2013年7月27日土曜日

生誕250周年 谷文晁展(サントリー美術館)

谷文晁は、何とも捉えどころのない画家だ。

最初のコーナーでは、谷文晁が描いた、様々な種類の絵画を提示し、その捉えどころのなさを、強調していた。

細かい描写とカラフルな色合いの南画、墨一色で描かれた山水画、西洋の静物画の模写、伝統的な仏画などなど。

谷文晁は、後に大老となって、寛政の改革に取り組むことになる、松平定信のお抱え絵師となり、その肖像画や、随行先の様々な風景画などを描いた。

その松平定信の命令で、日本全国にある主要な美術品を調べ、それ写し取り、整理して、集古十種、という書物にまとめた。その一部が展示されていたが、その表現は、個性を排除し、対象をただ忠実に書き写している。

日本の数ある芸術家の中で、これほど沢山の芸術作品を目にした人物は、それほどはいなかっただろう。

谷文晁の時代は、18世紀の中頃。江戸時代が始まっておよそ100年がたっており、海外からの影響もあり、江戸を中心とした都市文化が発展していた。谷文晁は、その文化の成熟を、まさに体現するような人物だった。

最後のコーナーでは、谷文晁の交友関係の広さに焦点を当てていた。大阪の文化人のネットワークの中核にいた、木村蒹葭堂や、酒井抱一、大田南畝など、錚々たる人物たちの名前が並んでいる。

自ら画塾を開き、多くの弟子を抱えてもいた。その中には、後に幕末の混乱の中で、悲劇的な死を迎えた、渡辺崋山もいた。

しかし、画家としての谷文晁をみた場合。江戸時代の画家としてみると、これといった強烈な印象を残す作品が、残念ながら、ほとんどない。

どの絵も、技術的には素晴らしい。楼閣山水図や孔雀図などの作品をみると、その細かい筆さばきの正確さに、目を見張る。しかし、何というか、インパクトに欠けている気がする。

谷文晁は、あまりにも恵まれすぎ、あまりにも多くの芸術を知りすぎ、そして、あまりにも技術があり過ぎたのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿