な一枚。
ギュスターブ・モローに絵を学び、フォービズムを立ち上げたアルベール・マルケ。しかし、マルケの描くパリは、野獣という感じではない。後期印象派風の穏やかな雰囲気を漂わせている。
小磯良平のパリ風景。軽いタッチで、色も薄く、画面の前面に、建物の鉄の黒い手すりを描いている。その手すりの線が重なっており、直線の重なりが、幾何学的な不思議な印象を与える。
出口近くに飾られていた、藤田嗣治の6枚の絵。第2次世界大戦の際に帰国し、従軍画家だった時に、ベトナムの風景を描いた、仏印メコンの広野。
そこには、あの個性的な少女や、フジタの白でパリを席巻した、エコールドパリの画家の面影は、全く感じられない。藤田嗣治という画家の、もうひとつの悲しい側面が、現れている。
他にも、モネ、ルノワール、シャガール、キスリング、児島虎次郎、岡鹿之助などの作品が展示されていた。
LOVE展 アートにみる愛のかたち(森美術館)
六本木ヒルズにある森美術館での、開館10周年を記念した、大規模な展覧会。テーマは愛。
それにしても、この美術館のスタートから、もう10年もたったのかあ。時間のたつのは、早いなあ。
となりの森アーツセンターギャラリー美術館では、ハリーポッターの特別展が開催されており、夏休み中ということもあって、入り口の前は、ものすごい行列。その人混みの間をぬって、会場に向かった。
うーん、さすが10周年記念ということもあり、実によくうまく企画されている。非常に幅広いアーティストの作品を取り揃え、彼らがどのように愛を捉え、作品にしたかを提示し、来場者に、あなたはどの作品が好きかあるいは嫌いか?あるいは、あなただったら、どのように表現しますか?と、問いかけているようだ。
杉本博司による、文楽についての展示。10世紀に製作された十二面観音と、自らが企画した、文楽の公演、曽根崎心中の映像を展示している。
文楽では、表情のない人形を使って、男と女の愛憎劇が演じられる。その制約の多さの中で、人間の愛の形が、より濃縮されて表現される。
ゴウハル・ダシュティの今日の生活と戦争。架空の若い夫妻の、何気無い日常生活の風景を、戦車や、防空壕など、戦場を連想させる背景に撮影した、4枚の写真作品。
戦場が、つねに身近になってしまった現代社会を、強烈に皮肉った作品。写真というメディアのパワーを、改めて実感させる力作。
荒木経惟が、自らの新婚旅行での妻を撮影した、センチメンタルな旅。荒木の妻は、決して美人とはいない。その妻の何気ない表情や、ヌードが写っている。
荒木がこの写真を見る時、他人がこの写真を見る時、それぞれの人物の中で行っていることには、天と地ほどの差があるに違いない。
名高い、源氏物語絵巻の模写。展示されていたのは、宿木と柏木の帖を描いたもの。光源氏が、自らの正妻と、自分の息子の親友との不倫の末に生まれた、運命の子、薫を、そうと知りながらも、抱き寄せている有名なシーンなど。
1000年以上も前に、この物語の作者、紫式部は、人間にとって、一番大事なことは、何なのかを、その壮大な物語の中で、現代に伝えている。
そして、この展覧会で、もっとも強く印象に残った、ソフィ・カルの、”どうか、げんきで”という作品。
一つの手紙を、何人かの女性に読んでもらい、一人一人の感想を、映像、写真、文章などにして、それを部屋の中に、まとめて展示している。
一部屋を使っていたこともあり、ソフィ・カルの作品の存在感は、圧倒的だった。
会場に行くまでは、LAVO展などというふざけたその名前から、ナンパな内容だろうな、と想像していたが、とんでもなかった。
愛という、この一言ではとても表現できないものを、アーティストたちが、どのように、格闘し、表現してきたか、を体感させる、かなりハードな展覧会だった。
それにしても、この美術館のスタートから、もう10年もたったのかあ。時間のたつのは、早いなあ。
となりの森アーツセンターギャラリー美術館では、ハリーポッターの特別展が開催されており、夏休み中ということもあって、入り口の前は、ものすごい行列。その人混みの間をぬって、会場に向かった。
うーん、さすが10周年記念ということもあり、実によくうまく企画されている。非常に幅広いアーティストの作品を取り揃え、彼らがどのように愛を捉え、作品にしたかを提示し、来場者に、あなたはどの作品が好きかあるいは嫌いか?あるいは、あなただったら、どのように表現しますか?と、問いかけているようだ。
杉本博司による、文楽についての展示。10世紀に製作された十二面観音と、自らが企画した、文楽の公演、曽根崎心中の映像を展示している。
文楽では、表情のない人形を使って、男と女の愛憎劇が演じられる。その制約の多さの中で、人間の愛の形が、より濃縮されて表現される。
ゴウハル・ダシュティの今日の生活と戦争。架空の若い夫妻の、何気無い日常生活の風景を、戦車や、防空壕など、戦場を連想させる背景に撮影した、4枚の写真作品。
戦場が、つねに身近になってしまった現代社会を、強烈に皮肉った作品。写真というメディアのパワーを、改めて実感させる力作。
荒木経惟が、自らの新婚旅行での妻を撮影した、センチメンタルな旅。荒木の妻は、決して美人とはいない。その妻の何気ない表情や、ヌードが写っている。
荒木がこの写真を見る時、他人がこの写真を見る時、それぞれの人物の中で行っていることには、天と地ほどの差があるに違いない。
名高い、源氏物語絵巻の模写。展示されていたのは、宿木と柏木の帖を描いたもの。光源氏が、自らの正妻と、自分の息子の親友との不倫の末に生まれた、運命の子、薫を、そうと知りながらも、抱き寄せている有名なシーンなど。
1000年以上も前に、この物語の作者、紫式部は、人間にとって、一番大事なことは、何なのかを、その壮大な物語の中で、現代に伝えている。
そして、この展覧会で、もっとも強く印象に残った、ソフィ・カルの、”どうか、げんきで”という作品。
一つの手紙を、何人かの女性に読んでもらい、一人一人の感想を、映像、写真、文章などにして、それを部屋の中に、まとめて展示している。
一部屋を使っていたこともあり、ソフィ・カルの作品の存在感は、圧倒的だった。
会場に行くまでは、LAVO展などというふざけたその名前から、ナンパな内容だろうな、と想像していたが、とんでもなかった。
愛という、この一言ではとても表現できないものを、アーティストたちが、どのように、格闘し、表現してきたか、を体感させる、かなりハードな展覧会だった。
浮遊するデザインー倉俣史朗とともに(埼玉近代美術館)
倉俣史朗の名前は知っていたが、その作品は、あまり目にする機会はなかった。
埼玉近代美術館で開催されたこの展覧会で、生涯に渡る、主要な作品を、初めて目にすることができた。
若き日の倉俣は、柳宗理のデザインや、芸術家集団である具体、イタリアのデザイン雑誌などに、強い影響を受けたという。
子供の頃から、小物入れに思い入れがあった、という倉俣の設計した、透明なタンス、波をうっているように曲がっているタンスなど、奇妙な形のタンスが、何点か並んでいた。
やがて、倉俣は、シュルレアリスム、とりわけマルセル・デュシャンに大きな影響を受ける。それ以降、倉俣は、デザインにおける無意識の重要性を、強く意識することになる。
しかし、本人は、アートとデザインの境界をはっきり意識しており、椅子を作っても、アート作品は座れないが、自分の作品は座って使われるもの、と言っていたという。
倉俣は、横尾忠則や安藤忠雄などの、他の分野のクリエーターたちとも、積極的に交遊し、イッセイミヤケの、東京やパリのブティックのインテリアデザインもこなした。
家具やインテリアのデザインの他にも、個人用住宅の設計も行っていた。
イタリア、ミラノのデザイン集団、メンフィスに参加して以降は、洗練された作品が増えたように思える。
アクリルの透明な椅子に、造花が埋め込まれていたり、大胆にガラスを織り交ぜたデスクなどの作品を見ると、確かに、あきらかにそれまでの作品とは違っている。
倉俣の代表作とも言える、オバQという名のランプは、プラスチックを、布のように折り曲げて、文字通り、お化けのQ太郎のようにしたもの。倉俣の、デザイン感覚とアート感覚が、見事にマッチしている。
こうして、倉俣史朗の生涯と、その作品を振り返って見ると、彼が、戦後の日本を代表するデザイナーであったことがよくわかった。
埼玉近代美術館で開催されたこの展覧会で、生涯に渡る、主要な作品を、初めて目にすることができた。
若き日の倉俣は、柳宗理のデザインや、芸術家集団である具体、イタリアのデザイン雑誌などに、強い影響を受けたという。
子供の頃から、小物入れに思い入れがあった、という倉俣の設計した、透明なタンス、波をうっているように曲がっているタンスなど、奇妙な形のタンスが、何点か並んでいた。
やがて、倉俣は、シュルレアリスム、とりわけマルセル・デュシャンに大きな影響を受ける。それ以降、倉俣は、デザインにおける無意識の重要性を、強く意識することになる。
しかし、本人は、アートとデザインの境界をはっきり意識しており、椅子を作っても、アート作品は座れないが、自分の作品は座って使われるもの、と言っていたという。
倉俣は、横尾忠則や安藤忠雄などの、他の分野のクリエーターたちとも、積極的に交遊し、イッセイミヤケの、東京やパリのブティックのインテリアデザインもこなした。
家具やインテリアのデザインの他にも、個人用住宅の設計も行っていた。
イタリア、ミラノのデザイン集団、メンフィスに参加して以降は、洗練された作品が増えたように思える。
アクリルの透明な椅子に、造花が埋め込まれていたり、大胆にガラスを織り交ぜたデスクなどの作品を見ると、確かに、あきらかにそれまでの作品とは違っている。
倉俣の代表作とも言える、オバQという名のランプは、プラスチックを、布のように折り曲げて、文字通り、お化けのQ太郎のようにしたもの。倉俣の、デザイン感覚とアート感覚が、見事にマッチしている。
こうして、倉俣史朗の生涯と、その作品を振り返って見ると、彼が、戦後の日本を代表するデザイナーであったことがよくわかった。
2013年8月4日日曜日
デザインが導く未来 榮九庵憲司とGKの世界/柚木沙弥郎 いのちの旗じるし(世田谷美術館)
世田谷美術館で開催された、この展覧会で、キッコーマンのあのお馴染みの瓶、 成田エクスプレス、モンカフェのパッケージなどが、榮九庵憲司とGKグループのデザインしたものであることを知った。
榮九庵憲司は、東京芸術大学在学中の1952年に、助教授の小池氏の名前から取った、Group Koikeを立ち上げ、”モノの民主化、美の民主化”をスローガンに、その活動を始めた。
この展覧会では、これまでの彼らの実績よりも、現在、あるいは未来への活動に焦点を当てていた。
この美術館の通常の展覧会ではあまり見られない、まるで企業の商業的なプレゼンテーションのような、会場デザインにまず戸惑った。
そこには、手を触れることで、映し出されている地球の映像を回すことができる、大きな”触れる地球”や、瀬戸内海で運行することを想定した飛行艇の模型、超軽量のバイク、体への負担を最小限に抑えた医療器具などが、展示されていた。
次のスペースには、中央に大きな仏像が置かれた、巨大なマンダラが、場所を占めていた。マンダラの表面をよく見ると、仏が描かれるべき所に、様々な道具の絵が描かれている。
榮九庵憲司は、道具村道具寺、という構想を持っている。その広大な寺の設計図と、完成のイメージ図が、展示されていた。人間と道具が共生する社会を目指してのことらしいが、少々、やり過ぎの感がなくはない。
しかし、未来の社会を作り上げていくために、デザインが必要だという発想には、大きな共感を感じた。
美術館の2階では、染色工芸家の柚木沙弥郎の作品展が行われていた。90才を越えた今でも現役で活躍する柚木の染物は、いずれも、素朴ながら味のあるデザインと色で、真夏の暑さを忘れさせる、なにか、心懐かしいものを感じさせる。
柚木は、学徒動員から戻った戦後、民藝の柳宗悦の書物に大きな影響を受け、柳から紹介された芹沢銈介との交流から、染色工芸家になることを志したという。
柚木は、絵本の挿絵も書いている。山下洋輔や、谷川俊太郎が文を書き、柚木が挿絵を描いた絵本が展示されていた。
いずれの展覧会も、人間とモノの関係について、改めて、じっくりと考えてみたくなる、そんな内容の展示内容だった。
榮九庵憲司は、東京芸術大学在学中の1952年に、助教授の小池氏の名前から取った、Group Koikeを立ち上げ、”モノの民主化、美の民主化”をスローガンに、その活動を始めた。
この展覧会では、これまでの彼らの実績よりも、現在、あるいは未来への活動に焦点を当てていた。
この美術館の通常の展覧会ではあまり見られない、まるで企業の商業的なプレゼンテーションのような、会場デザインにまず戸惑った。
そこには、手を触れることで、映し出されている地球の映像を回すことができる、大きな”触れる地球”や、瀬戸内海で運行することを想定した飛行艇の模型、超軽量のバイク、体への負担を最小限に抑えた医療器具などが、展示されていた。
次のスペースには、中央に大きな仏像が置かれた、巨大なマンダラが、場所を占めていた。マンダラの表面をよく見ると、仏が描かれるべき所に、様々な道具の絵が描かれている。
榮九庵憲司は、道具村道具寺、という構想を持っている。その広大な寺の設計図と、完成のイメージ図が、展示されていた。人間と道具が共生する社会を目指してのことらしいが、少々、やり過ぎの感がなくはない。
しかし、未来の社会を作り上げていくために、デザインが必要だという発想には、大きな共感を感じた。
美術館の2階では、染色工芸家の柚木沙弥郎の作品展が行われていた。90才を越えた今でも現役で活躍する柚木の染物は、いずれも、素朴ながら味のあるデザインと色で、真夏の暑さを忘れさせる、なにか、心懐かしいものを感じさせる。
柚木は、学徒動員から戻った戦後、民藝の柳宗悦の書物に大きな影響を受け、柳から紹介された芹沢銈介との交流から、染色工芸家になることを志したという。
柚木は、絵本の挿絵も書いている。山下洋輔や、谷川俊太郎が文を書き、柚木が挿絵を描いた絵本が展示されていた。
いずれの展覧会も、人間とモノの関係について、改めて、じっくりと考えてみたくなる、そんな内容の展示内容だった。
文字の力・書のチカラⅡ(出光美術館)
東京国立博物館で開催されている、大規模な特別展”和様の書”、と連動するように、いくつかの美術館で、書に関する企画展が開催されている。
出光美術館で開催された、この展覧会もその一つ。小規模ながら、印象的な作品が見られた。
入り口の近くに、2つの作品が並んで展示されていた。伝紀貫之、高野切第一種。そして、伝小野道風、継色紙。いずれも、実に美しいかなの書。そのあまりの美しさを見ていると、本当はこの文字を誰が書いたのか、ということなど、どうでもいいことのように思えてくる。
平安時代の末期に書かれた、理趣経種子曼荼羅。大日如来などの仏を、一文字で表した種子で、曼荼羅として表現したもの。この書が書かれた時代は、文字には、大きな力があったのだろう。
豊臣秀吉の天下統一から、江戸幕府の成立にかけて、その難しい時代に帝位にあった、後陽成天皇は、書の名人としても知られる。展示されていた2点の書は、いずれも素晴しい。豊臣秀吉や、徳川家康といった歴史上の人物たちとの、決して楽ではない関係を生き抜いた、その人物の書は、そこに書かれている以上のものを、感じさせる。
一休の墨梅画賛。自ら、画と賛を書いている。賛の間に梅の枝を伸ばして、梅の花を、文字のように描いている。個性的な、というよりひねくれた、一休の性格が、よく現れている。
雪舟の書。南無布袋和尚と書かれた、六字一行書。よく見ると、太く書かれた部分が、鳥の形に似せて描かれている。雪舟が明を訪れた時に、向こうで流行っていた技法らしい。
良寛が、自らの漢詩を屏風に書いた、詩書屏風。流れるように書かれた漢字を、読み取ることは至難の技だ。良寛は、その書かれた意味を表すよりは、その心象を形として表したかったのだろう。
書は、その書いた人物のことを、よく表す。この展覧会では、改めて、そのことに気づかされた。
出光美術館で開催された、この展覧会もその一つ。小規模ながら、印象的な作品が見られた。
入り口の近くに、2つの作品が並んで展示されていた。伝紀貫之、高野切第一種。そして、伝小野道風、継色紙。いずれも、実に美しいかなの書。そのあまりの美しさを見ていると、本当はこの文字を誰が書いたのか、ということなど、どうでもいいことのように思えてくる。
平安時代の末期に書かれた、理趣経種子曼荼羅。大日如来などの仏を、一文字で表した種子で、曼荼羅として表現したもの。この書が書かれた時代は、文字には、大きな力があったのだろう。
豊臣秀吉の天下統一から、江戸幕府の成立にかけて、その難しい時代に帝位にあった、後陽成天皇は、書の名人としても知られる。展示されていた2点の書は、いずれも素晴しい。豊臣秀吉や、徳川家康といった歴史上の人物たちとの、決して楽ではない関係を生き抜いた、その人物の書は、そこに書かれている以上のものを、感じさせる。
一休の墨梅画賛。自ら、画と賛を書いている。賛の間に梅の枝を伸ばして、梅の花を、文字のように描いている。個性的な、というよりひねくれた、一休の性格が、よく現れている。
雪舟の書。南無布袋和尚と書かれた、六字一行書。よく見ると、太く書かれた部分が、鳥の形に似せて描かれている。雪舟が明を訪れた時に、向こうで流行っていた技法らしい。
良寛が、自らの漢詩を屏風に書いた、詩書屏風。流れるように書かれた漢字を、読み取ることは至難の技だ。良寛は、その書かれた意味を表すよりは、その心象を形として表したかったのだろう。
書は、その書いた人物のことを、よく表す。この展覧会では、改めて、そのことに気づかされた。
特別展観 遊び(京都国立博物館)
この展覧会を訪れた時、京都では、ちょうど祇園祭の真最中だった。
京都駅は、もの凄い人出。外国から訪れた観光客の姿も目立った。
そうした人混みから脱出し、タクシーを拾い、会場の京都国立博物館に到着したが、京都駅の混乱と違って、そこは、あまりにも閑散としていた。
遊び、というテーマは、おそらく、夏休みの家族連れを意識した企画だろう。
6世紀の青銅の須恵器。肩の部分に、相撲をしている二人を象った飾りがついている。相撲は、神に捧げる神事だったが、それを見る人々にとっては、遊びの一つであっただろう。
室町時代の成相寺参詣曼荼羅図。成相寺は、西国三十三所のひとつ。遠くのお寺を参詣することは、参拝者にとっては、旅行でもあり、日常の生活から抜け出し、気分をリフレッシュできる、貴重な機会であった。
中国の南宋時代に描かれた、2枚の羅漢図。酒を楽しむ羅漢と、お茶をたしなむ羅漢。お茶もお酒も、中国では、教養のある人物が、たしなむべきものとされた。その文化は、日本にも伝わった。
長沢蘆雪の唐子図屏風。唐風の衣装を身につけた子供達が、子犬たちと戯れている。その子犬の、ユーモアにあふれた、愛くるしい表現。長沢蘆雪の、遊び心が炸裂した、見事な屏風絵。
江戸時代に盛んに作られた御所人形。20体ほどが、一カ所にまとめて展示されていた。その独特の表情は、可愛らしくも、やや不気味な感じにも見える。子供が持っている、両面の要素を、見事に写し取っている。
会場には、外国人の観光客のグループが、興味深そうに、そして熱心に、展示品を眺めていた。
遊びは、どの民族にも存在する、人間の普遍的な活動でありながら、その具体的な遊びは、その国の文化が色濃く反映されている。
どの地域の遊びを見ても、自分たちの地域に共通する要素と、全く違った要素の、二つを見つけ出せることができるのだろう。
京都駅は、もの凄い人出。外国から訪れた観光客の姿も目立った。
そうした人混みから脱出し、タクシーを拾い、会場の京都国立博物館に到着したが、京都駅の混乱と違って、そこは、あまりにも閑散としていた。
遊び、というテーマは、おそらく、夏休みの家族連れを意識した企画だろう。
6世紀の青銅の須恵器。肩の部分に、相撲をしている二人を象った飾りがついている。相撲は、神に捧げる神事だったが、それを見る人々にとっては、遊びの一つであっただろう。
室町時代の成相寺参詣曼荼羅図。成相寺は、西国三十三所のひとつ。遠くのお寺を参詣することは、参拝者にとっては、旅行でもあり、日常の生活から抜け出し、気分をリフレッシュできる、貴重な機会であった。
中国の南宋時代に描かれた、2枚の羅漢図。酒を楽しむ羅漢と、お茶をたしなむ羅漢。お茶もお酒も、中国では、教養のある人物が、たしなむべきものとされた。その文化は、日本にも伝わった。
長沢蘆雪の唐子図屏風。唐風の衣装を身につけた子供達が、子犬たちと戯れている。その子犬の、ユーモアにあふれた、愛くるしい表現。長沢蘆雪の、遊び心が炸裂した、見事な屏風絵。
江戸時代に盛んに作られた御所人形。20体ほどが、一カ所にまとめて展示されていた。その独特の表情は、可愛らしくも、やや不気味な感じにも見える。子供が持っている、両面の要素を、見事に写し取っている。
会場には、外国人の観光客のグループが、興味深そうに、そして熱心に、展示品を眺めていた。
遊びは、どの民族にも存在する、人間の普遍的な活動でありながら、その具体的な遊びは、その国の文化が色濃く反映されている。
どの地域の遊びを見ても、自分たちの地域に共通する要素と、全く違った要素の、二つを見つけ出せることができるのだろう。
2013年8月3日土曜日
色を見る、色を楽しむ(ブリヂストン美術館)
”色を見る、色を楽しむ”という、不思議な名前の展覧会が、東京駅にほど近い、ブリヂストン美術館で開催された。
展示の中心は、マチスの色鮮やかな切り絵で構成された『ジャズ』、それとは正反対の、ルドンの黒一色のリトグラフ『夢想』という2つの作品。
マチスの『ジャズ』は、20枚から構成されている。いずれも、マチスの弟子が彩色した鮮やかな原色の紙から、マチスが形を切り取って並べ、完成させたもの。
その対面には、マチスの油彩画が展示されており、その違いを楽しむことができた。
切り絵では、その色と、ハサミで切り取られた形がすべて。油彩画に見られる、微妙な筆先の変化や、輪郭線の曖昧さなどは、全く見られない。油絵はアナログ、切り絵はデジタル、といったところだろうか。
切り絵という形式においては、色彩の画家といわれるマチスの特徴が、実によく表れているように感じられた。
ルドンの『夢想』は、ルドンがパリに出る前、生まれ故郷のボルドーにいた頃に出会い、大きな影響を受けた、アルマン・クラヴォーの死に捧げた6枚のリトグラフ集。
クラヴォーは植物学者で、顕微鏡を使って、若きルドンに、沢山の植物のミクロの世界を見せたという。そのイメージは、ルドンの心に強く刻まれ、パリに出た後のルドンの描く不思議な生き物の原型になった。
最初の5枚のリトグラフは、いずれもルドンらしい、幻想に満ちあふれた作品だったが、最後の”日の光”というリトグラフは、窓の向こうに、花が咲いている、といういたって平凡な内容。
しかし、その平凡さが、とても強く印象に残っている。
この展覧会では、開催される直前の2013年4月9日に、92才で亡くなった、ザオ・ウーキーを追悼する意味で、1室にウーキーの作品が、9点展示されていた。
ウーキーの”07.06.85”という作品は、ブリヂストン美術館の常設コーナーに、いつも展示されており、馴染みの深い作品だった。こうして、別の作品と並べて展示されると、いつもと変わった印象を受ける。
これまでは、その青い色だけが、強く印象に残っていたが、この日は、青が、他の白、緑などの色と、微妙に入り交じっている、複雑な色合いの部分が、強く心に残った。
ウーキーの作品は、この”07.06.85”のように、作品を完成させた日の日付けが、そのまま作品名になっているものが多い。作品は、その時の心象風景である、ということなのかもしれない。
”15.01.61”という作品では、青、緑、茶、黄、そして線の黒など、実に多くの色が、微妙に混じりあい重なりあい、何とも言えない芸術空間を作り上げている。
展示の中心は、マチスの色鮮やかな切り絵で構成された『ジャズ』、それとは正反対の、ルドンの黒一色のリトグラフ『夢想』という2つの作品。
マチスの『ジャズ』は、20枚から構成されている。いずれも、マチスの弟子が彩色した鮮やかな原色の紙から、マチスが形を切り取って並べ、完成させたもの。
その対面には、マチスの油彩画が展示されており、その違いを楽しむことができた。
切り絵では、その色と、ハサミで切り取られた形がすべて。油彩画に見られる、微妙な筆先の変化や、輪郭線の曖昧さなどは、全く見られない。油絵はアナログ、切り絵はデジタル、といったところだろうか。
切り絵という形式においては、色彩の画家といわれるマチスの特徴が、実によく表れているように感じられた。
ルドンの『夢想』は、ルドンがパリに出る前、生まれ故郷のボルドーにいた頃に出会い、大きな影響を受けた、アルマン・クラヴォーの死に捧げた6枚のリトグラフ集。
クラヴォーは植物学者で、顕微鏡を使って、若きルドンに、沢山の植物のミクロの世界を見せたという。そのイメージは、ルドンの心に強く刻まれ、パリに出た後のルドンの描く不思議な生き物の原型になった。
最初の5枚のリトグラフは、いずれもルドンらしい、幻想に満ちあふれた作品だったが、最後の”日の光”というリトグラフは、窓の向こうに、花が咲いている、といういたって平凡な内容。
しかし、その平凡さが、とても強く印象に残っている。
この展覧会では、開催される直前の2013年4月9日に、92才で亡くなった、ザオ・ウーキーを追悼する意味で、1室にウーキーの作品が、9点展示されていた。
ウーキーの”07.06.85”という作品は、ブリヂストン美術館の常設コーナーに、いつも展示されており、馴染みの深い作品だった。こうして、別の作品と並べて展示されると、いつもと変わった印象を受ける。
これまでは、その青い色だけが、強く印象に残っていたが、この日は、青が、他の白、緑などの色と、微妙に入り交じっている、複雑な色合いの部分が、強く心に残った。
ウーキーの作品は、この”07.06.85”のように、作品を完成させた日の日付けが、そのまま作品名になっているものが多い。作品は、その時の心象風景である、ということなのかもしれない。
”15.01.61”という作品では、青、緑、茶、黄、そして線の黒など、実に多くの色が、微妙に混じりあい重なりあい、何とも言えない芸術空間を作り上げている。
美の響演 関西コレクション(国立国際美術館)
関西に旅行したついでに、大阪の国立国際美術館で開催されていた、美の響演 関西コレクション、という展覧会を訪れた。
大阪、京都、滋賀、和歌山などの美術館が収蔵する、20世紀以降の現代アートの作品を、一同に展示するという、実に贅沢な企画だ。
20世紀以降の芸術といっても、実に多様だ。セザンヌ、ロダン、ピカソ、マチスなどに始まり、エルンスト、デシャンなどのシュールレアリズム、ウォーホル、リキテンシュタインから、現役のアーティストまで。
普段は、あまり目にすることのない、いろいろなアーティストの作品も含めて、多様な作家たちの多様な作品を、まとめて楽しむことができた。
アートの歴史の中でも、これほど劇的に変化した100年は、かつてなかったに違いない。それは、人間の社会自体が、劇的に変化した、ということも意味しているのだろう。
アンフォルメルの作家と言われる、ジャン・フォートリエの”人質の頭部”と”永遠の幸福”という2つの作品。前者の作品は、表現されている物が、何となく、人の頭部と想像できるが、後者は、一見すると、カラスミのようにも見え、その表題とは、どう考えても結びつかない。
ヴォルスの”構成”という作品。灰色の立体感のある背景が、白い細い線で、不均等な4つの空間に分割されている。それぞれの空間に、赤い絵の具が、不規則におかれている。偶然とも、必然とも見える、不思議なコンポジションの絵画だ。
サイ・トゥオンブリーの、”マグダでの10日間の待機”。子供のいたずら書きのような作品。ロラン・バルトは、この画家の、作品の多義的な内容を、高く評価していたという。
会場を後にして、ふと考えた。
はたして、次の100年で、アートはどんな風に変わって行くのだろうか?もしかしたら、これまでの100年ほどは、大きな変化は遂げないのかもしれない。
大阪、京都、滋賀、和歌山などの美術館が収蔵する、20世紀以降の現代アートの作品を、一同に展示するという、実に贅沢な企画だ。
20世紀以降の芸術といっても、実に多様だ。セザンヌ、ロダン、ピカソ、マチスなどに始まり、エルンスト、デシャンなどのシュールレアリズム、ウォーホル、リキテンシュタインから、現役のアーティストまで。
普段は、あまり目にすることのない、いろいろなアーティストの作品も含めて、多様な作家たちの多様な作品を、まとめて楽しむことができた。
アートの歴史の中でも、これほど劇的に変化した100年は、かつてなかったに違いない。それは、人間の社会自体が、劇的に変化した、ということも意味しているのだろう。
アンフォルメルの作家と言われる、ジャン・フォートリエの”人質の頭部”と”永遠の幸福”という2つの作品。前者の作品は、表現されている物が、何となく、人の頭部と想像できるが、後者は、一見すると、カラスミのようにも見え、その表題とは、どう考えても結びつかない。
ヴォルスの”構成”という作品。灰色の立体感のある背景が、白い細い線で、不均等な4つの空間に分割されている。それぞれの空間に、赤い絵の具が、不規則におかれている。偶然とも、必然とも見える、不思議なコンポジションの絵画だ。
サイ・トゥオンブリーの、”マグダでの10日間の待機”。子供のいたずら書きのような作品。ロラン・バルトは、この画家の、作品の多義的な内容を、高く評価していたという。
会場を後にして、ふと考えた。
はたして、次の100年で、アートはどんな風に変わって行くのだろうか?もしかしたら、これまでの100年ほどは、大きな変化は遂げないのかもしれない。
2013年7月28日日曜日
<遊ぶ>シュールレアリズム展(損保ジャパン東郷青児美術館)
この展覧会の題名は、二つの意味を持っている。
シュールレアリズムの作家たちが、遊びの精神を持っていた、ということと、シュールレアリズムの作品を参考に、見る人も遊び感覚で、アート作品を作ってはどうか、ということの二つだ。
後者のために、会場の1階には、特設スペースが設けられており、自由に絵を書いたり、アート作品を作れるスペースが準備されていた。
会期が、夏休み期間に当たることもあり、子供向けの企画なのだろう。
さて、シュールレアリズムの作家たちは、どのように遊んだのか。
マン・レイが撮影した、代表的な作家たちの肖像写真。ブルトン、ダリ、デュシャン、エルンスト、ダリ、タンギー、そして自らのポートレイト。
遊ぶためには、まず、群れなければならない、ということだろうか。彼らが正然と並んだ集合写真は、ある意味で、シュールレアリズムの活動の本質を写し取っている。
それにしても、彼らが揃って写っている写真は壮観だ。この中に割って入るには、相当の勇気を要する。穏便な日常生活を送るためには、決して近づきたくはない人々だ。
マン・レイの、言葉遊びを巧みに使ったオブジェ。何気ない日常品を使い、同じ言葉の卑猥な意味を連想させる。そして、エルンストによる、コミック紙を利用したコラージュ作品。
いずれも、既成概念の危うさを、簡単なトリックで露呈させる。シュールレアリズムの精神が、実によく現れている作品。
エルンストの作品を参考に、岡上淑子が作成したコラージュ作品の数々。寡聞にも、これまで全くその名前を知らなかった。結婚を期に、故郷の高松に帰るまでの6年間に百以上の作品を制作したという。
マン・レイらの写真と並んで、植田正浩と瑛九の作品も展示されていた。本人たちは、自らをシュールレアリストであるとは語っていなかったようだが、明らかに、同じ遊び心を持っている作品だ。
ダリの反プロトン的聖母被昇天という油絵。お馴染みのガラをモデルにした作品。昇天していくガラがまとっている衣の、細部にいたる細かい繊細な筆使いに圧倒され、しばらくその前から動けなくなってしまった。
エルンストの版画集、博物誌。これは、万人にとっての博物誌ではなく、あくまでエルンスト個人の博物誌。結局のところ、この世界は、あくまでも、個人個人の心の中にしか、存在しないのだ、とあらためて感じさせられる、強烈な作品。
ああ、やっぱり自分は、エルンストが大好きなのだなあ。
最後に、出展リストを見直して気がついたが、およそ200点にも渡る展示作品のほとんどは、日本の各地の美術館が収蔵しているものだった。
この日本という国は、意外にも、シュールレアリズムの国だったのだ。
シュールレアリズムの作家たちが、遊びの精神を持っていた、ということと、シュールレアリズムの作品を参考に、見る人も遊び感覚で、アート作品を作ってはどうか、ということの二つだ。
後者のために、会場の1階には、特設スペースが設けられており、自由に絵を書いたり、アート作品を作れるスペースが準備されていた。
会期が、夏休み期間に当たることもあり、子供向けの企画なのだろう。
さて、シュールレアリズムの作家たちは、どのように遊んだのか。
マン・レイが撮影した、代表的な作家たちの肖像写真。ブルトン、ダリ、デュシャン、エルンスト、ダリ、タンギー、そして自らのポートレイト。
遊ぶためには、まず、群れなければならない、ということだろうか。彼らが正然と並んだ集合写真は、ある意味で、シュールレアリズムの活動の本質を写し取っている。
それにしても、彼らが揃って写っている写真は壮観だ。この中に割って入るには、相当の勇気を要する。穏便な日常生活を送るためには、決して近づきたくはない人々だ。
マン・レイの、言葉遊びを巧みに使ったオブジェ。何気ない日常品を使い、同じ言葉の卑猥な意味を連想させる。そして、エルンストによる、コミック紙を利用したコラージュ作品。
いずれも、既成概念の危うさを、簡単なトリックで露呈させる。シュールレアリズムの精神が、実によく現れている作品。
エルンストの作品を参考に、岡上淑子が作成したコラージュ作品の数々。寡聞にも、これまで全くその名前を知らなかった。結婚を期に、故郷の高松に帰るまでの6年間に百以上の作品を制作したという。
マン・レイらの写真と並んで、植田正浩と瑛九の作品も展示されていた。本人たちは、自らをシュールレアリストであるとは語っていなかったようだが、明らかに、同じ遊び心を持っている作品だ。
ダリの反プロトン的聖母被昇天という油絵。お馴染みのガラをモデルにした作品。昇天していくガラがまとっている衣の、細部にいたる細かい繊細な筆使いに圧倒され、しばらくその前から動けなくなってしまった。
エルンストの版画集、博物誌。これは、万人にとっての博物誌ではなく、あくまでエルンスト個人の博物誌。結局のところ、この世界は、あくまでも、個人個人の心の中にしか、存在しないのだ、とあらためて感じさせられる、強烈な作品。
ああ、やっぱり自分は、エルンストが大好きなのだなあ。
最後に、出展リストを見直して気がついたが、およそ200点にも渡る展示作品のほとんどは、日本の各地の美術館が収蔵しているものだった。
この日本という国は、意外にも、シュールレアリズムの国だったのだ。
大妖怪展(三井記念美術館)
今年も暑い夏がやってきた。夏になると、妖怪にまつわる展覧会が、よく開催される。
三井記念美術館で開催されたこの大妖怪展は、妖怪学者として著名な、小松和彦の考え方をベースにして、よく企画された内容の展覧会だった。
室町時代に描かれた、北野天神絵巻 弘安本には、天神様の変容としての、赤い鬼の姿が、はっきりと描かれている。
同じく鎌倉時代の大江山絵詞。日本の妖怪の物語の代表的な酒呑童子の物語を描いているが、いずれも、その姿は、あきらかに仏教美術の影響を受けている。
室町時代から江戸時代にかけての能面の数々。般若、蛇、山姥、狐などなど。
能の謡曲の中では、そうした数々の妖怪たちが、様々なシチュエーションの中で、人間の情念の深さ、その悲しさを演じている。
妖怪絵の中で、とりわけ有名なものが、百鬼夜行絵巻。様々なバージョンの絵巻物が展示されていた。オリジナルは、室町時代に描かれたもの。その後、現代に至るまで、多くの画家たちが、自らのオリジナリティを交えながら、描き続けてきた。
江戸時代に描かれた、道成寺絵巻。蛇に化けた女性が、坊主が逃げ込んだ鐘に巻きついている。上記の2作品より、時代が下っていることもあり、コミカルに表現されていて、怖さは全く感じられない。
江戸時代に空前の妖怪ブームを巻き起こした、鳥山石燕の妖怪本。現代の本屋に並べても、決して遜色のない、その印刷物としての質の高さに驚く。
最後のコーナーは、水木しげるの描いた妖怪絵の数々。百鬼夜行図や、鳥山石燕のイメージをベースに、現代的な味付けを施している。
それにしても、さすが水木しげる。これまで見てきな、様々な妖怪絵と比べても、決して遜色がない。
古代から、中世、近世、そして現代までの、日本人にとっての妖怪像を概観できる展覧会だった。
どうやら、妖怪という存在は、人間という生き物がいる限りは、いつの時代でも、その形を変えて、生き続けてきたようだ。
三井記念美術館で開催されたこの大妖怪展は、妖怪学者として著名な、小松和彦の考え方をベースにして、よく企画された内容の展覧会だった。
室町時代に描かれた、北野天神絵巻 弘安本には、天神様の変容としての、赤い鬼の姿が、はっきりと描かれている。
同じく鎌倉時代の大江山絵詞。日本の妖怪の物語の代表的な酒呑童子の物語を描いているが、いずれも、その姿は、あきらかに仏教美術の影響を受けている。
室町時代から江戸時代にかけての能面の数々。般若、蛇、山姥、狐などなど。
能の謡曲の中では、そうした数々の妖怪たちが、様々なシチュエーションの中で、人間の情念の深さ、その悲しさを演じている。
妖怪絵の中で、とりわけ有名なものが、百鬼夜行絵巻。様々なバージョンの絵巻物が展示されていた。オリジナルは、室町時代に描かれたもの。その後、現代に至るまで、多くの画家たちが、自らのオリジナリティを交えながら、描き続けてきた。
江戸時代に描かれた、道成寺絵巻。蛇に化けた女性が、坊主が逃げ込んだ鐘に巻きついている。上記の2作品より、時代が下っていることもあり、コミカルに表現されていて、怖さは全く感じられない。
江戸時代に空前の妖怪ブームを巻き起こした、鳥山石燕の妖怪本。現代の本屋に並べても、決して遜色のない、その印刷物としての質の高さに驚く。
最後のコーナーは、水木しげるの描いた妖怪絵の数々。百鬼夜行図や、鳥山石燕のイメージをベースに、現代的な味付けを施している。
それにしても、さすが水木しげる。これまで見てきな、様々な妖怪絵と比べても、決して遜色がない。
古代から、中世、近世、そして現代までの、日本人にとっての妖怪像を概観できる展覧会だった。
どうやら、妖怪という存在は、人間という生き物がいる限りは、いつの時代でも、その形を変えて、生き続けてきたようだ。
2013年7月27日土曜日
生誕250周年 谷文晁展(サントリー美術館)
谷文晁は、何とも捉えどころのない画家だ。
最初のコーナーでは、谷文晁が描いた、様々な種類の絵画を提示し、その捉えどころのなさを、強調していた。
細かい描写とカラフルな色合いの南画、墨一色で描かれた山水画、西洋の静物画の模写、伝統的な仏画などなど。
谷文晁は、後に大老となって、寛政の改革に取り組むことになる、松平定信のお抱え絵師となり、その肖像画や、随行先の様々な風景画などを描いた。
その松平定信の命令で、日本全国にある主要な美術品を調べ、それ写し取り、整理して、集古十種、という書物にまとめた。その一部が展示されていたが、その表現は、個性を排除し、対象をただ忠実に書き写している。
日本の数ある芸術家の中で、これほど沢山の芸術作品を目にした人物は、それほどはいなかっただろう。
谷文晁の時代は、18世紀の中頃。江戸時代が始まっておよそ100年がたっており、海外からの影響もあり、江戸を中心とした都市文化が発展していた。谷文晁は、その文化の成熟を、まさに体現するような人物だった。
最後のコーナーでは、谷文晁の交友関係の広さに焦点を当てていた。大阪の文化人のネットワークの中核にいた、木村蒹葭堂や、酒井抱一、大田南畝など、錚々たる人物たちの名前が並んでいる。
自ら画塾を開き、多くの弟子を抱えてもいた。その中には、後に幕末の混乱の中で、悲劇的な死を迎えた、渡辺崋山もいた。
しかし、画家としての谷文晁をみた場合。江戸時代の画家としてみると、これといった強烈な印象を残す作品が、残念ながら、ほとんどない。
どの絵も、技術的には素晴らしい。楼閣山水図や孔雀図などの作品をみると、その細かい筆さばきの正確さに、目を見張る。しかし、何というか、インパクトに欠けている気がする。
谷文晁は、あまりにも恵まれすぎ、あまりにも多くの芸術を知りすぎ、そして、あまりにも技術があり過ぎたのかもしれない。
最初のコーナーでは、谷文晁が描いた、様々な種類の絵画を提示し、その捉えどころのなさを、強調していた。
細かい描写とカラフルな色合いの南画、墨一色で描かれた山水画、西洋の静物画の模写、伝統的な仏画などなど。
谷文晁は、後に大老となって、寛政の改革に取り組むことになる、松平定信のお抱え絵師となり、その肖像画や、随行先の様々な風景画などを描いた。
その松平定信の命令で、日本全国にある主要な美術品を調べ、それ写し取り、整理して、集古十種、という書物にまとめた。その一部が展示されていたが、その表現は、個性を排除し、対象をただ忠実に書き写している。
日本の数ある芸術家の中で、これほど沢山の芸術作品を目にした人物は、それほどはいなかっただろう。
谷文晁の時代は、18世紀の中頃。江戸時代が始まっておよそ100年がたっており、海外からの影響もあり、江戸を中心とした都市文化が発展していた。谷文晁は、その文化の成熟を、まさに体現するような人物だった。
最後のコーナーでは、谷文晁の交友関係の広さに焦点を当てていた。大阪の文化人のネットワークの中核にいた、木村蒹葭堂や、酒井抱一、大田南畝など、錚々たる人物たちの名前が並んでいる。
自ら画塾を開き、多くの弟子を抱えてもいた。その中には、後に幕末の混乱の中で、悲劇的な死を迎えた、渡辺崋山もいた。
しかし、画家としての谷文晁をみた場合。江戸時代の画家としてみると、これといった強烈な印象を残す作品が、残念ながら、ほとんどない。
どの絵も、技術的には素晴らしい。楼閣山水図や孔雀図などの作品をみると、その細かい筆さばきの正確さに、目を見張る。しかし、何というか、インパクトに欠けている気がする。
谷文晁は、あまりにも恵まれすぎ、あまりにも多くの芸術を知りすぎ、そして、あまりにも技術があり過ぎたのかもしれない。
浮世絵 第2期:北斎・広重の登場-ツーリズムの発展(三菱一号館美術館)
東京の三菱一号館美術館で開催されている、浮世絵展の第2期は、北斎と広重を中心とした風景画が展示の中心だった。
まず印象に深く残ったのは、広重の肉筆画。武蔵多満川と箱根二子山。浮世絵とは違い、色はあまり使われておらず、墨の黒、茶色などで、ぼかしを使って描かれている。
少し遠くから眺めた方が、その雰囲気をよく味わえる。近寄ってみると、繊細な筆使いで、細部が描かれている。
広重というと、やはり東海道五十三次に代表される風景画のイメージが強い。会場には、他にも雉や雁、梟や獅子などの動物画の浮世絵も展示されていた。全体の構図、細かい描写には、しばらくその前で、思わず足を止めてしまう。
東海道五十三次の絵師とは、一味違った広重が、そこにはいた。
渓斎英泉の美人東海道と、三代目歌川豊国の役者見立 東海道五十三駅というシリーズの浮世絵。いずれも発想は同じ。大ヒットした、広重の東海道五十三次シリーズにあやかって、それぞれが得意とする、美人画と役者絵を組み合わせたというもの。
背景となっている風景画を見ると、広重や北斎の作品をコピーしている風景もあり、思わず笑ってしまう。
最後の部屋は、国芳の作品がまとめて展示されていた。
美人画、役者絵、風景画、世相を皮肉った動物を使った諷刺画など。国芳の多彩な魅力が爆発しており、それまで見てきた、北斎や広重の作品を忘れてしまうほど、強烈な個性を振りまいていた。
まず印象に深く残ったのは、広重の肉筆画。武蔵多満川と箱根二子山。浮世絵とは違い、色はあまり使われておらず、墨の黒、茶色などで、ぼかしを使って描かれている。
少し遠くから眺めた方が、その雰囲気をよく味わえる。近寄ってみると、繊細な筆使いで、細部が描かれている。
広重というと、やはり東海道五十三次に代表される風景画のイメージが強い。会場には、他にも雉や雁、梟や獅子などの動物画の浮世絵も展示されていた。全体の構図、細かい描写には、しばらくその前で、思わず足を止めてしまう。
東海道五十三次の絵師とは、一味違った広重が、そこにはいた。
渓斎英泉の美人東海道と、三代目歌川豊国の役者見立 東海道五十三駅というシリーズの浮世絵。いずれも発想は同じ。大ヒットした、広重の東海道五十三次シリーズにあやかって、それぞれが得意とする、美人画と役者絵を組み合わせたというもの。
背景となっている風景画を見ると、広重や北斎の作品をコピーしている風景もあり、思わず笑ってしまう。
最後の部屋は、国芳の作品がまとめて展示されていた。
美人画、役者絵、風景画、世相を皮肉った動物を使った諷刺画など。国芳の多彩な魅力が爆発しており、それまで見てきた、北斎や広重の作品を忘れてしまうほど、強烈な個性を振りまいていた。
日本の名蹟 和洋の書の変遷(五島美術館)
書家で古筆の研究者でもある、飯島春敬の春敬記念書道文庫の創立30年を記念した展覧会。
入口付近に、8世紀の正倉院文書の一部が展示されていた。収蔵品の記録のようなもので、果たして名蹟といえるが疑問だが、正倉院文書というだけで、貴重なものなのだろう。
聖徳太子筆と考えられてきた、一字宝塔法華経。実際は、12世紀に書かれた書で、聖徳太子が書いたものではない。やや細長の、繊細な筆使いで書かれており、その雰囲気が、聖徳太子を連想させたのだろう。
小野道風筆の絹地切。個性的な道風の書。一文字一文字が、波打つように書かれており、まるで呪文のように見える。
伝紀貫之筆の3つの高野切。伝藤原行成のこれまた3種の伊予切。いずれも、それぞれタイプの違ったかなの書。
この2組の作品に限らず、出展された作品のほとんどは、伝誰々。その本人が書いたとは、確実には言えないものばかり。
そうした書を愛する人々にとっては、それが真筆かどうかは、それほど重要ではなかった。その書が美しく、名人によって書かれた、と言い伝えられてきたのであれば、その通りに受け取られ、尊ばれてきた。
第2展示室に展示されていた、西行筆と伝えられてきた3つの書。どれも、決して整った綺麗な書ではない、ややぞんざいに書かれている印象だが、それこそまさに、人々が、放浪の詩人、西行に抱いていたイメージだった。
日本の書は、その書き振りや、その文字が表している言葉の意味だけではなく、それを書いた人物のイメージも、その中に表現されている。
入口付近に、8世紀の正倉院文書の一部が展示されていた。収蔵品の記録のようなもので、果たして名蹟といえるが疑問だが、正倉院文書というだけで、貴重なものなのだろう。
聖徳太子筆と考えられてきた、一字宝塔法華経。実際は、12世紀に書かれた書で、聖徳太子が書いたものではない。やや細長の、繊細な筆使いで書かれており、その雰囲気が、聖徳太子を連想させたのだろう。
小野道風筆の絹地切。個性的な道風の書。一文字一文字が、波打つように書かれており、まるで呪文のように見える。
伝紀貫之筆の3つの高野切。伝藤原行成のこれまた3種の伊予切。いずれも、それぞれタイプの違ったかなの書。
この2組の作品に限らず、出展された作品のほとんどは、伝誰々。その本人が書いたとは、確実には言えないものばかり。
そうした書を愛する人々にとっては、それが真筆かどうかは、それほど重要ではなかった。その書が美しく、名人によって書かれた、と言い伝えられてきたのであれば、その通りに受け取られ、尊ばれてきた。
第2展示室に展示されていた、西行筆と伝えられてきた3つの書。どれも、決して整った綺麗な書ではない、ややぞんざいに書かれている印象だが、それこそまさに、人々が、放浪の詩人、西行に抱いていたイメージだった。
日本の書は、その書き振りや、その文字が表している言葉の意味だけではなく、それを書いた人物のイメージも、その中に表現されている。
2013年7月21日日曜日
せいかどう動物園(静嘉堂文庫美術館)
動物にまつわる、焼物や根付などを展示した、静嘉堂文庫美術館で行われた展覧会。夏休みに近いということで、親子連れを意識した企画だった。
絵画ではなく、陶器、香合、根付などの工芸品を中心に構成されているのが、この展覧会の特徴。時代も中国の後漢時代から現代までと多様。
ニワトリ、ウズラ、ガチョウ、カモなどの鳥。ゾウ、ライオン、タヌキ、ネコ、サルなどの獣。チョウ、カマキリ、クモ、セミなどの昆虫。カエル、エビ、アユ、キンギョなどの水辺の生き物などなど。まさに、動物園という名前もおおげさではない。
8世紀に作られた、ウマやラクダの唐三彩の存在感が際立っていた。隣には、そうした動物を縄で曵いている、ソグド人とおぼしき商人の像も立っている。
その一連の唐三彩は、すでにグローバリゼーションされていた8世紀の唐時代に、見ている者を、一気に連れて行ってしまう。
野々村仁清の白いサギの香炉、真っすぐに細い首を伸ばして、鳴いているように、上を向いている白サギを、あまり装飾せず、そのシルエットだけで見事に表現している。
同じく仁清の、色絵法螺貝香炉。地の土色の上に、青、赤、緑の山色で、法螺貝の表面をカラフルに彩っている。
白サギの鳴き声、法螺貝の音と、香合の香り。いずれの作品も、音と匂という2つの違った感覚を組み合わせた、仁清の職人としての感覚が、いかんなく発揮された作品。
1〜3世紀の後漢時代に作成された、緑彩豚舎。文字通り、ブタ小屋と、そこに暮らしているブタが1つの陶器になっている。
人間の生活から出る残飯を食べ、人間の食料にもなるブタは、中国人にとって身近な動物だった。
ブタに限らず、この展覧会に展示されている作品が作成された時代は、表現された動物達は、身近な存在だったに違いない。
現代の都会に生きる人間にとっては、身近な動物といえば、カラス、スズメ、飼い犬、野良猫、くらいになってしまった。
この展覧会の題名を、動物園、と名付けていること時代が、現代における動物と人間の関係について、人間が大きな間違いを犯してるということを、よく表している。
絵画ではなく、陶器、香合、根付などの工芸品を中心に構成されているのが、この展覧会の特徴。時代も中国の後漢時代から現代までと多様。
ニワトリ、ウズラ、ガチョウ、カモなどの鳥。ゾウ、ライオン、タヌキ、ネコ、サルなどの獣。チョウ、カマキリ、クモ、セミなどの昆虫。カエル、エビ、アユ、キンギョなどの水辺の生き物などなど。まさに、動物園という名前もおおげさではない。
8世紀に作られた、ウマやラクダの唐三彩の存在感が際立っていた。隣には、そうした動物を縄で曵いている、ソグド人とおぼしき商人の像も立っている。
その一連の唐三彩は、すでにグローバリゼーションされていた8世紀の唐時代に、見ている者を、一気に連れて行ってしまう。
野々村仁清の白いサギの香炉、真っすぐに細い首を伸ばして、鳴いているように、上を向いている白サギを、あまり装飾せず、そのシルエットだけで見事に表現している。
同じく仁清の、色絵法螺貝香炉。地の土色の上に、青、赤、緑の山色で、法螺貝の表面をカラフルに彩っている。
白サギの鳴き声、法螺貝の音と、香合の香り。いずれの作品も、音と匂という2つの違った感覚を組み合わせた、仁清の職人としての感覚が、いかんなく発揮された作品。
1〜3世紀の後漢時代に作成された、緑彩豚舎。文字通り、ブタ小屋と、そこに暮らしているブタが1つの陶器になっている。
人間の生活から出る残飯を食べ、人間の食料にもなるブタは、中国人にとって身近な動物だった。
ブタに限らず、この展覧会に展示されている作品が作成された時代は、表現された動物達は、身近な存在だったに違いない。
現代の都会に生きる人間にとっては、身近な動物といえば、カラス、スズメ、飼い犬、野良猫、くらいになってしまった。
この展覧会の題名を、動物園、と名付けていること時代が、現代における動物と人間の関係について、人間が大きな間違いを犯してるということを、よく表している。
2013年7月20日土曜日
つきしま かるかや 素朴表現の絵巻と説話画(日本民藝館)
寡聞にも、この2つの絵巻のことは全く知らなかった。
つきしまは、平清盛が福原に都を築いた時に、人柱になった松王にまつわる伝説を描いた絵巻物。16世紀の室町時代に描かれた。
文字通り、その素朴な表現には、これなら自分にも、もっと上手く描けそうだ、と思えてくる。そして同時に、もっと上手くかけるかもしれないが、これほど素朴には描けそうもない、ということにも気がつかされる。
よく見てみると、筆先の細かさに眼を奪われる。色合いも、いろいろな色をつかっている。詞書の文字は、達筆だ。単に、素朴、という言葉だけではすまされない雰囲気を感じる。
もうひとつの、かるかや、という絵巻は、ある親子にまつわる、高野山や善通寺を舞台にした説話物語の絵巻物。こちらも、116世紀の室町時代に描かれた。
素朴さ、ということでいえば、こちらの方がより素朴といえるかもしれない。
考えてみれば、絵巻物に置ける絵は、物語の理解を助ける、というのが第一義であり、その意味が伝われば、上手い下手は問題ではない。
この2つの巻物以外にも、おおくの、素朴な表現の展示品が、館内のあちらこちらに、展示されていた。
16世紀の室町時代に描かれた、雀の発心絵巻。子供を失った雀が、世の中の無情を嘆き、やがって出家するという、御伽草子の外伝の話をものとにしている。
絵はそれほど素朴、といった感じではないが、雀たちが主人公、というのが、ほんわかした雰囲気を醸し出している。
鎌倉時代に書かれた、伝燈大法師位僧明。様々なお呪いの言葉を、絵入りで書き記したもの。絵と言うよりも、記号のような、眼の形や顔の形が、今風に言えば、きもかわゆく、描かれている。
現代のアートや、漫画においても、素朴に描かれているキャラクターなどはお馴染みだが、こうした絵巻物の作品などを見ると、ある意味で、伝統に根ざしているとも言える。
狩野派に代表される、洗練された、上流階級向けの美しい絵画の伝統とは別に、こうした素朴な、民衆に寄り添った絵画の伝統は、これからも生き続けていくに違いない。
つきしまは、平清盛が福原に都を築いた時に、人柱になった松王にまつわる伝説を描いた絵巻物。16世紀の室町時代に描かれた。
文字通り、その素朴な表現には、これなら自分にも、もっと上手く描けそうだ、と思えてくる。そして同時に、もっと上手くかけるかもしれないが、これほど素朴には描けそうもない、ということにも気がつかされる。
よく見てみると、筆先の細かさに眼を奪われる。色合いも、いろいろな色をつかっている。詞書の文字は、達筆だ。単に、素朴、という言葉だけではすまされない雰囲気を感じる。
もうひとつの、かるかや、という絵巻は、ある親子にまつわる、高野山や善通寺を舞台にした説話物語の絵巻物。こちらも、116世紀の室町時代に描かれた。
素朴さ、ということでいえば、こちらの方がより素朴といえるかもしれない。
考えてみれば、絵巻物に置ける絵は、物語の理解を助ける、というのが第一義であり、その意味が伝われば、上手い下手は問題ではない。
この2つの巻物以外にも、おおくの、素朴な表現の展示品が、館内のあちらこちらに、展示されていた。
16世紀の室町時代に描かれた、雀の発心絵巻。子供を失った雀が、世の中の無情を嘆き、やがって出家するという、御伽草子の外伝の話をものとにしている。
絵はそれほど素朴、といった感じではないが、雀たちが主人公、というのが、ほんわかした雰囲気を醸し出している。
鎌倉時代に書かれた、伝燈大法師位僧明。様々なお呪いの言葉を、絵入りで書き記したもの。絵と言うよりも、記号のような、眼の形や顔の形が、今風に言えば、きもかわゆく、描かれている。
現代のアートや、漫画においても、素朴に描かれているキャラクターなどはお馴染みだが、こうした絵巻物の作品などを見ると、ある意味で、伝統に根ざしているとも言える。
狩野派に代表される、洗練された、上流階級向けの美しい絵画の伝統とは別に、こうした素朴な、民衆に寄り添った絵画の伝統は、これからも生き続けていくに違いない。
特別展 生誕140周年記念 川合玉堂(山種美術館)
広尾の山種美術館で、特別展 生誕140周年記念 川合玉堂、が開催された。
山種美術館の収蔵作品を中心に、その生涯のほとんどすべてをカバーする作品が、多数展示された。
10代から20代にかけての写生帖。人物のスケッチや、江戸時代に書かれた京都の円山四条派の作品の模写など、いろいろなものが描かれている。
その頃には、すでに画家としての技術的な基礎は、完全にマスターされてるように見える。
川合玉堂は、はじめ京都の円山四条派に属していたが、橋本雅邦の絵に出会って衝撃を受け、その画風を変えていった。その後、日本美術院の創設にも関わっていく。
川合玉堂という名前を聞くと、すぐに思い浮かべるのは、細かい筆さばきと、淡い色調で描かれた、のどかな、典型的な日本の農村のイメージだが、そうした絵は、1930年代以降、本人が50才を越えてから描かれるようになった。
それらの作品には、水墨の山水画、円山応挙の細かい筆さばき、ヨーロッパの印象派などの風景画の構図など、川合玉堂が吸収したすべての要素が、少しづつ含まれているように見える。
朝晴、雨後山月、湖畔暮雪、残照、遠雷麦秋・・・。作品の名前を思い浮かべるだけで、絵の雰囲気が蘇ってくる。
絵の中には、山や畑、海の風景だけではなく、朝もや、雨の中で湿気を含んだ空気、山の遠くを見えなくする霞など、対象として描くのが困難なものが、見事に描かれている。
川合玉堂は、訪れた旅先の旅館や、知人達には、自ら描いた絵を、よく贈呈していたという。しかし、その名が広く知られるようになってからは、絵を描くこと以外の活動に多くの時間を割かれるようになった。
本人は、そのことをひどく憂いて、もっと時間があれば、もっと多くの人に、絵を書いてあげられるのに、と語っていたという。
そこにあるのは、日本絵画の巨匠の姿ではなく、何よりも絵を描くことが好きな、一人の少年の姿だ。
この国は、川合玉堂という画家を持ったことを、誇りに思っていい。玉堂が描いたものこそ、日本という存在そのものであるのだから。
山種美術館の収蔵作品を中心に、その生涯のほとんどすべてをカバーする作品が、多数展示された。
10代から20代にかけての写生帖。人物のスケッチや、江戸時代に書かれた京都の円山四条派の作品の模写など、いろいろなものが描かれている。
その頃には、すでに画家としての技術的な基礎は、完全にマスターされてるように見える。
川合玉堂は、はじめ京都の円山四条派に属していたが、橋本雅邦の絵に出会って衝撃を受け、その画風を変えていった。その後、日本美術院の創設にも関わっていく。
川合玉堂という名前を聞くと、すぐに思い浮かべるのは、細かい筆さばきと、淡い色調で描かれた、のどかな、典型的な日本の農村のイメージだが、そうした絵は、1930年代以降、本人が50才を越えてから描かれるようになった。
それらの作品には、水墨の山水画、円山応挙の細かい筆さばき、ヨーロッパの印象派などの風景画の構図など、川合玉堂が吸収したすべての要素が、少しづつ含まれているように見える。
朝晴、雨後山月、湖畔暮雪、残照、遠雷麦秋・・・。作品の名前を思い浮かべるだけで、絵の雰囲気が蘇ってくる。
絵の中には、山や畑、海の風景だけではなく、朝もや、雨の中で湿気を含んだ空気、山の遠くを見えなくする霞など、対象として描くのが困難なものが、見事に描かれている。
川合玉堂は、訪れた旅先の旅館や、知人達には、自ら描いた絵を、よく贈呈していたという。しかし、その名が広く知られるようになってからは、絵を描くこと以外の活動に多くの時間を割かれるようになった。
本人は、そのことをひどく憂いて、もっと時間があれば、もっと多くの人に、絵を書いてあげられるのに、と語っていたという。
そこにあるのは、日本絵画の巨匠の姿ではなく、何よりも絵を描くことが好きな、一人の少年の姿だ。
この国は、川合玉堂という画家を持ったことを、誇りに思っていい。玉堂が描いたものこそ、日本という存在そのものであるのだから。
2013年7月7日日曜日
夏目漱石の美術世界(東京藝術大学大学美術館)
夏目漱石の作品には、洋の東西を問わず、数多くの美術作品が登場する。そうした作品や、関連作を展示するという、ユニークな企画展が開催された。
漱石は、明治時代にロンドンに留学したが、当時のヨーロッパは世紀末芸術が盛んで、イギリスではラファエロ前派が活躍していた。
『草枕』という小説は、一人の若い画家が、理想の絵を描くことを求めて奮闘する、というこの展覧会にピッタリの内容。エヴァレット・ミレイのオフェーリアの絵も、作品に登場する。
漱石の死後、松岡映丘らが中心となって、その『草枕』の作品世界を何枚かの絵に仕立てた。その内の何枚かが、展示されていた。
漱石が見た作品が、『草枕』を生み出し、その『草枕』がそうした絵を生み出した。不思議な美術世界の連鎖を目の当りにした。
会場には、漱石の小説と、その小説に登場する作品そのもの、あるいはそれと想像される絵画が、漱石の小説の文章とともに展示されていた。
いかに、漱石の文学世界に、多くの芸術作品が取り込まれていたのかが、よくわかる。
小説に絵画を登場させ、読者にあるイメージを説明するのは、ある意味では小説家の怠慢とも言える。あるいは、漱石は、文章で伝えられることの限界を十分に知った上で、そうした技法を取ったのかもしれない。
漱石の作品の出版には、当時の多くの画家が装丁や挿絵を担当した。『吾輩は猫である』などの、美しい装丁の当時の本が、多数展示されていた。
美術作品と漱石の繋がりは、作品の中だけではなく、そうした外面にもよく表れている。
漱石は、宝生流の能を学んでいたようで、謡の稽古を生涯にわたり受けていたという。
また、書や文人画もよく書いた。会場には、いくつかの作品が展示されていた。今日から見ると、素人の域を超えているように見える。しかし、明治の上流階級の中では、そうしたことは、決して珍しくはなかっただろう。
漱石は、芸術について、それはあくまでも自己表現であり、他人や世間への影響は、意識されるべき物ではない、と書いている。それは、他人の芸術作品は勿論のこと、自分の小説のことも意識して書いたに、違いない。
漱石は、明治時代にロンドンに留学したが、当時のヨーロッパは世紀末芸術が盛んで、イギリスではラファエロ前派が活躍していた。
『草枕』という小説は、一人の若い画家が、理想の絵を描くことを求めて奮闘する、というこの展覧会にピッタリの内容。エヴァレット・ミレイのオフェーリアの絵も、作品に登場する。
漱石の死後、松岡映丘らが中心となって、その『草枕』の作品世界を何枚かの絵に仕立てた。その内の何枚かが、展示されていた。
漱石が見た作品が、『草枕』を生み出し、その『草枕』がそうした絵を生み出した。不思議な美術世界の連鎖を目の当りにした。
会場には、漱石の小説と、その小説に登場する作品そのもの、あるいはそれと想像される絵画が、漱石の小説の文章とともに展示されていた。
いかに、漱石の文学世界に、多くの芸術作品が取り込まれていたのかが、よくわかる。
小説に絵画を登場させ、読者にあるイメージを説明するのは、ある意味では小説家の怠慢とも言える。あるいは、漱石は、文章で伝えられることの限界を十分に知った上で、そうした技法を取ったのかもしれない。
漱石の作品の出版には、当時の多くの画家が装丁や挿絵を担当した。『吾輩は猫である』などの、美しい装丁の当時の本が、多数展示されていた。
美術作品と漱石の繋がりは、作品の中だけではなく、そうした外面にもよく表れている。
漱石は、宝生流の能を学んでいたようで、謡の稽古を生涯にわたり受けていたという。
また、書や文人画もよく書いた。会場には、いくつかの作品が展示されていた。今日から見ると、素人の域を超えているように見える。しかし、明治の上流階級の中では、そうしたことは、決して珍しくはなかっただろう。
漱石は、芸術について、それはあくまでも自己表現であり、他人や世間への影響は、意識されるべき物ではない、と書いている。それは、他人の芸術作品は勿論のこと、自分の小説のことも意識して書いたに、違いない。
2013年7月6日土曜日
やきものが好き、浮世絵も好き(根津美術館)
不思議な名前の展覧会だ。
根津美術館で開催された、この奇妙な名前の企画展は、山口県立萩美術館・浦上記念館の収蔵品を紹介するという企画。
この記念館のコレクションが、やきものと浮世絵が中心であるので、そのような名前になったのだろう。
しかし、会場に足を踏み入れたとたん、そうした奇妙な感じを忘れさせるほど、そのコレクション見事さに、唸ってしまった。
まずは、中国の陶磁器。紀元前3000年代の古代中国から、明代の景徳鎮にいたる、中国のやきものの歴史を概観できる。
紀元前3,300年頃のものと推定できる、底が尖った壷は、まるで、古代ギリシャのアンフォラの壷そっくり。
3世紀の西晋時代、越州窯で作られた大振りの壷。口の周りに、沢山の鳥が装飾されている。日本では、まだ卑弥呼の時代。
鮮やかな唐三彩の数々。唐という空前絶後な世界帝国の華やかさを、今に伝えている。
明代に景徳鎮で焼かれた白磁。珍しく緑色の彩色で、竜が鮮やかに白磁の上を泳いでいる。
続いては、朝鮮の陶器。
数点の高麗青磁。しばらく、その前を離れることができなかった。
翡翠のような緑色の地の上に、繊細な線で描かれた草花や鳥たち。その美しさは、文字通り、奇跡と言っていい。
最後は、浮世絵のコーナー。
奥村政信、鈴木春信、歌麿、写楽、鳥居清長、歌川国政、北斎、広重など、まさに、浮世絵の歴史を辿ることができた。
根津美術館で開催された、この奇妙な名前の企画展は、山口県立萩美術館・浦上記念館の収蔵品を紹介するという企画。
この記念館のコレクションが、やきものと浮世絵が中心であるので、そのような名前になったのだろう。
しかし、会場に足を踏み入れたとたん、そうした奇妙な感じを忘れさせるほど、そのコレクション見事さに、唸ってしまった。
まずは、中国の陶磁器。紀元前3000年代の古代中国から、明代の景徳鎮にいたる、中国のやきものの歴史を概観できる。
紀元前3,300年頃のものと推定できる、底が尖った壷は、まるで、古代ギリシャのアンフォラの壷そっくり。
3世紀の西晋時代、越州窯で作られた大振りの壷。口の周りに、沢山の鳥が装飾されている。日本では、まだ卑弥呼の時代。
鮮やかな唐三彩の数々。唐という空前絶後な世界帝国の華やかさを、今に伝えている。
明代に景徳鎮で焼かれた白磁。珍しく緑色の彩色で、竜が鮮やかに白磁の上を泳いでいる。
続いては、朝鮮の陶器。
数点の高麗青磁。しばらく、その前を離れることができなかった。
翡翠のような緑色の地の上に、繊細な線で描かれた草花や鳥たち。その美しさは、文字通り、奇跡と言っていい。
最後は、浮世絵のコーナー。
奥村政信、鈴木春信、歌麿、写楽、鳥居清長、歌川国政、北斎、広重など、まさに、浮世絵の歴史を辿ることができた。
浮世絵 第1期:浮世絵の黄金期−江戸のグラビア(三菱一号館美術館)
東京の三菱一号館美術館で開催された、浮世絵 Floating World 珠玉の斎藤コレクション、という企画展。
およそ3ヶ月の開催期間を3期に分けて、すべての作品を展示替えするという、野心的な取組で、浮世絵の全体像を紹介していた。
その第1期のテーマは、浮世絵の黄金期−江戸のグラビア。菱川師宣、鈴木春信らの浮世絵の誕生期から、歌麿、北斎、写楽、豊国など最盛期の作品まで、浮世絵の入門的な内容だった。
鈴木春信の美人画。顔の表情ではなく、着物や背景で女性の個性を表現する。一度見たら、二度と忘れられない、その強烈な女性のイメージ。少女の面影を残し、男性から見た女性の軽さ、冷たさ、を併せ持っていて、それでいて何とも言えず美しい。
歌麿といえば、大首の美人画が有名だが、珍しい、蚕から着物を織るまでの過程が、横長の画面に描かれた、珍しい浮世絵が展示されていた。勿論のこと、職人はすべて、美人たち。目を楽しませながら、知識を得ることができる、といったところか。
歌川豊国が、全国の各地にある玉川の景色を背景に、ぞれぞれ一人づつの役者を全身で描いた12枚つづきの作品。
豊国の絵の上手さもさることながら、ユニークな企画の勝利でもある。浮世絵が、版元、絵師、刷り師などの共同作業から成り立っている、ということがよくわかる。
所々に、ロートレックの版画が飾られていた。日本の浮世絵が、ヨーロッパに与えた影響を、文字通り、一目で実感できた。
残念だったことは、会場のあちらこちらに、スペースが散見されたこと。
3期に分けて、すべて総展示替えするということで、そうなってしまったのかもしれないが、全期間を通じて、一度しか訪れない人は、総展示替えせずに、どんな作品でもいいから、並べて欲しい、と思ってしまうだろう。
およそ3ヶ月の開催期間を3期に分けて、すべての作品を展示替えするという、野心的な取組で、浮世絵の全体像を紹介していた。
その第1期のテーマは、浮世絵の黄金期−江戸のグラビア。菱川師宣、鈴木春信らの浮世絵の誕生期から、歌麿、北斎、写楽、豊国など最盛期の作品まで、浮世絵の入門的な内容だった。
鈴木春信の美人画。顔の表情ではなく、着物や背景で女性の個性を表現する。一度見たら、二度と忘れられない、その強烈な女性のイメージ。少女の面影を残し、男性から見た女性の軽さ、冷たさ、を併せ持っていて、それでいて何とも言えず美しい。
歌麿といえば、大首の美人画が有名だが、珍しい、蚕から着物を織るまでの過程が、横長の画面に描かれた、珍しい浮世絵が展示されていた。勿論のこと、職人はすべて、美人たち。目を楽しませながら、知識を得ることができる、といったところか。
歌川豊国が、全国の各地にある玉川の景色を背景に、ぞれぞれ一人づつの役者を全身で描いた12枚つづきの作品。
豊国の絵の上手さもさることながら、ユニークな企画の勝利でもある。浮世絵が、版元、絵師、刷り師などの共同作業から成り立っている、ということがよくわかる。
所々に、ロートレックの版画が飾られていた。日本の浮世絵が、ヨーロッパに与えた影響を、文字通り、一目で実感できた。
残念だったことは、会場のあちらこちらに、スペースが散見されたこと。
3期に分けて、すべて総展示替えするということで、そうなってしまったのかもしれないが、全期間を通じて、一度しか訪れない人は、総展示替えせずに、どんな作品でもいいから、並べて欲しい、と思ってしまうだろう。
日本の書展(新国立美術館)
日本の書の各流派が、その垣根を超えて集結する、という日本の書展。新国立美術館の1階の半分ほどのスペースを使い、出展数は、1,500を超えていた。
書については、ほとんどといってほど、覚えがなく、その分、純粋に、様々な書の形を楽しむことができた。
草書、行書、楷書、といった言葉を当てはめながら、ブラブラと会場を回ったが、その多様さには、改めて、驚かされた。
鮮やかな色の色紙の上に書いた書。一字だけを、紙いっぱいに書いた書。わざと墨をぼかして書いた書。
法華経を巻物に書いたもの。古今和歌集や万葉集の歌を、巻物に、漢字あるいはかなで書いたもの。
定規で測ったように、上下真っ直ぐに書いたもの。自然と左に傾いてしまったもの。
明らかに、先人を真似したものもあれば、個性的な筆さばきを誇るものもある。
文字を組み合わせて絵のように仕立て、水墨画のように書いたもの。
文字は、始めは特別なもので、重要な記録などを記するために使われた。文字を書くということは、限られた人にだけ可能だった。文字を書け、読める人は、その時代のエリートだった。
現代のように、個人のプライベートな事柄を、文字を使って表す、などということは、そうした時代にあっては、考えられなれないことだった。
これほど多くの書が、その書いた人々の個性を表しながら、ただ展示される、ということ自体が、文字を取り巻く現代という時代の特徴を、よく表している。
書については、ほとんどといってほど、覚えがなく、その分、純粋に、様々な書の形を楽しむことができた。
草書、行書、楷書、といった言葉を当てはめながら、ブラブラと会場を回ったが、その多様さには、改めて、驚かされた。
鮮やかな色の色紙の上に書いた書。一字だけを、紙いっぱいに書いた書。わざと墨をぼかして書いた書。
法華経を巻物に書いたもの。古今和歌集や万葉集の歌を、巻物に、漢字あるいはかなで書いたもの。
定規で測ったように、上下真っ直ぐに書いたもの。自然と左に傾いてしまったもの。
明らかに、先人を真似したものもあれば、個性的な筆さばきを誇るものもある。
文字を組み合わせて絵のように仕立て、水墨画のように書いたもの。
文字は、始めは特別なもので、重要な記録などを記するために使われた。文字を書くということは、限られた人にだけ可能だった。文字を書け、読める人は、その時代のエリートだった。
現代のように、個人のプライベートな事柄を、文字を使って表す、などということは、そうした時代にあっては、考えられなれないことだった。
これほど多くの書が、その書いた人々の個性を表しながら、ただ展示される、ということ自体が、文字を取り巻く現代という時代の特徴を、よく表している。
2013年6月30日日曜日
ファインバーグ・コレクション展(江戸東京博物館)江戸絵画の奇跡
研究者同士であるという、アメリカのファインバーグ夫妻が、1970年代以降に収集した、江戸絵画を中心としたコレクションを展示した展覧会。
最初のコーナーは琳派。
会場の入り口で、俵屋宗達の虎図が、来場者を迎える。ユーモラスな虎だが、よくみると、細かい毛の一本一本を丹念に描いている部分もある。宗達の、軽さと繊細さを併せ持った特徴が、よく表れている。
鈴木其一の山並図小襖。遠くまで連なる山並みを、金箔と緑色の巧みなバランスで描いた、小品だが、琳派らしさが発揮された、素晴らしい作品。
続いては、文人画のコーナー。江戸時代の町人達は、明代や清代の中国で盛んになった文人の文化に大きな憧れを抱いていた。
池大雅の豊年多祥図。中国の古代の詩集、詩経の中の豊年という詩に描かれている世界を、3枚の掛け軸に仕立てたもの。農作物が豊作だったことを、天に感謝する、という内容の詩。大雅の描く世界は、薄い緑色が基調で、ほのぼのとした雰囲気が漂っており、まさしく理想郷のよう。
与謝蕪村の寒林山水図屏風。文人画には珍しく、金箔に黒い墨一色だけで描かれている。山奥にひっそりと佇む山荘に戻る、一人の文人の姿を、雄大な景色の中に、ポツンと描き、まさしく、文人の理想とする世界観が、そこには描かれている。
岡田米山人の蘭亭曲水図。王羲之の蘭亭序の主題による絵画だが、線と淡いパステル調の色を基調とした独特な世界観で、描かれている。
続いては、円山応挙に始まり、明治の竹内栖鳳にまで連なる京都代表する流派の円山四条派のコーナー。
円山応挙は、狩野派のもとで絵を学んでいたが、その形式的な手法に飽き足らず、より対象そのものをそのまま描く、写生を極めるようになっていった。江戸時代が成熟するに連れて、合理的な精神が生まれた来たのだろう。
布地に描かれた、鯉亀図風炉先屛風。応挙の得意な鯉。水の中を泳ぐ鯉を、その鱗の一枚一枚まで描いている。神業、ということばが、この絵にはピッタリする。
江戸時代の絵画ではないが、竹内栖鳳の死んだ鶴図。ヨーロッパを訪れて、西洋絵画に大きな影響を受けた栖鳳は、静物画の画題としてよく取り上げられる、吊るされた野鳥をヒントに、この絵を描いた。
おそらく、死んだ鶴をこのように吊るすことは、実際はないだろう。栖鳳らしい、ユーモアも感じられる。しかし、その技術力には、ただただ舌を巻くばかり。
4つ目のコーナーは、奇想派。まず、狩野山雪の山水画の屏風絵が、目に飛び込んできた。
遠くに高い山々が見え、湖の湖畔に、大きな屋敷が描かれている。題材は、伝統的な山水画だが、その表現はまさに奇想。岩山の表現などは、まるで、別な星の光景のように見え、SF映画の1シーンのようだ。
伊藤若冲、曾我蕭白などの作品もあった。長沢蘆雪の3幅の拾得・一笑・布袋図は、真ん中に、師匠の応挙譲りの愛くるしい子犬を挟んで、左に拾得、右に布袋を描いている。水墨画は、書の延長、といわれるが、それを証明するような、見事な筆さばきを楽しめる。
そして、最後のコーナーは、浮世絵。いわゆる版画の浮世絵ではなく、浮き世を描いた、という意味合いだが、菱川師宣、歌川豊国、葛飾北斎の絵などが並んでいた。
ファインバーグ夫妻は、日本語はほとんど分からないという。しかし、だからこそ、偏見に捕われず、ただ自分たちが美しいと感じた作品のみを購入してきたのだろう。
そのコレクションの質の高さは、この展覧会場を訪れた人は、誰でも納得するだろう。
最初のコーナーは琳派。
会場の入り口で、俵屋宗達の虎図が、来場者を迎える。ユーモラスな虎だが、よくみると、細かい毛の一本一本を丹念に描いている部分もある。宗達の、軽さと繊細さを併せ持った特徴が、よく表れている。
鈴木其一の山並図小襖。遠くまで連なる山並みを、金箔と緑色の巧みなバランスで描いた、小品だが、琳派らしさが発揮された、素晴らしい作品。
続いては、文人画のコーナー。江戸時代の町人達は、明代や清代の中国で盛んになった文人の文化に大きな憧れを抱いていた。
池大雅の豊年多祥図。中国の古代の詩集、詩経の中の豊年という詩に描かれている世界を、3枚の掛け軸に仕立てたもの。農作物が豊作だったことを、天に感謝する、という内容の詩。大雅の描く世界は、薄い緑色が基調で、ほのぼのとした雰囲気が漂っており、まさしく理想郷のよう。
与謝蕪村の寒林山水図屏風。文人画には珍しく、金箔に黒い墨一色だけで描かれている。山奥にひっそりと佇む山荘に戻る、一人の文人の姿を、雄大な景色の中に、ポツンと描き、まさしく、文人の理想とする世界観が、そこには描かれている。
岡田米山人の蘭亭曲水図。王羲之の蘭亭序の主題による絵画だが、線と淡いパステル調の色を基調とした独特な世界観で、描かれている。
続いては、円山応挙に始まり、明治の竹内栖鳳にまで連なる京都代表する流派の円山四条派のコーナー。
円山応挙は、狩野派のもとで絵を学んでいたが、その形式的な手法に飽き足らず、より対象そのものをそのまま描く、写生を極めるようになっていった。江戸時代が成熟するに連れて、合理的な精神が生まれた来たのだろう。
布地に描かれた、鯉亀図風炉先屛風。応挙の得意な鯉。水の中を泳ぐ鯉を、その鱗の一枚一枚まで描いている。神業、ということばが、この絵にはピッタリする。
江戸時代の絵画ではないが、竹内栖鳳の死んだ鶴図。ヨーロッパを訪れて、西洋絵画に大きな影響を受けた栖鳳は、静物画の画題としてよく取り上げられる、吊るされた野鳥をヒントに、この絵を描いた。
おそらく、死んだ鶴をこのように吊るすことは、実際はないだろう。栖鳳らしい、ユーモアも感じられる。しかし、その技術力には、ただただ舌を巻くばかり。
4つ目のコーナーは、奇想派。まず、狩野山雪の山水画の屏風絵が、目に飛び込んできた。
遠くに高い山々が見え、湖の湖畔に、大きな屋敷が描かれている。題材は、伝統的な山水画だが、その表現はまさに奇想。岩山の表現などは、まるで、別な星の光景のように見え、SF映画の1シーンのようだ。
伊藤若冲、曾我蕭白などの作品もあった。長沢蘆雪の3幅の拾得・一笑・布袋図は、真ん中に、師匠の応挙譲りの愛くるしい子犬を挟んで、左に拾得、右に布袋を描いている。水墨画は、書の延長、といわれるが、それを証明するような、見事な筆さばきを楽しめる。
そして、最後のコーナーは、浮世絵。いわゆる版画の浮世絵ではなく、浮き世を描いた、という意味合いだが、菱川師宣、歌川豊国、葛飾北斎の絵などが並んでいた。
ファインバーグ夫妻は、日本語はほとんど分からないという。しかし、だからこそ、偏見に捕われず、ただ自分たちが美しいと感じた作品のみを購入してきたのだろう。
そのコレクションの質の高さは、この展覧会場を訪れた人は、誰でも納得するだろう。
華麗なるインド(三鷹市美術ギャラリー)
インドのミニチュアール、細密画は、11〜13世紀に描かれた仏教経典に付けれた挿画が、その起源であるという。
展示されていた、13世紀のネパールの仏教挿画は、現代から見ると、稚拙で素朴だが、当時の人々は、そうした挿画の中に、自らが信じる仏の姿を見たのだろう。
イスラム教のムガール帝国が成立すると、その強力な権力の元で、美しく華麗なミニチュアールが描かれるようになった。
そこに描かれたのは、アウランゼーブらのムガル帝国の皇帝たちやその美しい后、あるいは、ヒンドゥー教のクリシュナなどの主要な神々だった。
また、ジャイプールなどのラジャスタン地方でも、その地を収めるマハラジャの元で、独自のスタイルを持つミニチュアールが描かれるようになった。
こちらも、マハラジャの狩りの様子、美しい宮廷の女性、などが描かれているが、中には、不思議なテーマの絵もある。
盲目の女性が、花火をしている、というミニチュアール。何かの教訓か、宗教の教えを表現しているのだろうか?よくわからないが、その美しいイメージは、心に深い印象を刻む。
画家達は、優秀である画家ほど、他の地方のマハラジャに奪われることを恐れ、マハラジャによって、その手首を切られたという。まさに、手首を切られ、その手首から、ポタポタと血が流れる絵が展示されていた。
インドの画家たちにとって、絵を描くことは、文字通り、命がけだった。
18世紀後半から19世紀にかけて、カングラ派という流派の画家によって描かれたといわれる、恋人を想う女、という細密画。一人の女性が、両手を頭の上に掲げ、恋人を想って、踊りを踊っている。
私がかつて目にした絵の中でも、最も美しい絵の一つだろう。
展示の後半は、インドの染物や織物などの展示だった。
インドの染物は、沖縄の紅型や、京都の友禅染の元になった。俗にインド更紗といわれるインドの繊維製品は、日本に大きな影響を与えた。
また、インドの木綿製品は、ヨーロッパ人を虜にし、その複製を作るための努力の過程で、イギリスの産業革命が起こったといわれている。
会場には、色鮮やかで、様々な素材、様々な文様の繊維製品が展示されていた。
将来は、中国を追い抜いて、世界最大の経済大国になるといわれているインドだが、その背景には、長い年月の中で蓄積されてきた、そうした高い技術力がある。
展示されていた、13世紀のネパールの仏教挿画は、現代から見ると、稚拙で素朴だが、当時の人々は、そうした挿画の中に、自らが信じる仏の姿を見たのだろう。
イスラム教のムガール帝国が成立すると、その強力な権力の元で、美しく華麗なミニチュアールが描かれるようになった。
そこに描かれたのは、アウランゼーブらのムガル帝国の皇帝たちやその美しい后、あるいは、ヒンドゥー教のクリシュナなどの主要な神々だった。
また、ジャイプールなどのラジャスタン地方でも、その地を収めるマハラジャの元で、独自のスタイルを持つミニチュアールが描かれるようになった。
こちらも、マハラジャの狩りの様子、美しい宮廷の女性、などが描かれているが、中には、不思議なテーマの絵もある。
盲目の女性が、花火をしている、というミニチュアール。何かの教訓か、宗教の教えを表現しているのだろうか?よくわからないが、その美しいイメージは、心に深い印象を刻む。
画家達は、優秀である画家ほど、他の地方のマハラジャに奪われることを恐れ、マハラジャによって、その手首を切られたという。まさに、手首を切られ、その手首から、ポタポタと血が流れる絵が展示されていた。
インドの画家たちにとって、絵を描くことは、文字通り、命がけだった。
18世紀後半から19世紀にかけて、カングラ派という流派の画家によって描かれたといわれる、恋人を想う女、という細密画。一人の女性が、両手を頭の上に掲げ、恋人を想って、踊りを踊っている。
私がかつて目にした絵の中でも、最も美しい絵の一つだろう。
展示の後半は、インドの染物や織物などの展示だった。
インドの染物は、沖縄の紅型や、京都の友禅染の元になった。俗にインド更紗といわれるインドの繊維製品は、日本に大きな影響を与えた。
また、インドの木綿製品は、ヨーロッパ人を虜にし、その複製を作るための努力の過程で、イギリスの産業革命が起こったといわれている。
会場には、色鮮やかで、様々な素材、様々な文様の繊維製品が展示されていた。
将来は、中国を追い抜いて、世界最大の経済大国になるといわれているインドだが、その背景には、長い年月の中で蓄積されてきた、そうした高い技術力がある。
2013年6月29日土曜日
写真のエステ 五つのエレメント(東京都写真美術館)
東京都写真美術館の平成25年度のコレクション展が、3回に分けて行われる。第1回目は、五つのエレメント、と題して行われた。
この展覧会のパンフレットに書かれていた、次の文章を見て驚いた。”(29,000展の作品の中から)企画者である私が感じている写真の美の在り方を選び取り、五つのエレメントに分けて紹介します。”
展覧会のパンフレットにおいて、これほど企画者が全面に出ることは珍しい。通常は、展示作品の価値を語るのが普通だが。この展覧会の企画者は、自分のことを、神のようにでも考えているようだ。
さて、その小さな施設の神による展示内容とは、いかがなものだったのか。
会場は、この展覧会のタイトル通り、五つのコーナーに分けて展示されていた。
最初のコーナーは、光。光、そして暗闇のコントラストを上手く使った作品が展示されていた。
川内倫子の作品が、区切られた一角の白い壁に、一見無造作な配置で展示されていた。写真は、写す人間の視点、感性によって、いかに大きな違いができるのか、ということを、実によく表している。
次のコーナーは、反映。写真自体が、被写体を写す物だが、被写体の中に、別な風景画が反射していると、さらに奥行きを感じさせる。
アンリ・カルティエ=ブレッソンのサン・ラザール駅裏という作品では、地上にできた水たまりに、風景画鮮やかに反射している。
続いての3番目のコーナーは、表層。写真は、絵画では表現に限界のある、物の表面の細かい部分も、克明に写し取ることができる。
アンセル・アダムスのヨセミテ渓谷を撮影した作品群。何の説明も、解説も入らない。自然の造形が、そのままこちらに迫ってくる。それは、言葉で説明しても仕切れないだろう。
4つ目のコーナーは、喪失感。雑賀雄二が軍艦島の様子を写した作品は、写真というメディアが持っている、記録という側面と、同時に、単なる記録ではない、いわゆるノスタルジーという感情を心に生み出す、不思議な効果を思い起こさせる。
クリスチャン・ボルタンスキーのシャス高等学校という作品。パリに暮らしていた頃の、高校時代の同級生たちの顔のアップを、わざとピンぼけにしてプリントしたもの。壁一面に展示されていた。
彼らは、その後、ナチスによるユダヤ人狩りを経験することになるのだが、ボルタンスキーは、彼らのその後の消息を全く知らないという。
最後のコーナーは、参照。森村泰昌がピカソやチェに扮した写真と、そのオリジナルの作品が並べて展示されていた。
文章、絵画、などの分野でも、過去の作品を参照、引用することはある。写真において、参照とは、どのようなことを意味するのか。あるいは、どんなことができるのか。
コレクション展の2回目は、写真作品のつくりかた、と題して開催されるようだ。
この展覧会のパンフレットに書かれていた、次の文章を見て驚いた。”(29,000展の作品の中から)企画者である私が感じている写真の美の在り方を選び取り、五つのエレメントに分けて紹介します。”
展覧会のパンフレットにおいて、これほど企画者が全面に出ることは珍しい。通常は、展示作品の価値を語るのが普通だが。この展覧会の企画者は、自分のことを、神のようにでも考えているようだ。
さて、その小さな施設の神による展示内容とは、いかがなものだったのか。
会場は、この展覧会のタイトル通り、五つのコーナーに分けて展示されていた。
最初のコーナーは、光。光、そして暗闇のコントラストを上手く使った作品が展示されていた。
川内倫子の作品が、区切られた一角の白い壁に、一見無造作な配置で展示されていた。写真は、写す人間の視点、感性によって、いかに大きな違いができるのか、ということを、実によく表している。
次のコーナーは、反映。写真自体が、被写体を写す物だが、被写体の中に、別な風景画が反射していると、さらに奥行きを感じさせる。
アンリ・カルティエ=ブレッソンのサン・ラザール駅裏という作品では、地上にできた水たまりに、風景画鮮やかに反射している。
続いての3番目のコーナーは、表層。写真は、絵画では表現に限界のある、物の表面の細かい部分も、克明に写し取ることができる。
アンセル・アダムスのヨセミテ渓谷を撮影した作品群。何の説明も、解説も入らない。自然の造形が、そのままこちらに迫ってくる。それは、言葉で説明しても仕切れないだろう。
4つ目のコーナーは、喪失感。雑賀雄二が軍艦島の様子を写した作品は、写真というメディアが持っている、記録という側面と、同時に、単なる記録ではない、いわゆるノスタルジーという感情を心に生み出す、不思議な効果を思い起こさせる。
クリスチャン・ボルタンスキーのシャス高等学校という作品。パリに暮らしていた頃の、高校時代の同級生たちの顔のアップを、わざとピンぼけにしてプリントしたもの。壁一面に展示されていた。
彼らは、その後、ナチスによるユダヤ人狩りを経験することになるのだが、ボルタンスキーは、彼らのその後の消息を全く知らないという。
最後のコーナーは、参照。森村泰昌がピカソやチェに扮した写真と、そのオリジナルの作品が並べて展示されていた。
文章、絵画、などの分野でも、過去の作品を参照、引用することはある。写真において、参照とは、どのようなことを意味するのか。あるいは、どんなことができるのか。
コレクション展の2回目は、写真作品のつくりかた、と題して開催されるようだ。
大谷コレクション展(ニューオータニ美術館)
ニューオータニ美術館で開かれた大谷コレクション展では、現代フランスの画家や、川合玉堂や竹内栖鳳などの幅広い作品を楽しむことができた。
アンドレ・コボタの赤いバラのブーケなどの4つの作品。鮮やかな色の絵の具が、極端なくらいの厚塗りで、キャンバスいっぱいに敷きつめられている。一目見た瞬間に、強烈な印象を心に残す。
惜しくも昨年に亡くなったコボタは、同じような圧塗りの画法のスーチンに大きな影響を受けたという。しかし、その色使いは、スーチンよりは、もっと明るい。
日本の武道にも、親しみを感じており、富士山を描いた作品もあるという。
1927年生まれのクロード・ワイズバッシュ。オークルと黒だけを使って、躍動感のある作品を描いている。肖像という作品は、男性の顔を描いているが、まるで、顔を激しく左右に振っているように、わざとぼかして描いている。
どの技法は、写真のピンボケをそのまま表現したと言われる、ベーコンの肖像画を連想させる。
ブラマンクの、橋のある風景、などの4つの小品が、並べて展示されていた。久し振りに、ブラマンクの作品を見た。
花束という作品では、灰色と暗い青で、花束を描いている。赤や黄色と言った、鮮やかな色を全く使わず、花束を描くあたりが、実にブラマンクらしい。
竹内栖鳳の富嶽(夏)。富士山の姿を、さっと描いた小品で、描かれた時期もわからない。山頂の稜線を、黒い線で、その先のなだらかな山線を、薄いピンクで描いている。
その作品に対するように、反対側に展示されていた、川合玉堂の、松浦漁家、というこちらも小品。栖鳳ほど簡素ではないが、こちらも最低限の線と色で、海沿いの集落を描いている。
丹念に描かれた大作も見応えがあるが、こうした小品も、味わいがあって良い。
アンドレ・コボタの赤いバラのブーケなどの4つの作品。鮮やかな色の絵の具が、極端なくらいの厚塗りで、キャンバスいっぱいに敷きつめられている。一目見た瞬間に、強烈な印象を心に残す。
惜しくも昨年に亡くなったコボタは、同じような圧塗りの画法のスーチンに大きな影響を受けたという。しかし、その色使いは、スーチンよりは、もっと明るい。
日本の武道にも、親しみを感じており、富士山を描いた作品もあるという。
1927年生まれのクロード・ワイズバッシュ。オークルと黒だけを使って、躍動感のある作品を描いている。肖像という作品は、男性の顔を描いているが、まるで、顔を激しく左右に振っているように、わざとぼかして描いている。
どの技法は、写真のピンボケをそのまま表現したと言われる、ベーコンの肖像画を連想させる。
ブラマンクの、橋のある風景、などの4つの小品が、並べて展示されていた。久し振りに、ブラマンクの作品を見た。
花束という作品では、灰色と暗い青で、花束を描いている。赤や黄色と言った、鮮やかな色を全く使わず、花束を描くあたりが、実にブラマンクらしい。
竹内栖鳳の富嶽(夏)。富士山の姿を、さっと描いた小品で、描かれた時期もわからない。山頂の稜線を、黒い線で、その先のなだらかな山線を、薄いピンクで描いている。
その作品に対するように、反対側に展示されていた、川合玉堂の、松浦漁家、というこちらも小品。栖鳳ほど簡素ではないが、こちらも最低限の線と色で、海沿いの集落を描いている。
丹念に描かれた大作も見応えがあるが、こうした小品も、味わいがあって良い。
2013年6月23日日曜日
特集 墨蹟(鎌倉国宝館)
鎌倉国宝館にて、おなじ鎌倉にある常磐山文庫の70周年を記念して、墨蹟という名の名品展が開かれた。
無準師範は、南宋時代の禅の高僧で、日本に来日した円爾、無学祖元ら多くの弟子を育てたことで知られ、そのため、日本でもその名がよく知られている。
大きな字で、2文字、縦に、巡堂、と書かれている。これから、無準師範が、堂を巡るぞ、という自ら書いた知らせの意味があるらしい。
最初の巡、という字に比べて、下の堂は、太く、どっしりと書かれている。堂という修行の場所に対する、無準師範の思いが、よく表れている。
この書は、弟子を通じて日本にもたらされ、やがて、禅とともに発展した茶の世界において、茶席に据えられる掛軸として、珍重されるようになった。
無準師範の弟子にあたり、鎌倉の建長寺の開祖となった蘭渓道隆の書。執権となったばかりの、北条時宗の法会において、治世の安泰を祈願したもの。
本来、禅とは、修行する個人の悟りを目指すべきはずのものだが、その影響が広まるに連れて、時の権力との結びつきを強めていった。
とくに、日本にとっては、禅は単なる宗教ではなく、先進国家である宋や元の文化を象徴する存在だった。
円覚寺の開祖となった無学祖元の墨蹟。旧暦の重陽の節句に訪れた友人をもてなした時に書いたもの。無学祖元は、南宋の滅亡後、日本に帰化した。
一字一字が、丁寧に、端整に書かれており、書いた人物の人柄が、よく伝わってくる。
時代が少し下り、千利休が、知人に当てた手紙。横長で茶室には飾りにくい、馮子振の墨蹟を切った方が良いか相談され、それに対して、切らずにそのままにするようにアドバイスしている。
その馮子振の墨蹟も、あわせて展示されていた。今日まで伝わる茶というものが、その創成期においては、いかに千利休という人物の影響力が大きかったかが伺える。
ちょうど、この時期、富士山が世界遺産に登録され、鎌倉は、その選からもれたことが、ニュースになっていた。
しかし、この日の鎌倉は、大勢の人がおしかけ、人気の江ノ電は、鎌倉駅で30分待ちの行列ができていた。
無準師範は、南宋時代の禅の高僧で、日本に来日した円爾、無学祖元ら多くの弟子を育てたことで知られ、そのため、日本でもその名がよく知られている。
大きな字で、2文字、縦に、巡堂、と書かれている。これから、無準師範が、堂を巡るぞ、という自ら書いた知らせの意味があるらしい。
最初の巡、という字に比べて、下の堂は、太く、どっしりと書かれている。堂という修行の場所に対する、無準師範の思いが、よく表れている。
この書は、弟子を通じて日本にもたらされ、やがて、禅とともに発展した茶の世界において、茶席に据えられる掛軸として、珍重されるようになった。
無準師範の弟子にあたり、鎌倉の建長寺の開祖となった蘭渓道隆の書。執権となったばかりの、北条時宗の法会において、治世の安泰を祈願したもの。
本来、禅とは、修行する個人の悟りを目指すべきはずのものだが、その影響が広まるに連れて、時の権力との結びつきを強めていった。
とくに、日本にとっては、禅は単なる宗教ではなく、先進国家である宋や元の文化を象徴する存在だった。
円覚寺の開祖となった無学祖元の墨蹟。旧暦の重陽の節句に訪れた友人をもてなした時に書いたもの。無学祖元は、南宋の滅亡後、日本に帰化した。
一字一字が、丁寧に、端整に書かれており、書いた人物の人柄が、よく伝わってくる。
時代が少し下り、千利休が、知人に当てた手紙。横長で茶室には飾りにくい、馮子振の墨蹟を切った方が良いか相談され、それに対して、切らずにそのままにするようにアドバイスしている。
その馮子振の墨蹟も、あわせて展示されていた。今日まで伝わる茶というものが、その創成期においては、いかに千利休という人物の影響力が大きかったかが伺える。
ちょうど、この時期、富士山が世界遺産に登録され、鎌倉は、その選からもれたことが、ニュースになっていた。
しかし、この日の鎌倉は、大勢の人がおしかけ、人気の江ノ電は、鎌倉駅で30分待ちの行列ができていた。
2013年6月22日土曜日
北斎と暁斎 奇想の漫画(太田記念美術館)
浮世絵ファンにとっては、聖地とも言える、浮世絵太田記念美術館で、北斎と暁斎 奇想の漫画、という名の展覧会が開催された。
葛飾北斎と河鍋暁斎という、浮世絵師の中でも、とりわけ個性的な二人を取り上げ、その奇想から生まれた、作品の数々を紹介するもの。
海外に、この二人が初めて紹介された頃は、北斎と暁斎は師弟関係にあったと紹介されたという。
暁斎は北斎を尊敬し、一目を置いていたが、直接の師弟関係にはなかった。しかし、この展覧会を見ると、西欧人に、そのように誤解されるのも、無理のないようにも思えた。
二人の共通する要素の一つは、その躍動感だろう。歌麿や広重は、静的なイメージがあるが、北斎の絵にも、暁斎の絵にも、まさにその瞬間を切り取ったような躍動感が、絵の中に感じられる。
北斎漫画の、人物の描写を見ると、どのようなポーズ、表情を描けば、動きのある絵が描けるのか、北斎が研究し尽くし、完全に自分のものにしていたことがわかる。
一方の暁斎も、『暁斎鈍画』という『北斎漫画』を多分に意識した画集の中で、同じようにいろいろな人々の動きのスケッチを描いている。
暁斎の絵には、ガイコツがよく登場する。それは、ガイコツそのものの、絵としての奇抜さ、面白さもあるが、人間を描く際に、その骨格を意識していた、という背景もある。
暁斎の生きた時代は、幕末から明治にかけての開国の時代でもあった。ヨーロッパの絵画技法の影響もあったのかもしれない。
その二人の肉体表現へのこだわりは、フランシス・ベーコンが、人体写真を多く撮影していた、ということを思い出させた。
北斎と暁斎の奇想ぶりを最もよく表したのが、妖怪絵だろう。
ハッキリ言って、二人の描く妖怪は、決して怖くは亡い。むしろ、ユーモラスで、思わず頬が緩んでしまう。
暁斎の有名な百鬼画談は、今回初めて目にすることができた。伝統的な百鬼画談の伝統を踏まえつつ、個々の要素に、暁斎らしさが、ふんだんに盛り込まれている。
北斎も暁斎も、こうした奇想の絵ばかりを書いていたわけではない。いわゆる正統的な多くの作品も描いている。
世界的に見ても、これほど多様な絵画世界を築き上げた画家は、他にあまり見当たらない。
私は、北斎こそが、世界で最も偉大な画家だと思っているが、その思いを、また強くした展覧会であった。
葛飾北斎と河鍋暁斎という、浮世絵師の中でも、とりわけ個性的な二人を取り上げ、その奇想から生まれた、作品の数々を紹介するもの。
海外に、この二人が初めて紹介された頃は、北斎と暁斎は師弟関係にあったと紹介されたという。
暁斎は北斎を尊敬し、一目を置いていたが、直接の師弟関係にはなかった。しかし、この展覧会を見ると、西欧人に、そのように誤解されるのも、無理のないようにも思えた。
二人の共通する要素の一つは、その躍動感だろう。歌麿や広重は、静的なイメージがあるが、北斎の絵にも、暁斎の絵にも、まさにその瞬間を切り取ったような躍動感が、絵の中に感じられる。
北斎漫画の、人物の描写を見ると、どのようなポーズ、表情を描けば、動きのある絵が描けるのか、北斎が研究し尽くし、完全に自分のものにしていたことがわかる。
一方の暁斎も、『暁斎鈍画』という『北斎漫画』を多分に意識した画集の中で、同じようにいろいろな人々の動きのスケッチを描いている。
暁斎の絵には、ガイコツがよく登場する。それは、ガイコツそのものの、絵としての奇抜さ、面白さもあるが、人間を描く際に、その骨格を意識していた、という背景もある。
暁斎の生きた時代は、幕末から明治にかけての開国の時代でもあった。ヨーロッパの絵画技法の影響もあったのかもしれない。
その二人の肉体表現へのこだわりは、フランシス・ベーコンが、人体写真を多く撮影していた、ということを思い出させた。
北斎と暁斎の奇想ぶりを最もよく表したのが、妖怪絵だろう。
ハッキリ言って、二人の描く妖怪は、決して怖くは亡い。むしろ、ユーモラスで、思わず頬が緩んでしまう。
暁斎の有名な百鬼画談は、今回初めて目にすることができた。伝統的な百鬼画談の伝統を踏まえつつ、個々の要素に、暁斎らしさが、ふんだんに盛り込まれている。
北斎も暁斎も、こうした奇想の絵ばかりを書いていたわけではない。いわゆる正統的な多くの作品も描いている。
世界的に見ても、これほど多様な絵画世界を築き上げた画家は、他にあまり見当たらない。
私は、北斎こそが、世界で最も偉大な画家だと思っているが、その思いを、また強くした展覧会であった。
ユトリロ展(日本橋高島屋)
何故か、昔から、ユトリロの絵が好きだった。
ユトリロは、決して、美術史にその名が燦然と輝くような画家ではない。
それでも、ベル・エポックの時代をテーマにした展覧会においては、必ず何点かの作品を目にするという、不思議な画家だ。
日本橋高島屋で開催された展覧会で、ユトリロの作品を、70点ほど楽しむことができた。
どの絵を見ても、いわゆる、ユトリロらしい絵だった。
ユトリロは、晩年こそ、体力の衰えからかやや雑になったが、ほぼ生涯を通じて、同じような風景を、同じような技法で描き続けた。
パリの街並を描くことが好きだった、ということもあるだろうが、ユトリロの保護者が、それを望んだ、という背景もあった。
幼い頃は、母親のシュザンヌ・ヴァラドンと、ユトリロとは血のつながりのない父によって、お金を得る為に、ユトリロは絵を書かされていた。
自身が結婚してからも、その妻によって、やはり生活の為に、絵を書くように強制されていた。
しかし、そうして書かれた絵は、まるで時間が止まったか、ゆっくりと進んでいるような、不思議な雰囲気を漂わせる、優しい絵に仕上がっている。
小さな聖体拝受者、トルシー=アン=ヴァロアの教会(エヌ県)、という作品では、白くて小さな、どこにでもあるような教会が描かれている。
白といっても、入り口付近の壁の白と、時計のある尖塔部分の白は、同じ白ではない。微妙な絵の具の混ぜ具合で、描き分けられている。
よくよく見ると、その絵の中には、一つとして、同じ白で描かれた教会の外壁はない。どれも、微妙な違いを見せている。
この世に、まったく同じ物など、何一つない、とユトリロは、この絵を通して語っているようだ。
父親が誰か分からず生まれ、病弱で気弱であったことから、絵描きにさせられた少年は、意外にも、72才で亡くなるまで、絶えず絵を描き続け、その作品は6,000点を超えるという。
この展覧会で、私は、どうしてこれほど、この画家の絵を愛するのか、その訳が、少しは分かったような気がした。
ユトリロは、決して、美術史にその名が燦然と輝くような画家ではない。
それでも、ベル・エポックの時代をテーマにした展覧会においては、必ず何点かの作品を目にするという、不思議な画家だ。
日本橋高島屋で開催された展覧会で、ユトリロの作品を、70点ほど楽しむことができた。
どの絵を見ても、いわゆる、ユトリロらしい絵だった。
ユトリロは、晩年こそ、体力の衰えからかやや雑になったが、ほぼ生涯を通じて、同じような風景を、同じような技法で描き続けた。
パリの街並を描くことが好きだった、ということもあるだろうが、ユトリロの保護者が、それを望んだ、という背景もあった。
幼い頃は、母親のシュザンヌ・ヴァラドンと、ユトリロとは血のつながりのない父によって、お金を得る為に、ユトリロは絵を書かされていた。
自身が結婚してからも、その妻によって、やはり生活の為に、絵を書くように強制されていた。
しかし、そうして書かれた絵は、まるで時間が止まったか、ゆっくりと進んでいるような、不思議な雰囲気を漂わせる、優しい絵に仕上がっている。
小さな聖体拝受者、トルシー=アン=ヴァロアの教会(エヌ県)、という作品では、白くて小さな、どこにでもあるような教会が描かれている。
白といっても、入り口付近の壁の白と、時計のある尖塔部分の白は、同じ白ではない。微妙な絵の具の混ぜ具合で、描き分けられている。
よくよく見ると、その絵の中には、一つとして、同じ白で描かれた教会の外壁はない。どれも、微妙な違いを見せている。
この世に、まったく同じ物など、何一つない、とユトリロは、この絵を通して語っているようだ。
父親が誰か分からず生まれ、病弱で気弱であったことから、絵描きにさせられた少年は、意外にも、72才で亡くなるまで、絶えず絵を描き続け、その作品は6,000点を超えるという。
この展覧会で、私は、どうしてこれほど、この画家の絵を愛するのか、その訳が、少しは分かったような気がした。
2013年6月16日日曜日
5 Rooms 彫刻/オブジェ/立体(川村記念美術館)
千葉の佐倉にある川村記念美術館。2013年度は、普段は展示していない作品を中心に、3期に分けて収蔵品展が行われる。
その第1回目は、5 Rooms 彫刻/オブジェ/立体、と題して、文字通り、彫刻やオブジェを、普段は企画展用に使われるスペースを5つの部屋に区切って、展示を行った。
ロダンの作品が置かれたRoom2を中心に、4つに部屋が取り巻いており、どの部屋にいくにも、必ずその部屋を通らなければならない、という凝った構成だった。
全体の展示の中心とも言えるロダンの作品は、それほど大きくはないが、3人の人物が、絡み合って、一見すると、丸い一つの物質のように見える、という興味深いもの。彫刻とは何か、人体とは何か、とその部屋を通るたびに問いかけてくる。
Room3は、マン・レイの”だまし卵”という作品が、圧倒的な存在感を誇っている。ガチョウの大きな卵の写真の上に、それを取り囲むように、便座のオブジェが置かれている。便座が立体的なため、目の錯覚で、卵も立体的に見えるが、近づいてみると、それが写真であることがわかる。
その他にも、身の回りの品々を使ったマン・レイのオブジェが何点か置かれている。人を喰ったように思わせて、普段は見慣れているものが、アートと呼ばれただけで、違うものように見えてしまう、というマン・レイの魔術が、その部屋には充満していた。
Room4は、カルダーのモビール作品が中心。作品にできるだけ近づいて、息を思いっきり吹きかける。すると、微妙に、そのモビールが動いた。何となく、自分と作品の距離が近づいた気がした。
彫刻やオブジェは、どの作品も、物である、というだけで、絵画とはまるで違った存在感を感じさせる。
その周りを、ぐるぐると回ってみると、その一瞬一瞬で、作品の見え方が違ってくる。
自分の身の回りのあるものが、どうしてアート作品のように見えないのか。その一方で、そうしたアート作品が感じさせる、物としての不自然さ、陳腐さは、どこから来るのか。
美術館を出たあとに迎えてくれる、白鳥がたわむれる大きな噴水のある池と、その周りにある森の緑に囲まれながら、そんな余計なことごとを、考えさせられた。
その第1回目は、5 Rooms 彫刻/オブジェ/立体、と題して、文字通り、彫刻やオブジェを、普段は企画展用に使われるスペースを5つの部屋に区切って、展示を行った。
ロダンの作品が置かれたRoom2を中心に、4つに部屋が取り巻いており、どの部屋にいくにも、必ずその部屋を通らなければならない、という凝った構成だった。
全体の展示の中心とも言えるロダンの作品は、それほど大きくはないが、3人の人物が、絡み合って、一見すると、丸い一つの物質のように見える、という興味深いもの。彫刻とは何か、人体とは何か、とその部屋を通るたびに問いかけてくる。
Room3は、マン・レイの”だまし卵”という作品が、圧倒的な存在感を誇っている。ガチョウの大きな卵の写真の上に、それを取り囲むように、便座のオブジェが置かれている。便座が立体的なため、目の錯覚で、卵も立体的に見えるが、近づいてみると、それが写真であることがわかる。
その他にも、身の回りの品々を使ったマン・レイのオブジェが何点か置かれている。人を喰ったように思わせて、普段は見慣れているものが、アートと呼ばれただけで、違うものように見えてしまう、というマン・レイの魔術が、その部屋には充満していた。
Room4は、カルダーのモビール作品が中心。作品にできるだけ近づいて、息を思いっきり吹きかける。すると、微妙に、そのモビールが動いた。何となく、自分と作品の距離が近づいた気がした。
彫刻やオブジェは、どの作品も、物である、というだけで、絵画とはまるで違った存在感を感じさせる。
その周りを、ぐるぐると回ってみると、その一瞬一瞬で、作品の見え方が違ってくる。
自分の身の回りのあるものが、どうしてアート作品のように見えないのか。その一方で、そうしたアート作品が感じさせる、物としての不自然さ、陳腐さは、どこから来るのか。
美術館を出たあとに迎えてくれる、白鳥がたわむれる大きな噴水のある池と、その周りにある森の緑に囲まれながら、そんな余計なことごとを、考えさせられた。
近代の日本画展(五島美術館)
五島美術館が所有する日本近代絵画のうち、およそ50点ほどが展示された展覧会。
狩野芳崖、橋本雅邦、竹内栖鳳、横山大観、下村観山、川合玉堂、上村松園、鏑木清方、小林古径、川端龍子など。
中でも、横山大観が富士を描いた、7点の作品は、第2展示室にまとめて展示されていた。折しも、富士山が世界遺産に登録されることが内定した、ということが明らかになってから間もなくのことであった。
そのなかの、"日本心神"という富士山の図は、縦1.2メートル、横1.8メートルの大作。富士の山頂付近を、墨の黒と余白だけで表現し、背景の空には、薄く金彩を施している。
この絵が書かれたのは、昭和15年。日本は、すでに中国との戦争状態にあり、アメリカとの開戦も間近だった。
画家の真意は、今となっては知るべくもないが、ただ単純に、美しいと感じられない、複雑な背景が、この絵にはある。
川端龍子の"富貴盤"。縦80センチ、横1メートルの画面いっぱいに、白い牡丹の花が2輪描かれている。実物よりも明らかに大きい。花びらの質感が、白の微妙な表現で、見事に描かれている。
この絵が描かれたのは、昭和21年。時代の重しが外れたような、そんな開放感を感じさせる、ダイナミックな絵。日本画という枠を、完全に飛び越してしまっている。
牡丹、あるいは花、という生き物、あるいは物、が秘めている無限のような、得体の知れない物を感じさせる。ジョージア・オキーフの一連の作品を連想させる。
小茂田青樹の"緑雨"。画面一面が、文字通り緑色に染まっている。芭蕉の葉が画面の上部に生い茂り、下の地面には、一匹の小さな蛙が、うれしそうに空を見上げている。雨の雫を、白く細い真っすぐな線で描いているのが新鮮。
絵画の他に、中国の清時代の硯、明時代の墨なども合わせて展示されていた。
弘法は筆を選ばず、という言葉があるが、多くの絵師たちは、硯や墨を選んできた。絵というものが、画家の技術だけで成立しているのではないことが、そうした展示物から伺えて、興味深かった。
狩野芳崖、橋本雅邦、竹内栖鳳、横山大観、下村観山、川合玉堂、上村松園、鏑木清方、小林古径、川端龍子など。
中でも、横山大観が富士を描いた、7点の作品は、第2展示室にまとめて展示されていた。折しも、富士山が世界遺産に登録されることが内定した、ということが明らかになってから間もなくのことであった。
そのなかの、"日本心神"という富士山の図は、縦1.2メートル、横1.8メートルの大作。富士の山頂付近を、墨の黒と余白だけで表現し、背景の空には、薄く金彩を施している。
この絵が書かれたのは、昭和15年。日本は、すでに中国との戦争状態にあり、アメリカとの開戦も間近だった。
画家の真意は、今となっては知るべくもないが、ただ単純に、美しいと感じられない、複雑な背景が、この絵にはある。
川端龍子の"富貴盤"。縦80センチ、横1メートルの画面いっぱいに、白い牡丹の花が2輪描かれている。実物よりも明らかに大きい。花びらの質感が、白の微妙な表現で、見事に描かれている。
この絵が描かれたのは、昭和21年。時代の重しが外れたような、そんな開放感を感じさせる、ダイナミックな絵。日本画という枠を、完全に飛び越してしまっている。
牡丹、あるいは花、という生き物、あるいは物、が秘めている無限のような、得体の知れない物を感じさせる。ジョージア・オキーフの一連の作品を連想させる。
小茂田青樹の"緑雨"。画面一面が、文字通り緑色に染まっている。芭蕉の葉が画面の上部に生い茂り、下の地面には、一匹の小さな蛙が、うれしそうに空を見上げている。雨の雫を、白く細い真っすぐな線で描いているのが新鮮。
絵画の他に、中国の清時代の硯、明時代の墨なども合わせて展示されていた。
弘法は筆を選ばず、という言葉があるが、多くの絵師たちは、硯や墨を選んできた。絵というものが、画家の技術だけで成立しているのではないことが、そうした展示物から伺えて、興味深かった。
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