2013年7月20日土曜日

特別展 生誕140周年記念 川合玉堂(山種美術館)

広尾の山種美術館で、特別展 生誕140周年記念 川合玉堂、が開催された。

山種美術館の収蔵作品を中心に、その生涯のほとんどすべてをカバーする作品が、多数展示された。

10代から20代にかけての写生帖。人物のスケッチや、江戸時代に書かれた京都の円山四条派の作品の模写など、いろいろなものが描かれている。

その頃には、すでに画家としての技術的な基礎は、完全にマスターされてるように見える。

川合玉堂は、はじめ京都の円山四条派に属していたが、橋本雅邦の絵に出会って衝撃を受け、その画風を変えていった。その後、日本美術院の創設にも関わっていく。

川合玉堂という名前を聞くと、すぐに思い浮かべるのは、細かい筆さばきと、淡い色調で描かれた、のどかな、典型的な日本の農村のイメージだが、そうした絵は、1930年代以降、本人が50才を越えてから描かれるようになった。

それらの作品には、水墨の山水画、円山応挙の細かい筆さばき、ヨーロッパの印象派などの風景画の構図など、川合玉堂が吸収したすべての要素が、少しづつ含まれているように見える。

朝晴、雨後山月、湖畔暮雪、残照、遠雷麦秋・・・。作品の名前を思い浮かべるだけで、絵の雰囲気が蘇ってくる。

絵の中には、山や畑、海の風景だけではなく、朝もや、雨の中で湿気を含んだ空気、山の遠くを見えなくする霞など、対象として描くのが困難なものが、見事に描かれている。

川合玉堂は、訪れた旅先の旅館や、知人達には、自ら描いた絵を、よく贈呈していたという。しかし、その名が広く知られるようになってからは、絵を描くこと以外の活動に多くの時間を割かれるようになった。

本人は、そのことをひどく憂いて、もっと時間があれば、もっと多くの人に、絵を書いてあげられるのに、と語っていたという。

そこにあるのは、日本絵画の巨匠の姿ではなく、何よりも絵を描くことが好きな、一人の少年の姿だ。

この国は、川合玉堂という画家を持ったことを、誇りに思っていい。玉堂が描いたものこそ、日本という存在そのものであるのだから。

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