2013年4月27日土曜日

ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り (森アートミュージアム)

まるで、二人の全く異なった画家の展覧会を見たような、そんな不思議な展覧会だった。

前半は、芸術の都パリで、ポスターを中心とした絵画やイラストで、一躍スタートなったアーティストとしての、ミュシャ。

後半は、自分の生まれたチェコの民族の歴史についての、巨大な絵画を描き、無償で国家に寄贈した、愛国者の画家、ムハ。

いずれも、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した、一人の画家の、ひとつの側面だ。

サラ・ベルナールを描いた、あまりにも有名な、シズモンダ、椿姫、メディアなどのポスターを見ると、自然と、アールヌーボー、という言葉が頭に浮かんでくる。

アールヌーボーという概念は、私の中では、ほとんどミュシャの絵とエミール・ガレのガラス作品で、形作られている、ということに、改めて気づかされた。

パリで生まれた大衆向けの消費社会の成立を受けて、様々な製品のポスターに、ミュシャの絵は用いられた。

シャンパン、ビール、煙草といった嗜好品から、香水やビスケット、中には自転車のポスターも展示されていた。

ミュシャは、作品を描くにあたり、登場したばかりのカメラを使っていた。ミュシャ自らが撮影したモデルの写真も、数多く展示されていた。

モラヴィア地方という、ヨーロッパでは辺境といわれる地域の出身ということもあってか、ミュシャは、神秘的なものへの関心が高かった。フリーメーソンにも加盟していたという。

ミュシャのイメージとは少し異なる、オカルトちっくな絵画や板画も印象に強く残った。

後半は、スラヴ民族の歴史の巨大絵画にまつわる展示内容。

戦闘のシーン、戦争などによる荒廃によって、命を落とした人々の累累たる死体。華麗なアールヌーボーのポスターとは、全く違った世界が展開される。

スラヴ叙事詩という、民族の誕生から、その歴史上の数々の出来事、そして未来への希望など、20枚の大壁画を完成させ、1928年に国及びプラハ市に寄贈した。

その後、ミュシャは、チェコを占領したナチスにより厳しく取り調べを受けて、すでに高齢だったせいもあり、程なく、1939年に78才で、その波乱の生涯を閉じた。

その死後も、しばらくは、ミュシャのチェコに対する貢献は、あまり評価されなかったという。

訪れる前は、アールヌーボーの売れっ子画家、というイメージが強かったが、この展覧会を見てからは、この画家に対するイメージが、いい意味で大きく変わった。

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