2013年10月5日土曜日

戦争/美術1940-1950モダニズムの連鎖と変容(神奈川県立近代美術館葉山館)

神奈川の逗子の駅から車で15分ほど、海を見下ろす場所に建っているモダンな建物が、神奈川県立近代美術館葉山館。開館10周年を記念した行われたのは、1940年から50年にかけての日本絵画を紹介するという、珍しい内容の展覧会だった。

最近、とみに注目を浴びている松本竣介は、この時代を代表する作家だ。立てる像、と題された有名な自画像は、焼け野原の中で、完全と自分の運命を向き合っている画家の姿を描いている。

松本は、自らの絵画と戦争協力との間に、はっきりと一線を引いていた。惜しくも、戦後すぐに病いで亡くなってしまった。

藤田嗣治のソロモン海峡に置ける米兵の末路という作品。戦前、エコールドパリの画家として華麗な活躍をした、軍人の子でもあった藤田は、戦争が近づくと帰国し、従軍記者として数多くの絵画を描いた。

戦後は、その戦時中の軍への強力を厳しく批判され、逃げるようにしてパリへ旅立ち、二度と日本に戻ることはなかった。

その絵は、明らかにドラクロアやジェリコーの絵画を参考にして描かれている。画家は、社会という人間の集団の中で生きている以上、どうしても、絵画の描き方だけではなく、その中に描いているものによっても、評価されてしまう。

山下菊治は、戦前は反米的な、日本の敵米国の崩壊、という絵を描いたが、戦後は逆に、あけぼの村物語、のような、反権力的な絵画を描いた。

描かれているテーマは異なっているが、その技法は、ほとんど変わっていないように見える。

新日本百景、という版画集。日本版画協会が1938年から1941年にかけて出版した。京都や富士山というお馴染みの風景の中に、台北や平壌などの風景もある。その時代、日本は台湾や朝鮮半島は日本の植民地だった。

日本の南洋への進出に伴い、南洋ブームのようなものが起こり、画家たちも、そうした絵を数多く描いた。画家たちにとっても、南洋はゴーギャンの影響もあり、魅力的な対象だったのだろう。

丸木位里、俊の夫婦による、広島の原爆による惨状を描いた作品の数々。広島は、丸木位里の故郷であり、原爆の投下を知った位里は、すぐに広島に向かい、その惨状を目の当りにした。その絵の圧倒的な存在感は、見た者の心に強烈な印象を残す。

それは、広島の原爆を題材としながら、描かれているものは、いつも時代にも起こりうる、この世の地獄の姿になっている。それらの絵画は、普遍的な何事かを、見るものに訴えかけている。

時代に翻弄されながらも、絵画を描き続けた、そうした画家たちの姿に、芸術と社会の何とも言えない不思議で奇妙な関係を、改めて考えさせられた。

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