2013年5月19日日曜日

マルコ・ポーロが見たユーラシア(横浜ユーラシア文化館)

13世紀の終わり、ヴェネチア出身のマルコ・ポーロという商人が、ジェノバの獄中で、ピサ出身の宮廷作家に語った内容をもとに書かれた東方見聞録は、最初、古フランス語で書かれたという。

しかし、その原本は残っておらず、いくつかの写本はその内容は異なっている。ヴェネチアで生まれた出版という技術によって、各国語に翻訳され、多くの人の心を捉えることになった。

会場の入り口に展示されていた東方見聞録は、15世紀にボローニャで出版された、ピピノ阪と呼ばれる、ラテン語の本だった。

マルコは、現在のイランの地に栄えたイル・ハン国の使いに出会い、それが縁で中国に赴くことになった。帰りも、そのイル・ハン国の船で、ヨーロッパに戻っている。

会場に展示されていた、数多くのイランなどの各地からの色鮮やかな陶器の出土品は、当時のその地方の繁栄の様子を、今日に伝えている。

東方見聞録の中では、マルコは、中国の一都市の役人を務めたことになっているが、中国の当時の記録には、マルコの名前はないという。

まさしく、その当時の中国国内の記録が、目の前に展示されていた。ヨーロッパ人の名前もすべて漢字に置き換えられているが、確かにマルコに相当するの名前はないようだ。

当時の中国には、イスラム教、マニ教、ネストリウス派キリスト教など様々な宗派の人々が暮らしていた。今に残る経典の切れ端や、そうした人々の様子を記した当時の資料などが、その存在を証している。

モンゴル帝国の成立によって、東西の交流が活発になった、という趣旨の説明がよく見られたが、その帝国成立の過程の中で、多くの民族の人々の命が奪われたことを、無視することはできないだろう。

その反面で、確かに、モンゴル帝国により統一された政治体がなければ、マルコの壮大な東方への旅は、実現しなかったかもしれない。

マルコの書物が、後世に与えた影響の大きさを考えると、歴史のロマンあるいは不思議さ、というものを、考えざるを得ない。

横浜ユーラシア館3階の、決して大きいとはいえないその展示スペースに、イタリアから中国に続く、長大なシルクロードが横たわっているように錯覚したのは、決して私だけではないだろう。

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