2013年11月24日日曜日

井戸茶碗 戦国武将が憧れたうつわ(根津美術館)

井戸茶碗。

朝鮮半島では、一般の民衆が使っていたといわれ、くすんだ、黄色がかったクリーム色。決して美しいとはいえない。

しかし、日本の茶の世界では、それは、もっとも格の高い茶碗であると考えられている。

根津美術館で行われた、その井戸茶碗の展覧会。

ぱっと、会場を眺めると、ほとんど同じように見える、くすんだ色の茶碗がならんでいるだけ。

しかし、近づいて見ると、そのひとつひとつの茶碗は、色合い、形、表面状に偶然つけられたひび割れ、釉薬のかかり具合など、微妙な違いが見えてくる。

茶人たちは、その微妙な違いを見いだして、評価し、ひとつひとつの器に名前を付けてきた。本願寺、金森、巌、対馬・・・。

茶の世界とはまったく無縁の人から見れば、どれも古びた同じような茶碗にしか見えず、その違いを見分けることに、何の意味も見いださないだろう。まるで、クレイジーなこととしか、見えないかもしれない。

しかし、日本の茶の世界の本質は、まさしく、そのクレイジーさにあるのだろう。

喜左衛門という名の国宝の大井戸茶碗は、他の作品とは別に、それだけでガラスケースに収められ展示されていた。

国宝ということから、予見をもってみるからだろうか、他の器と比べると、野性的で、荒ぶるような、そんな印象を受けた。

井戸茶碗は、16世紀以降に朝鮮半島からもたらされたものだが、今日の韓国では、ほとんど残されていないという。

しかも、この美しくもない、何の変哲もない器に、韓国の人々は、何の興味も持っていないともいう。

そのことが、余計、この井戸茶碗というものがどんなものであるかを、物語っているように思える。

ウィリアム・モリス 美しい生活(府中市立美術館)

紅葉が美しい、府中の森公園。その公園の奥の方に、ひっそりと佇む、府中市立美術館。私の好きな美術館の一つ。そこで、ウィリアム・モリスの展覧会が開催された。

最初のコーナーは、セント・マーティン教会などイギリス各地の、モリスらデザインが関係したステンドクラスの美しい写真が展示されていた。

モリスの他、ロセッティ、バーン=ジョーンズなど、ラファエロ前派の面々がデザインしたステンドクラスは、小さな写真だけだが、実に美しい。

モリスが理想とした中世の世界が、会場に再現したかのようだった。

柳、ひなぎく、るりはこべなどの植物や、小鳥などの動物をあしらった、モリスがデザインした、美しい壁紙の数々。

中でも、展覧会の目玉と言える、いちご泥棒、という不思議な名前の布生地へのプリントは、難しいと言われるインディゴの青の色の染色など、全部で24色の版木で染められている高価なもの。

モリスは、産業革命の、機械的な工業品を嫌い、それ以前にあった、手作りの暖かい工芸品の復活を夢見たが、皮肉にも、そうした工芸品は、一般の民衆が手にするには、あまりに高価な物になってしまった。

美しいデザインがテーマの展覧会とあって、殺風景な、いつもの絵画などの展覧会とは違い、展示場の装飾も、モリスの世界を再現すべく、凝ったものだった。

モリスのその美しい空間を抜け、現実の世界に舞い戻る。紅葉の森を、モリスの美しい世界の余韻を感じながら、会場を後にした。

2013年11月23日土曜日

カイユボット展ー都市の印象派(ブリヂストン美術館)

カイユボットというと、印象派展などで、モネやルノワールといった巨匠を横目で見ながら、その片隅に1点か2点が紹介される、という印象の画家でしかなかった。

東京のブリジストン美術館で開催されたこの展覧会では、はじめて、まとまってカイユボットの作品を見る機会を得た。日本で初めてとなる回顧展ということだ。

その感想を一言でいえば、カイユボットという画家は、何とも捉えどころがない画家だなあ、ということになるだろうか。

会場の入り口に、3枚の自画像があった。

彼を写した写真と比べて見ると、そっくりで、対象をそのまま捉えようした、この画家の特徴が見て取れる。

人物を描いた肖像画は、いずれも、友人や親戚など、身近な人々を描いた作品が多い。やや粗いタッチながら、対象人物を決して美化せずに、ありのままの姿を表現しているようだ。一言でいえば、上手い。

都市の画家、というこの展覧会のサブタイトルが表すように、パリを描いた作品のコーナーでは、大作が並べられ、展覧会のハイライトとなっていた。

”ヨーロッパ橋”と”建物のペンキ塗り”という2つの大作は、パリという大都会における、様々な階層の人々の人間模様を、一つの場面に集約している。

”イエール川のペリソワール”という作品は、川で独り乗りのボートを漕いでいる人々を描いている。漕ぎ手の麦わら帽子と、オールの先の丸くなった部分が、形が似ていて、同じ黄色っぽい色で描かれ、その不思議な対比が面白い。

カイユボットは、若くして親の財産を引き継ぎ、絵に没頭できる環境を得た。同時に、知り合いでもあったモネやルノワールらの作品を購入し、他の印象派の画家たちの生活を支えていた、という一面も持っていた。

カイユボットの作品に、どこかのんびりとした、他の印象派に感じる緊張感や緊迫感が感じられないのは、そうした状況があったからなのかもしれない。

自身も、印象派展に何度も出展しており、会場には、その印象派展のカタログも合わせて展示されていた。

画家としての力量は、この展覧会を見た人々であれば、誰も納得するに違いない。

受け継いだ財産で購入したパリ郊外の別荘の周辺を描いた風景画では、モネやルノワールの、点描画のような独特の風景画の手法を使い、のどかな郊外の農村風景を多数描いている。

会場には、弟で写真家でもあったマルシャルの写した、カイユボットは勿論、その家族や、当時のフランスの風景を写した、多くの写真も飾られていた。

中でも興味深かったのは、モネやルノワールの若き日に描いた場所として有名な、アルジャントゥイユの写真が何枚かあったこと。写真からの印象は、モネやルノワールの絵画とは、少し違っていた。

2013年11月17日日曜日

描かれた風景(東京都国立博物館)

上野の東京都国立博物館で開催された、江戸時代の風景画を中心にした、小規模な展覧会。

同時に開催されていた、上海博物館の中国絵画の特別展と、セットのような形で開催された。

会場は、本館の2階にある、小さな特別室2つだけを利用したものだったが、展示された作品は、あまり普段は目にする機会がない、珍しいものばかりだった。

池大雅が、松島の風景を瀟湘八景図になぞらえて、長い巻物に描いた作品。

瀟湘八景図は、日本の絵師たちにとっては、風景画のひとつのモデルだった。湖の部分は、何も描かずに、余白で残す。そうした描き方も、日本の絵師たちには、受け入れやすかったのだろう。

松平定信のお抱え絵師だった谷文晁が、パトロンの定信に従って訪れた土地の風景を、西洋絵画の技法を一部に取り入れながら描いた、相州名勝図帖。

数多くの絵画技法をマスターしていた谷文晁らしい、写実的な風景画だ。

個性的な絵で知られる長沢蘆雪が、厳島神社とその周辺の風景を描いた、宮島八景図。いわゆる蘆雪らしさを抑えて、依頼者の意図を忠実に描いた、といわれている。

普段、あまり目にする機会がない、朝鮮王朝時代のいくつかの風景絵画。

江戸時代の日本では、朝鮮の絵画も、中国の絵画として見ていたという。一見しただけでは、これらが朝鮮で描かれたものとは、確かにわからない。当時の、東アジアの文化的な関係が、よく伺える。

小規模ながら、見所の多い展覧会だった。

清時代の書ー碑学派(東京国立博物館、書道博物館)

上野の東京国立博物館と、鴬谷にある台東区書道博物館で共同開催された、清時代の書に関する展覧会。

清時代には、青銅器や石碑に書かれた文字に注目し、漢字の原点に帰ろうとした、碑学派という人々が現れた。

鄧石如は、その碑学派の祖といわれるが、その鄧石如の生誕270年を記念した展覧会だった。

古い青銅器には、漢字が最初に作られた、象形文字としての特徴がよく残っている字が刻まれている。そうした雰囲気を残しているのが、いわゆる篆書。

鄧石如の篆書には、物の形をそのまま表そうとした、象形文字としての漢字の原点が、如実に表れている。

その一方で、鄧石如の書いた行書、草書は、大胆に線を縦にあるいは横に伸ばして書いて、一転して革新的な様相を見せる。

展示されていた、他の作家のいくつかの作品には、石碑などの写しと、その下に、石碑に書かれた文字を忠実に筆で描いた書がある。碑学派とはなにか、これほどよく説明するものはないだろう。

清は、満州族が明を倒して征服した王朝。清の皇帝は、中国の伝統文化に敬意を払い、碑学派の運動にも理解を示した。

しかし、碑学派の人々の心の中には、異民族に支配されている現状を、快く思わず、古代の自分たちの王朝に思いを馳せ、いつか、異民族の支配を終わらせたい、という思いがあったのに違いない。

2つの会場に並べられた、多くの篆書を見ながら、そんな思いにとらわれた。

2013年11月10日日曜日

ターナー展(東京都美術館)

東京、上野の東京都美術館で開催された、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの展覧会。

この展覧会のことは、昨年の暮れに知った。それ以来、ずっと楽しみにしていた。2013年に開催される展覧会の中でも、最も期待していた展覧会のひとつだった。

ターナーのコレクションで知られる、ロンドンのテートミュージアムから、生涯のほとんどの期間をカバーする、およそ100点の油彩、水彩、スケッチなどの作品が、一同に展示される。

出展作の中には、ターナーを紹介する本の中で、必ずといっていいほど紹介されるような、ターナーの代表作といっていい作品も、何点か含まれている。

日本で、これほど多くのターナーの作品を鑑賞する日が来るとは、少し前までは、全く想像できなかった。

リッチモンド・ヒルを描いた、横3メートルの大作。フランスのヴァトーの絵にヒントを得て、広大な平原の中に、沢山の人物が描かれている。

近づいて見ると、遠くの人間の姿が、白い絵の具で、小さくしかし克明に描かれている。この頃のターナーは、一枚の絵の中で、大雑把に描く技法と、詳細に描く技法を、対象に応じて描き分けていた。

この絵だけを見ると、ターナーは、ダ・ヴィンチ、ティツアーノ、クロード・ロラン、オランダ風景画などの伝統的なヨーロッパ絵画の手法を駆使した画家、ということになる。

ターナーは、若くしてアカデミーの会員になるなど、早くから成功し、生活はゆとりのあるものだった。その後、いわゆる”ターナー的”な、大胆な画法の試みを行えたのも、そうした状況があったからに違いない。

日の出、湖に沈む夕陽、などの後期の作品を見ると、水の上に映る光や空の光の微妙な色合いを、何とか捉えようとするターナーの格闘の様子が伺える。刻一刻と変化するあの微妙な色合いを、ターナーは、キャンバスの中に閉じ込めようとしたのだろうか。

彼のそうした試みは、後の絵画史に大きな影響を与えた。

ターナーの活躍した時期は、ちょうどパリの印象派が登場する少し前だった。モネは、明らかにターナーから影響を受けていたが、決してそのことを認めなかったという。

日本の竹内栖鳳、横山大観などの画家たちも、もしかしたら、ターナーを参考にしたのかもしれない。

夏目漱石はターナーの絵を愛したが、漱石は、ターナーの作品の中に、中国の山水画に通ずるものを感じ取ったのかもしれない。確かに、ターナーの作品の中には、いわゆる”気”のような、自然の神秘のようなものを感じることがある。

それにしても、夢の時間は、あっというまに過ぎてしまう。もう出口にたどり着いてしまった。

果たして、私は、この後、何回、入口から出口を行ったり来たりするのだろう。

横山大観展 良き師、良き友(横浜美術館)

横浜美術館で開催された、横山大観の展覧会。主要な作品を、前期と後期で展示替えしながら紹介する大規模な展覧会。

その一方で、大観だけでなく、その友人や、弟子たちの作も合わせて展示するという、贅沢な内容の展覧会だった。

大観というと、生々流転や瀟湘八景図に見られるような、ぼかしを活かした、いわゆる朦朧体、という表現方法が必ず思い浮かぶ。

確かに、墨という一色の色だけを使って、その微妙な濃淡で、多彩な世界を生み出す技術には、ただただ舌を巻くしかない。

しかし、大観の作品を、年代順に見て行くと、そうした絵は多いが、決してそれだけではないことが、よくわかる。

大観の作品には、意外に、色鮮やかなものが多い。

秋色、という作品では、緑色の葉の色が、秋になり、周囲から徐々に紅色に染まってい様子が描かれている。実際に、このように見えるかどうかはわからないが、野心的な、大胆な描き方だ。

野の花、という作品では、文字通り、野に咲く日本の花々が描かれている。葉の緑色がベースになっており、その中に、花々が、いろいろな色で描かれている。決して、真っ赤とか真っ黄色の花はない、いわゆる、日本の地味な花の色が、この絵に、不思議な華やかさを生み出している。

大観の人物像を見ると、同じ人物が描いたのか、と思われるほど、多彩な描き方をしている。生涯にわたり、いろいろな表現方法を模索していたという大観の姿が、そうした人物像の中に垣間見える。

横山大観と同じ年で、大観が日本美術院の同人に推薦したという、小川芋銭。芋銭は、茨城県の牛久沼の生まれで、その地にある河童伝説などを中心に、何とも不思議なユーモラスな絵を描いた。

その一方で、漢籍に造詣が深く、大観は、芋銭のそうした展を深く尊敬し、生涯にわたって、”芋銭先生”と敬意を込めて呼び続けていたという。

おそらくこの展覧会は、大観の多彩な世界は、周りの人々との、様々な交流を通して、生み出されて行った、ということをいいたかったのだろう。

2013年11月9日土曜日

描かれた都ー開封・杭州・京都・江戸(大倉集古館)

東京、虎ノ門にある、大倉集古館で行われた展覧会。中国と日本を代表する、4つの都市を描いた絵画を一同に展示する特別展。

入り口を入ったすぐの所に展示された、清明上河図。ただし、これは、明の時代に仇英によって描かれていると言われているコピーだ。

オリジナルは、北京の故宮博物院にあり、昨年、上野で行われた展覧会で展示され、私もそこで見る機会を得た。

オリジナルは、すでに色はかなり落ちてしまい、色も黒ずんでしまっていた。こちらのコピーはさすがに色鮮やかで、オリジナルの当時の雰囲気をよく伝えているように思える。

解説によれば、仇英は、基本的にはオリジナルを忠実に描いているが、一部は、自分が暮らしていた蘇州の様子を取り入れたという。

会場には、2点の仇英の款の入った作品が展示されていたが、ひとつは後の清の時代のもので、もうひとつも明の時代に描かれたものだが、仇英のものではないようだ。

つまり、これらの絵は、コピーのコピーということになり、この清明上河図という作品の持っている、尋常ではない背景が感じられる。

杭州の代表的な名勝地といえば、西湖。清の時代に描かれた西湖図は、上空から西湖全体を俯瞰している。清の時代の、合理的な精神が伺える。

日本の狩野山楽が描いた西湖図は、それとは全く違っている。山楽独特の表現で、湖の浮き島と、その左側の対岸の風景に焦点を当てて、大きな余白を作りながら描いている。中国と日本の絵画への意識の違いが表れていて、面白い。

曾我蕭白の描いた西湖図は、湖の畔に建つ住居を中心に描いている。蕭白の晩年の作品というが、そこには、例のエキセントリックさはなく、美しい風景を、緻密な線で、伸びやかに描いている。

この展覧会で一番印象に深く残ったのは、長谷川巴龍という人物が江戸時代に描いた、洛中洛外図。いわゆる素人の素朴画に近い。

ある程度の絵の修行は行ったように見えるが、建物が水平に描かれていたなかったり、人の目鼻が、子供が描くように、横棒を引いただけだったりする。

しかし、そうした稚拙さが、かえってこの絵にダイナミックさを与えており、これまで見てきた、幾多の洛中洛外図の中でも、とりわけ強烈な印象を残す。

江戸時代の日本橋を描いた、東都繁盛図。かつて、日本橋のたもとにあった魚市場が描かれている。そこに描かれている魚の種類の豊富さに驚かされる。クジラかサメのような、大きな魚まで描かれている。

そのあたりは、現在は、オフィス街となってしまい、まったくその面影はない。

4つの都の時間旅行をしたような、実に贅沢な内容の展覧会だった。

2013年11月7日木曜日

伊万里染付の美(泉屋博古館分館)

東京、六本木の泉屋博古館分館で行われた、伊万里焼の大皿を一同に展示した展覧会。

江戸時代後期、時代が成熟し、全国から江戸に集まった様々な食材から、華麗な料理文化が生まれた。

そうした料理を盛りつけたのが、そこに展示されていた、美しい絵柄の大皿だった。

絵柄の題材は多彩だ。伝統的な花鳥風月もあれば、相撲の力士、美人画など、当時の浮世絵の絵柄をそのまま写し取ったものもある。

中でも面白かったのは、東海道五十三次をテーマにした絵皿。大きな皿の中の、小さな丸い円の中に、箱根、品川、川崎など、お馴染みの地名が、それを象徴するイメージで描かれている。

解説文によれば、この大皿は当時、好評を博し、沢山のバージョンが作られたという。

それにしても、江戸時代の伊万里焼の絵師の職人達の、デザインセンスの高さに、改めて舌を巻いた。

描いた職人の名前が分かっていないだけに、純粋のその絵柄を楽しむことができた。