明治維新によって、近代国家を目指した日本は、その全てをヨーロッパから学んだ。それは、政治や経済の仕組みだけではなく、絵画や音楽、文学などの芸術も、またしかりであった。
多くの画家、あるいは画家を志す人々が、パリへ旅立った。当時のパリは、文字通り、芸術の都だった。
ブリジストン美術館で開催された展覧会では、当時の画家達がパリで描いた、あるいは帰国直後に描かれた作品が、40点ほど展示された。
黒田清隆、藤島武二、浅井忠、安井曽太郎、梅原龍三郎、藤田嗣治、岡鹿之助、児島善三郎、小出楢重、佐伯祐三、坂本繁二郎・・・。
日本の西洋絵画を代表する人物たちの名前が、出品リストに並んでいる。
しかし、それらの作品の多くは、どうみても、当時のパリで活躍して画家達、コロー、セザンヌ、ルノワール、ピカソなどのモノマネにしか見えない。
梅原流三郎の脱衣婦はルノワールを、安井曾太郎の水浴裸婦はセザンヌを、児玉善三郎の立つはピカソを、それぞれマネしている。
皮肉にも、常設展時のコーナーには、彼らがモデルとした、コロー、ピカソらの画家達の作品が並んでいた。
芸術の都、パリを訪れた日本人画家達は、競って、巨匠たちの絵をコピーした。それは、近代日本のあり方そのものだった。
そうした中で、存在感を誇っていたのが、藤田嗣治だった。
藤田は、第1次世界大戦の直前にパリについたこともあって、戦時中も日本に帰らず、そのまま居残り、ヨーロッパでの美術界の変化を目の当たりにした。ピカソ、モディリアーニ、マチス、ブラック・・・。誰もが他人とは違う絵を描き、差別化をしなければ、生き残っていけない現状を肌で感じた。
藤田はもがき、その中から、いわゆる藤田の白を編み出した。
横たわる女と猫、という作品は、その藤田の白がふんだんに使われている。女と猫の輪郭は、細い線画で描かれている。その線は、日本画の伝統に根ざしたものだろう。
誰にも真似できないその画風によって、藤田は、当時のパリにおいて、成功した唯一の日本人画家となった。
佐伯祐三は、広告はり、テラスの広告、ガラージュなどの作品が展示されていた。ユトリロの影響を強く感じるが、広告の文字の表現など、独自の絵画世界を築き始めているようにみえる。
もう少し、長く生きていれば、成功できていたかもしれないが、体と精神がそのプレッシャーにもたずに、わずか30才で、セーヌ県の精神病院で亡くなった。
多くの日本人画家が憧れたパリは、第2次世界大戦などの影響によって、芸術の都という地位を、海の向こうのニューヨークに奪われた。
1940-1945年という時代は、日本人が、近代国家を目指して、そして挫折した時代でもあった。それは、西洋絵画を必死に学んだ日本人画家達の試みに対しても、言えることかもしれない。
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