2013年10月14日月曜日

北条時頼とその時代(鎌倉国宝館)

北条時頼という人物のことは、よく知らなかった。

北条義時以来の5代目の執権であり、北条氏と対抗していた三浦一族などを滅ぼし、北条家の権力の安定をもたらした、中興の祖といわれている。

また、仏教にも信仰が厚く、南宋から禅宗の高僧であった蘭溪道隆を招き、建長寺を建てたことでも知られている。

その北条時頼の没後750年を記念して、ゆかりのある鎌倉国宝館にて、特別展が開かれた。

時頼の坐像が3点展示されていたが、その表情はかなり違っている。時頼には、全国を行脚して、世直しを行ったという、史実とはことなる言い伝えが残されている。坐像の表情の違いには、神話化された時頼のイメージというものが、垣間見える。

時頼は、蘭溪道隆を始め、当時の様々な高僧と関係を持っていた。

時頼が執権をしていた時、日蓮が立正安国論を書いて時頼に提出した。日蓮はその書の中で他の宗派を激しく攻撃した。時頼は、日蓮に対しては、それほど反感は持っていなかったようだが、他の宗派に配慮して、日蓮の追放を命じている。

その様子を描いた、日蓮聖人法難絵は、細長く描かれた絵巻物のようだが、よく見ると、人物の目鼻が描かれていない。あまり見られないタイプの絵物語だ。

曹洞宗の開祖、道元が鎌倉を訪れた際、時頼と面会したという。この面会がきかっけで、時頼は禅の教えに興味を持ったといわれている。

展示の後半は、時頼が蘭渓道隆を招いて建立した建長寺に関する展示品が多かった。

蘭渓道隆の肖像や坐像は、時頼と違って、その表情や体格はほとんど同じ。皆面長で、細身の体つきをしている。実際にそのような人物であったのだろう。

南宋において、名のある高僧であった蘭渓道隆が、時頼の招きに応じて日本に来た背景には、モンゴル人の国家、元の影響を逃れる意味もあったのだろう。

蘭渓道隆にとって、当時の日本の様子、北条時頼などは、どのように感じられたのだろうか。展示作品は、いずれも、寺の規律を記したものばかりで、その心情を伝えるものは、なにもなかった。

江戸時代に水戸光圀が寄進した際に描かれた、建長寺の境内絵図。鎌倉時代には立派な伽藍が立ち並んでいた建長寺も、江戸時代には寂れており、それを見かねた光圀が寄進を申し出たという。

南宋時代に龍泉窯で作られ、鎌倉の地にもたらされた、青磁の大きな花瓶と香炉。当時の鎌倉は、南宋と直接交流していた。多くの文物を輸入し、僧侶や商人も多数訪れ、国際的な都市であったに違いない。

時頼は、父が早世したことで20才で執権に地位について、30才で出家。しかし、影の実力者として実権を握っていたが、わずか37才で病でこの世を去ってしまった。しかし、その37年という短い歳月の中には、実に多くのことがあったのだということが、この特別展でよくわかった。

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