2013年5月26日日曜日

オディロン・ルドンー夢の起源(損保ジャパン東郷青児美術館)

私が最も愛する画家の一人、オディロン・ルドンは、1840年にフランスのボルドーに生まれた。

病弱だったため、市内から遠く離れた地で育てられ、やがて学校に通う為にボルドーに戻ったが、学校には馴染めなかったという。しかし、絵の上手かった彼は、そうした状況から逃れるように絵に没頭した。

展示会場の最初のコーナーでは、ルドンが大きな影響を受けた、植物学者のアルマン・クラヴォーの標本画や、版画家のルドルフ・ブレスダンのリトグラフが展示されていた。

クラヴォーの植物の種子の詳細な標本画は、ルドンの後年の不思議な空を浮かぶ物体を容易に連想させる。ブレスダンの版画に描かれた深い森の暗い雰囲気にも、ルドンの描いた世界と共通するものを感じる。

ルドンは、暗い幻想的な作品を描いているかたわらで、いわゆる印象派的な風景画を描き、自らそれらの作品をエチュードと呼んでいた。何気ない、海辺の風景、砂浜にポツンと突き出た岩山など、一般的なルドンのイメージに結びつかない、色鮮やかな風景画は、深い印象を残す。

40才頃から、ルドンはリトグラフの画家として、その黒い幻想的な世界を描く画家として知られるようになった。会場には、ルドンを代表する、宙に浮いた目玉、表情を持ったクモ、台の上におかれた子供の首、などのリトグラフが延々と並んでいた。

ルドンが出版した版画集には、ゴヤやエドガー・ポーの名を持つものがある。また、フローベルやボードレールといった象徴主義の詩人達の作品をもとに作製された作品もあり、時代の雰囲気がよく感じられる。

会場の最後には、1890年から亡くなる1916年にかけて描かれた、色鮮やかな作品が展示されていた。

ルドンの描いた数々の花の絵。そこには、目玉や神話の登場人物は描かれていない。ただ目の前の花を描いているように見える。しかし、ルドンのその他の作品を知っていると、それが単なる花を描いた作品とは、見えなくなる。何かが、隠されているのでは?という目で見てしまう。

ルドンが、死の直前までイーゼルに置かれていたという、聖母、という作品。朱色のような単色で描かれた油彩画。横を向いた聖母の半身像。ルドンは、第1次大戦の戦場にいた息子の無事を祈って、この絵を描いていたという。

未完の作品と紹介されていたが、よく見ると、本人のサインは描かれていた。

シュールレアリズムという言葉が生まれたのは、ルドンが死んで後のことである。時代が一つの個性を生み出し、その個性が、新しい時代の幕を開けた。

私はこの画家について、まだまだ何も分かっていない、ということだけがわかった、そんな展覧会だった。

2013年5月25日土曜日

貴婦人と一角獣展(新国立美術館)

実は、この展覧会には、行く前に、行こうかどうか、迷っていた。

西暦1500年頃に作成された、フランスの宝と言える貴重なタピスリーであることは知っていたが、しょせんは、タピスリーではないか・・・

しかし、実際に会場に足を運び、そのタピスリーを目の前にして、驚きを隠せなかった。それはタピスリーというよりは、記号の森のようだった。

タピスリーは、6枚からなる。触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚、そして、我が唯一の望み、と紹介されていた。

始めの5つについては、それぞれの感覚を象徴する絵が織られている。

触覚では、貴婦人が一角獣の角を掴んでいる。味覚では、貴婦人が食べ物に手を伸ばしている。嗅覚では、貴婦人が花を手にしている。聴覚では、貴婦人がオルガンを演奏している。そして、視覚では、貴婦人が鏡を持って、その鏡に一角獣の姿が写っている。

最後の、我が唯一の望み、という不思議な名前のタピスリーでは、貴婦人が、宝石箱の中から、宝石を選んでいる。

それぞれの絵は、背景は赤、中央に丸く緑色に仕切られた領域、貴婦人と一角獣、ライオンと小動物、4本(一部2本)の木と無数の草花、という共通のイメージを持っており、それが、6枚全体としての統一感を持たせている。

中央の緑色の円形の領域は結界か?一角獣は何の象徴か?4本の木の意味は?子犬やウサギ、猿などは何を意味しているのか?我が唯一の望みとは、富に囲まれ暮らすことなのか?

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大きな丸いスペースに、来場者を取り囲むように展示された6枚の大きなタピスリーの中で、頭の中には次から次への疑問がわき起こってくる。

600年という時の流れが、そこに描かれているものの意味を、洗い流してしまったようだ。

会場のあちこちには、絵の内容を解説するパネルが数多く並べられていたが、そうしたパネルを見るよりは、このタピスリー自体に目を向けた方がよいだろう。

これらのタピスリーの下絵を描いたのは、『ベリー公のいとも華麗な時禱書』を描いたのと同じ画家だという。確かに、絵の感じはよく似ている。

そして、絵画そのものではなく、それが織り上げられ、タピスリーになっていることで、絵画とはまったく違った作品になっている。

タピスリーという存在だけが、作り出せる芸術空間が、そこにはある。

画家のイメージと、その下絵を丹念に織り上げた職人達が作り上げたこの記号の世界は、他のどの芸術家が作り上げた世界に劣らず、見るものの心に強烈な印象を残した。

大倉コレクションの精華1ー中世・近世の絵画(大蔵集古館)

大蔵集古館が、そのコレクションを公開する展覧会。第一弾は中世・近世の絵画作品を、前期と後期に分け、およそ40作品で構成された。

国宝の随身庭騎絵巻。鎌倉時代13世紀に描かれた作品。馬に乗り、随身を務める武士たちの姿を描いている。一人一人に名前が添えらていて、表情もきちんと描き分けられている。

その表情を見ていると、この人は気が小さそうだなとか、この人は大ざっぱだったのではないか、など、人物の性格まで推測できてしまう程、巧みに描き分けられている。

馬のたてがみも、細かい線で、丹念に一本一本描かれていて、その技術力の高さにも目を見張る。

うーん、さすが、国宝の看板に、偽りなし。

室町時代、15世紀に描かれた空也上人絵伝。口から仏が出ている、というイメージが定着している空也上人の生涯のいくつかの場面を描いたもの。

その描き方は、素朴で、絵師というよりは、普通の仏僧が描いたのではないか。また、現代のわざと下手に描くアニメのようにも見え、今日の日本のアニメ文化の源流を見ているようにも感じる。

幕末の江戸時代に活躍した冷泉為恭の山越阿弥陀図と神明仏陀降臨曼荼羅図。時代が近いだけに、その色の鮮やかにまず目がいくが、近寄って見ると、その細かい描写にも、目を奪われる。

冷泉為恭は、貴族の冷泉家とは関係のない絵師の家の出だったが、尊王派と佐幕派が緊張状態にあった京都で、尊王派から佐幕派のスパイだと目をつけられ、わずか42才で尊王派の手によって殺された。

その数奇な運命を知ると、この目の前の色鮮やかな絵が、また違った雰囲気に見えてくる。

江戸時代、18世紀に描かれた虫太平記絵巻。文字通り、太平記の登場人物の顔が、コオロギやバッタ、ムカデといった虫になっているという、ちょっとキモイ絵巻物。

鳥獣戯画絵巻と百鬼夜行絵巻のコンセプトをごちゃまぜにしたような作品。一瞬、ちょっと引いてしまったが、落ち着いてよく見て見ると、次第に楽しくなってくるから不思議だ。

安藤広重の肉筆による飛鳥山・隅田川・佃島図。浮世絵師のイメージが強い広重だが、こうした肉筆画を見えると、絵師としての広重の技術力の高さが改めてよくわかる。

山、川、海という3つの題材を受けて、それぞれの景色の特徴をよく捉えている。

谷文晁の夏景山水図。南画の技法を使って描かれた、一見すると、何のことはない普通の山水図のように見える。

しかし、近づきながら、遠ざかりながら見て見ると、高い山の上からの水が、下の湖に流れ込んでいて、その水を使って人々が暮らし、村落を形成している、という景色から、
なにかとても重要なこと、この世の中の真実、神秘など、いろいろなことが思い浮かんでくる。

いやはや。すっかり、谷文晁の魔術にやられてしまったようだ。

2013年5月23日木曜日

「もののあはれ」と日本の美(サントリー美術館)

本居宣長の”もののあはれ”という言葉をキーワードに、日本の美を鑑賞する、というテーマのサントリー美術館での展覧会。

会場に入り口付近に、その本居宣長の『紫文要領』と『石上私淑言』の直筆本が展示されていた。その文字は、実に丁寧に書かれてて、宣長の実直な性格が伺える。

その著書のテーマになっている、源氏物語を描いた絵画や、和歌の書や琳派の作品、また蒔絵の工芸品や、仁清や乾山などの色鮮やかな陶器などが展示されていた。

平安時代に描かれた病草子断片「不眠症の女」。皆が寝静まっているのに、一人の女性が、眠れずに、起き上がっている。口からは、詞書のようにも見える、白い息のようなものが漏れている。

物の怪に憑かれた、ということなのだろうか。花鳥風月ではない、違った日本文化の一面だ。

長沢蘆雪の月夜山水図。個々の対象を細かく写実的に描くのではない、ぼかしの技法を駆使して、全体をぼんやりと描いている。月夜のおぼろげな雰囲気を、実に良く表現した作品。

江戸時代、17世紀に描かれた月次風俗図屏風。六曲一隻の屏風の、京都の街角の風景の中に、12ヶ月の毎月の代表的な行事が、克明に描かれている。

誰が書いたとも分からず、美術的には、名作という訳ではないが、当時の人々の日々の暮らしの様子が伺え、一つ一つの行事を楽しんでいるうちに、時間が経つのを忘れてしまう。

歌川貞房の東都両国夕涼之図。浮世絵だが、両国橋の上を行き交う人々が、文字通り豆粒のような大きさで、丸くその頭だけ、無数に描かれている。

その群衆の中では、誰も身動きできないに違いない。そもそも、それほど多くの人が乗っていたら、両国橋がもつわけがない。

本居宣長の”もののあはれ”で始まった展覧会だが、次第に、宣長が考えていた方向とは、展示の内容がずれてきているように感じられた。

まあ、そうした意味も合わせて、この展覧会は、あはれ、であったということができるのかもしれない。

2013年5月19日日曜日

篠田桃紅の墨象(菊池寛美術館)

この篠田桃紅の展覧会は、実に、衝撃的な内容だった。

篠田桃紅の名前は、寡聞にも全く知らなかった。1913年に大連で生まれ、この3月で100才を迎え、今も現役で作品を制作し続けている。

篠田は、書家としてその活動を開始したが、この展覧会での作品を見る限り、書家としての枠組みを完全に超えてしまっている。パンフレットでは、その作品を、水墨肖抽象画と紹介していた。

Poetry in Motion/線という作品では、和紙の上に文字のような、細い、流れるような線が並んでいる。一部の文字は、判別が可能だが、まったく検討もつかない、文字のような、模様のような形が並んでいる。

会場の半ばくらいに来るまでには、この篠田桃紅の作品を、どうしようもないほど、愛おしく感じてしまう、そんな気分になっていた。

篠田は、墨というものを通じて、文字の持っている不思議さ、その背景に隠されている、形と意味の神秘さ、というものを、改めて思い起こさせてくれる。

Sinence/静寂という作品。画面の右半分は、黒目の、左半分は薄目の灰色に描かれている。それぞれ単色ではなく、微妙に変化している。

その不思議な色彩感覚は、まるで、マーク・ロスコの作品のように、見るものを、全く違った世界に、誘い出しているようだ。

篠田は、背景に、よく銀箔を使う。金箔ほどの派手さはなく、落ち着きを感じさせる。見る位置を変えると、光の微妙な変化で、全く違った作品が現れてくる。

会場の最後に展示されていた、Saga/物語。

この篠田の作品を見ていると、文字、線、形、色の、根源的な美しさを、心の底から、喜びとして、じわじわと、感じることができる。

いやはや、とんでもないものに出会ってしまった。

河鍋暁斎の能・狂言画(三井美術館)

河鍋暁斎といえば、妖怪絵や、世相を風刺した個性的な絵が思い浮かぶ。

意外にも、河鍋暁斎は、自らも狂言を演じ、能や狂言に沢山の肉筆画、版画を描いていた。

絵だけを見せられたら、これをすぐに河鍋暁斎とはわからない。あまりにも、すでに作られてしまった暁斎のイメージとは違い過ぎるからだ。

能の翁、高砂、石橋、道成寺や、狂言の末広がり、蟹山伏など、邦楽ファンにはお馴染みの演目が、暁斎の巧みな技術で描かれている。

暁斎の、狩野派の流れを継ぐ絵師としての技術力の高さが、そうした作品から伺える。暁斎は、間違いなく、当時の日本における、最高の画家の一人だった。

いずれの絵においても、役者の動きの瞬間を、実に見事に捉えている。静止した絵でありながら、その前後の動きを感じられる、ダイナミックな表現に、思わず目を奪われる。

描かれている能や狂言を見たことがある人間であれば、自分の見た舞台が、思わず頭の中に蘇ってくるに違いない。

装束についても、細かい文様まで忠実に写し取っている。これは、実際にそれぞれの装束を丹念に取材した賜物だろう。完成された絵の他にも、多くの下絵が展示され、その取材の後が伺える、

また、狂言を演じる自分の姿を描いた珍しい下絵などもあり、河鍋暁斎の別な側面が垣間見え、実に楽しい展覧会だった。

Welcome to the Jungle(横浜美術館)

この展覧会のサブタイトルは、熱熱!東南アジアの現代美術。シンガポール美術館のコレクションの作品が展示されていた。

マレーシア出身のイー・イランは、フィリピンのスールー族という海の民族をテーマにした映像作品。マレーシアとインドネシアの間の海で暮らしているその姿は、国境といったものの存在を、考えさせる。

タイのアラヤー・ラートチャムルーンスックの映像作品は、かなり衝撃的な内容だった。アラヤーが、安置所において、死者たちに、タイの古典物語『イナオ』の一節を滔々と読み聞かせている。

生きている人にとって、死者というものが、どんな意味を持っているのか。物語りを、読み聞かせるということが、どんなことを意味するのか。いろいろなことを、この作品は見る者に問いかける。

インドネシア出身のムハマッド・ユヌスの、約束された繁栄。ユヌスが思い描くユートピアをモノクロで描いた、縦2メートルほどの作品。

仏陀の生涯や、寺の縁起を描いた仏教画のように、一枚の絵の中に、いろいろなシーンが描かれている。アジアの人々の、絵画に対する共通の捉え方が伺える。

その他にも、総勢25名、8カ国の作家による、多彩な展示作品は、まさに、ジャングル、というこの展覧会のタイトルに相応しい。

東南アジアにおける、伝統や宗教と、グローバリゼーションの中で経済が急速に発展する社会が、そうした作家達の作品の中では、激しく、時に静かに衝突している。

それが、一つ一つの作品としても、展覧会全体としても、より魅力的なものにしている。とにかく、面白い作品ばかり。

しかし、日曜にも関わらず、人影はまばら。こうした展覧会に、人が集まっていないということは、日本のアート環境は、まだまだ貧しいのではないか。

フランシス・ベーコンや、村上隆、草間彌生など、メディアが派手に取り上げる一部の作家の作品展には、多くの人が集まる。

メディアに教えられたアートだけを楽しみ、自分から、面白いアートを探しにいかない状況は、作る者にも見る者にも、決していい環境とは言えないだろう。

マルコ・ポーロが見たユーラシア(横浜ユーラシア文化館)

13世紀の終わり、ヴェネチア出身のマルコ・ポーロという商人が、ジェノバの獄中で、ピサ出身の宮廷作家に語った内容をもとに書かれた東方見聞録は、最初、古フランス語で書かれたという。

しかし、その原本は残っておらず、いくつかの写本はその内容は異なっている。ヴェネチアで生まれた出版という技術によって、各国語に翻訳され、多くの人の心を捉えることになった。

会場の入り口に展示されていた東方見聞録は、15世紀にボローニャで出版された、ピピノ阪と呼ばれる、ラテン語の本だった。

マルコは、現在のイランの地に栄えたイル・ハン国の使いに出会い、それが縁で中国に赴くことになった。帰りも、そのイル・ハン国の船で、ヨーロッパに戻っている。

会場に展示されていた、数多くのイランなどの各地からの色鮮やかな陶器の出土品は、当時のその地方の繁栄の様子を、今日に伝えている。

東方見聞録の中では、マルコは、中国の一都市の役人を務めたことになっているが、中国の当時の記録には、マルコの名前はないという。

まさしく、その当時の中国国内の記録が、目の前に展示されていた。ヨーロッパ人の名前もすべて漢字に置き換えられているが、確かにマルコに相当するの名前はないようだ。

当時の中国には、イスラム教、マニ教、ネストリウス派キリスト教など様々な宗派の人々が暮らしていた。今に残る経典の切れ端や、そうした人々の様子を記した当時の資料などが、その存在を証している。

モンゴル帝国の成立によって、東西の交流が活発になった、という趣旨の説明がよく見られたが、その帝国成立の過程の中で、多くの民族の人々の命が奪われたことを、無視することはできないだろう。

その反面で、確かに、モンゴル帝国により統一された政治体がなければ、マルコの壮大な東方への旅は、実現しなかったかもしれない。

マルコの書物が、後世に与えた影響の大きさを考えると、歴史のロマンあるいは不思議さ、というものを、考えざるを得ない。

横浜ユーラシア館3階の、決して大きいとはいえないその展示スペースに、イタリアから中国に続く、長大なシルクロードが横たわっているように錯覚したのは、決して私だけではないだろう。

2013年5月12日日曜日

魯山人の宇宙(うらわ美術館)

北大路魯山人という人物については、これまで、いくつかの文章を読んだことがあるくらいで、美食倶楽部という高級料理屋を営んでいたこと、陶器を作っていたこと、など断片的なことしか知らなかった。

うらわ美術館で開催されたこの展覧会で、もう少し、その人物像に触れることができた。

魯山人は、明治16年に京都の上賀茂神社の社家に生まれ、その後、書家になることを目指して上京した。

展示品の中には、掛け軸や焼物の壷などに、魯山人自身による、見事な文字が書かれていた。

現在のキャピタルホテル東京のあたりにあったという高級料亭、星岡茶寮を借り受けていたが、社員達と上手く行かず、やがて経営者から解雇された。

その後は、鎌倉に星岡窯を作り、陶器作りに専念した。

展覧会の展示品の多くは、そうした陶器品の数々だった。紅葉の形をした小さな器、簡素な花々の絵が描かれた平皿。

織部、黄瀬戸、志野、備前、萩、信楽、三島など、ありとあらゆる技法で作られた陶器が並び、さながら、日本の陶器展、といった趣だ。

魯山人は、織部焼きにおける人間国宝の指定を受けたが、辞退した。

母親の不貞から生まれ、父は割腹自殺し、自らは養子に出された。6度の結婚はすべて破綻したという。

その複雑な人物像の一面を、この展覧会で少しは伺えたような気がした。

旅の文学ー紀行文にみる旅の様々(静嘉堂文庫)

本屋に行くと、たくさんの紀行本や旅行のガイドブックが、売られている。人間は、どうしてこんなに旅が好きなのだろう。

江戸時代にも、多くの紀行文や旅の記録、ガイドブックなどが出版された。

井原西鶴、貝原益軒、本居宣長など、今でもよく知られている人物から、一部の研究者や関係者にしか知られていない人まで、実に様々。

中には、愛媛の漁民が、海流に流され、アメリカの船に助けられて、ハワイを訪れたことなどが書かれた書物が展示されていた。この人物は、記録上、始めてハワイを訪れた日本人だという。

勿論、書いたのは本人ではなく、それを調べた江戸幕府の役人達だろう。他にも、大黒屋光太夫の記録や、何点かの漂流記も、展示されていた。

いずれの書物も出版は19世紀。鎖国政策によって、外国との交流を制限していた当時の日本だが、すでに、大きな歴史の流れの中に、飲み込まれようとしていた。

展示品は、ほとんどが江戸時代に出版されたものだったが、唯一、鎌倉時代に書かれた西行物語の写本が展示されていた。

現在の文庫本よりもすこし小さいサイズに、小さいサイズでびっしりと、西行の和歌や行動が書かれている。

西行は、平安時代の末から鎌倉時代にかけて、吉野、鎌倉、東北などを旅した。芭蕉をはじめ、江戸時代の多くの人が、西行に憧れ、思いを馳せた。

これからも、私たちは、多くの旅をし、記録に残し、それを書物にして、楽しんでいくことだろう。

2013年5月11日土曜日

たまもの 大コレクション展(埼玉近代美術館)

埼玉近代美術館が、自らのコレクションを展示する企画展を行った。その出展数は、なんとおよそ1,000展にものぼる。

それらを、家族、眠り、顔、あるいは特定の作家など、およそ30のテーマに分類した。

まず、その企画のユニークさ、巧みさに感じ入ってしまった。

瑛九は、1911年に宮崎で生まれ、上京後は埼玉で暮らした。その故で、この美術館には多くの瑛九の作品が収蔵されている。絵画、版画、写真など、多くの分野で前衛的な作品を残している。

フォトグラム。カメラを使わず、感光紙の上に物をのせて、そのまま焼き付ける手法。1920年代に、マン=レイやモホリ=ナジらによって始められ、瑛九も1930年代から作成に取り組んでいる。

会場には、そのマン=レイやモホリ=ナジの作品も展示されていた。

瑛九は1960年に惜しくも亡くなってしまった。その死を嘆き、友人達の追悼文や出版した書物が展示されていて、読めるようになっていた。

その文章を読んでいると、瑛九が、そうした友人達に、いかに愛されていたのかがわかり、思わず目頭が熱くなってしまった。

百花繚乱というテーマのコーナーには、古今東西の画家達による花々の絵が、壁中に展示されていた。シャガール、熊谷守一、小村雪岱、小茂田青樹、須田剋太、山本容子、駒井哲郎など、その数およそ70点。ただただ美しく、壮観という言葉しかない。

寄贈された大熊家コレクションによる横山大観の作品。春雨 秋雨、朧夜、白梅、そして富士を描いた神州第一峰など。

近代のアート作品の展示が多い中で、これほど多くの大観の作品を目にすると、よけいに、日本画の美しさが、際立って感じられる。

構図の素晴らしさ、色合いの美しさ、ぼかしの技術の高さ。いずれも、ほぼ完璧といっていい作品。

他にも、駒井哲郎、ルフィーノ・タマヨ、熊谷守一、小村雪岱、タイガー立石、草間彌生、アントニ・タピエスらの、印象的な作品に出会った。

それにしても、失礼ながら、これほど多くの作品を、この美術館で一度に鑑賞できるとは、思いもよらなかった。

この埼玉という地は、こと美術ということにおいては、世界中のどの都市と比べても、勝ることはあっても、劣ることはないと言えるだろう。

2013年5月6日月曜日

国宝燕子花図屏風 〈琳派〉の競演(根津美術館)

国宝である、尾形光琳の燕子花図屏風。その六曲一双の屏風には、燕子花しか描かれていない。

右の屏風は、燕子花はやや上よりに描かれており、左の屏風には、上部はぽっかりとスペースが空いており、下に燕子花が描かれている。

その独特な空間配置は、尾形光琳の名前をとって名付けられた、琳派の大きな特徴になった。

伊勢物語の八橋の場面を描いたとも、謡曲の『杜若』をイメージして描いたとも言われる。

俵屋宗達の工房のブランド名だった、伊年、の印が入った四季草花図屏風。およそ70種類の花々が、六曲一双の屏風に描かれている。

悲しいことに、その中の多くの花について、絵だけからは、名前を上げることができない。

色鮮やかで、細かい筆先で景色が描きこまれた、野々村仁清の色絵山寺図茶壺に代表される、華麗なやきものの数々。

それに対して、大胆なタッチで、対象の雰囲気だけを捉えた絵が描かれた、尾形乾山の陶器の数々。

鈴木其一の夏秋渓流図屏風。金箔の背景に、苔の緑と、川の青が鮮やかに映えている。激しく流れる水の水音が聞こえてくるようだ。

鈴木其一は、江戸琳派の酒井抱一を引き継いだ人物だが、彼の没年は、明治維新の10年前。まさに、江戸時代とは、琳派の時代であった。

2013年5月5日日曜日

百花繚乱 − 花言葉・花図鑑 − (山種美術館) 

山種美術館では、毎年この時期になると、花をテーマとした収蔵品展を開催する。

展覧会は、3つのテーマに分けられていた。

第1章は、人と花。

狩野常信の明皇花陣図。玄宗皇帝と楊貴妃が、宮廷の女性に花を持たせて、両陣営に分けて戦わせている様子を描いている。これは、中国に古く伝わる風習とのこと。

女性と花の関係、そして、花が持っている呪術的な側面が垣間見える。

森村宜永の夕顔。源氏物語の夕顔の1シーンを描いている。光源氏の元に、夕顔の家の者によって和歌を添えた夕顔が届けられる有名なシーン。

光源氏も、夕顔も、描かれていないが、源氏物語を知る人間は、この絵を見ただけで、夕顔の帖の物語世界が、走馬灯のように蘇る。夕顔は、やがて、六条御息所の生き霊によって、呪い殺されてしまう。

源氏物語は、夕顔の他にも、藤壷、葵、紫など、登場人物が花の名前で呼ばれることが多い。

第2章は、花のユートピア。

ここでは、現実ではあり得ないような風景の中で花々が描かれた、そんな絵の数々が展示された。

鈴木其一の四季花鳥図。左右の屏風に、四季を代表する花々、動物や鳥が描かれている、日本画ではポピュラーな題材。

春の花と秋の花が並んで咲いているなど、明らかに、現実にはあり得ない。日本の絵師達にとっては、現実を再現することが、絵を描く目的ではなかった。

荒木中畝の四季花鳥。春、夏、秋、冬の4つの色鮮やかな花々と鳥たち。パンフレットやポスターのも使われている、今回の目玉となる作品。

春、夏が色鮮やかなのは、いうまでもないが、ここでは、秋、冬もそれに負けじとカラフルに描かれている。秋は紅葉の赤、冬は雪の白と葉の緑、水面の青を上手く使っている。

第3章は、四季折々の花。

花は美しさの象徴だが、季節を表す象徴としても絵の中で表現される。

奥村土牛の吉野。遠くまで連なる吉野の山並みに、まるで霞のように、桜の花が描かれている。

奥村は、この絵を描いているとき、まるで歴史画を描いているようだと、感じたという。日本の歴史を通して愛され、愛でられてきた吉野の桜は、春という季節感さえも、飛び越えてしまっている。

会場の一角に、西洋絵画の画家達の作品が展示されていた。梅原龍三郎の向日葵、中川一政の薔薇など。描かれている題材も、絵の具も、技法も異なっている花の絵は、花を描くということの、本質的なものを考えさせられる。

横山大観の寒椿。金箔の背景に、薄い水墨で竹が、手前に小さな寒椿が描かれている。他の絵に比べて、まったく色鮮やかではない絵だが、その小さな白い花びらと黄色い雌しべは、実際以上に、この絵の中では大きく見える。

これぞ、横山大観の魔術だ。

2013年5月4日土曜日

Paris,パリ、巴里 ー 日本人が描く 1940-1945(ブリヂストン美術館)

明治維新によって、近代国家を目指した日本は、その全てをヨーロッパから学んだ。それは、政治や経済の仕組みだけではなく、絵画や音楽、文学などの芸術も、またしかりであった。

多くの画家、あるいは画家を志す人々が、パリへ旅立った。当時のパリは、文字通り、芸術の都だった。

ブリジストン美術館で開催された展覧会では、当時の画家達がパリで描いた、あるいは帰国直後に描かれた作品が、40点ほど展示された。

黒田清隆、藤島武二、浅井忠、安井曽太郎、梅原龍三郎、藤田嗣治、岡鹿之助、児島善三郎、小出楢重、佐伯祐三、坂本繁二郎・・・。

日本の西洋絵画を代表する人物たちの名前が、出品リストに並んでいる。

しかし、それらの作品の多くは、どうみても、当時のパリで活躍して画家達、コロー、セザンヌ、ルノワール、ピカソなどのモノマネにしか見えない。

梅原流三郎の脱衣婦はルノワールを、安井曾太郎の水浴裸婦はセザンヌを、児玉善三郎の立つはピカソを、それぞれマネしている。

皮肉にも、常設展時のコーナーには、彼らがモデルとした、コロー、ピカソらの画家達の作品が並んでいた。

芸術の都、パリを訪れた日本人画家達は、競って、巨匠たちの絵をコピーした。それは、近代日本のあり方そのものだった。

そうした中で、存在感を誇っていたのが、藤田嗣治だった。

藤田は、第1次世界大戦の直前にパリについたこともあって、戦時中も日本に帰らず、そのまま居残り、ヨーロッパでの美術界の変化を目の当たりにした。ピカソ、モディリアーニ、マチス、ブラック・・・。誰もが他人とは違う絵を描き、差別化をしなければ、生き残っていけない現状を肌で感じた。

藤田はもがき、その中から、いわゆる藤田の白を編み出した。

横たわる女と猫、という作品は、その藤田の白がふんだんに使われている。女と猫の輪郭は、細い線画で描かれている。その線は、日本画の伝統に根ざしたものだろう。

誰にも真似できないその画風によって、藤田は、当時のパリにおいて、成功した唯一の日本人画家となった。

佐伯祐三は、広告はり、テラスの広告、ガラージュなどの作品が展示されていた。ユトリロの影響を強く感じるが、広告の文字の表現など、独自の絵画世界を築き始めているようにみえる。

もう少し、長く生きていれば、成功できていたかもしれないが、体と精神がそのプレッシャーにもたずに、わずか30才で、セーヌ県の精神病院で亡くなった。

多くの日本人画家が憧れたパリは、第2次世界大戦などの影響によって、芸術の都という地位を、海の向こうのニューヨークに奪われた。

1940-1945年という時代は、日本人が、近代国家を目指して、そして挫折した時代でもあった。それは、西洋絵画を必死に学んだ日本人画家達の試みに対しても、言えることかもしれない。