2013年9月28日土曜日

アンリ・ルソーから始まる(世田谷美術館)

東京、用賀の世田谷美術館で行われた、その収蔵作品による素朴派およびアウトサイダー・アートを紹介する展覧会。

アンリ・ルソーから始まる、ということで、会場の最初のコーナーは、ルソーの特別ルームという趣で、うやうやしく、ルソーの3枚の絵が飾られていた。

イタリアで靴のデザイナーだったオルオネーレ・メテルリが、ジョルジョーネの嵐、を模写してオマージュを表した作品。

メテルリは、靴のデザイナーとしては、国際品評会の審査員をするほどの実績があった人物だったという。

このジョルジョーネのあまりにも有名な作品には、世界中の学者たちによって、様々な解釈がなされている。このメルテリの作品は、”むずかしいことをいろいろ議論するより、単に、この絵をマネして描いてみたら?”と言っているようにも見える。

同じくイタリア人のクラーリー・シトロエン。60才になってから絵を書き始め、80才で亡くなるまで、身近な花瓶の花の絵などを書き続けた。

背景を描かず、ただ小さな花々だけを、シンプルに描いたそうした作品には、作家の穏やかな性格、暮らしが、よく表れているように見える。

草間彌生、山下清、バスキアなどのポピュラーな作家たちの作品も展示されていたが、どうしても、あまり耳にしたことのない作家の作品に、自然と目がいってしまう。

久永強も、60才を過ぎてから絵を書き始める。ある時、香月泰男のシベリア抑留の絵を見て、自分がそこにいたときの、封印したはずの記憶が鮮明に蘇り、その記憶を、多くの作品として描いた。

痩せ細った自分の姿、亡くなった友人、その友人を埋葬する場面、自分たちを苦しめた看守などの30ほどの作品が、久光の言葉とともに、展示されていた。

それらは、絵画、というよりは、記録、あるいは、歴史、といった方がいいのかもしれない。

修道院で働いている時に、”絵を描きなさい”という神の声を聞き、生涯にわたってを描き続けたセラフィーヌ。彼女が描いた枝、という作品。真っ黄色な背景に、斜めにつぼみと花がついた枝が描かれている。

戦争で心を病んでしまったカルロ・ジネッリの作品は、まるで、古代や中世の人々が描いた、神話の世界を描いた壁画のように見える。

素朴派、あるいはアウトサーダーズといわれる人々の作品には、人間が絵を描くということはいったいどんなことなのか、という問いへの、本質的な答えが隠されているように思えてならない。

コスモスー写された自然の形象(東京都写真美術館)

恵比寿の東京都写真美術館の平成25年度のコレクション展、最後となるパートⅢでは、中国の五元思想にヒントを得て、会場を、木・火・土・金・水、の5つのコーナーに分けて、それぞれの対象を写した写真を紹介した。

アリストテレスは、すべての芸術は自然を模倣したものだ、と言ったが、写真という表現形式では、その自然のイメージを、そのまま切り取って提示することができる。

木のコーナーでは、森の風景、花の接写、木造建築の写真などが展示された。

エリオット・ポッターが、ニューハンプシャーで、楓、白樺、樫の樹木を写したカラー写真。秋の色ついた木々が、重なっている。その色があまりに鮮やかで、まるで、マチスの絵画の用に、森の中の遠近感が全く感じられない。

石元泰博による古書院の内部を写した写真。和室の障子、畳などの線が、部屋の奥の中心点に対して、完璧な対称になるように、撮影されている。

人間の感覚は、そうした対称となっているイメージを見ると、何とも言えない安定感を感じる。写真家は、時にその対称を写したり、わざと対称をずらしたり、崩したりして、独自の世界を構築しようとする。

火のコーナーでは、火山などの自然の風景を写した写真も多少あったが、ほとんどは、祭における火、焚き木、囲炉裏の火、町の灯り、などの人間が作り出した火の写真。

人間という生物は、他の生物が忌み嫌う、この火というものを使いこなそうとした生物なのだ、ということが、そうした写真から伺える。

しかし、究極の火、ともいえる原子力という技術を、まだ人類は、上手く使いこなせず、その副作用は、多くの人を苦しめている。

土のコーナーでは、広大な大地を写した写真、人間が耕作した畠や田んぼの写真など。

アンセル・アダムスのデスバレーの砂漠を写した写真。モノクロで、光の部分と影の部分の対比が美しい。自然の景色そのままのようにも見えるが、その対比は、暗室で作られたのだろう。

金のコーナーでは、金そのものよりも、金属、工場、工場から生み出された工業製品などの写真が多かった。

そこは、自然にはあまり存在しない、直線の世界が並んでいた。しかし、直線は、なぜか見るものに安心感を与える。菊地仁の何枚かの写真は、特にそのことを意識した作品だった。

最後の水のコーナーは、海や川を写した写真が多かった。人間にとって、海や川は、通り道であり、魚などの海産物を穫る恵みの源でもあった。

こうして、自然を写した写真をまとめて見てみると、そこに写されていたのは、自然の姿そのものというよりは、その自然と、人間はどのように関わってきた、ということの記録のようにも見えた。

2013年9月23日月曜日

国宝 興福寺仏頭展(東京芸術大学大学美術館)

興福寺は、何度か訪れたことがある。この展覧会で展示された、興福寺仏頭も、ずいぶんと前だが、見た記憶がある。

この数奇な運命を辿ってきた仏頭は、会場の3階のやや奥まった場所の、高い所で、スポットライトを浴び、祀り上げられるように、展示されていた。

白鳳時代、天武天皇の治世14年、西暦で言えば685年に製作された、と考えられているこの仏頭は、あまりに多くのことを見てきすぎた。

謀反の疑いを受けて自殺した、蘇我倉山田石川麻呂の供養のために山田寺建てられ、その後、平重衡によって興福寺が焼き討ちにあった後に、復興を急ぐ興福寺の僧兵によって、山田寺より略奪された。

仏頭自体は、丸顔で、仏様というよりは、自分の未来を見つめている少年のように見える。蘇我倉山田石川麻呂の顔を映したのかもしれない。

その仏頭の見下ろす場所には、この展覧会のもう一つの目玉、同じくの国宝の十二神将立像が、それぞれの小さなブースに収まって展示されていた。13世紀、鎌倉時代に作られたもの。

来場者は、それぞれのブースの周りをぐるりと回り、すべての立像を360度鑑賞することができる。

仏や菩薩については、仏典でその外観が規定されていることがよくあるが、この十二神将についてはそうした記述は一切無く、製作者の意図で、どのような姿にも作ることができる。

直立する神像、体をくねらしている神像など、すべてが違ったポーズ。特に、伐折羅大将は、剣を振り上げ、見上げる人を睨みつけ威嚇している。迫力は満点。

同じ十二神将だが、東金堂の壁面に作られた板彫のものも展示されていた。こちらは、少し前の時代、11世紀の平安時代に製作された。

立像と同じ神将を比べて見ると、ポーズも表情も異なっている。作られた時代や作る人によって、解釈が違っていることがよくわかる。

興福寺は、法相宗の寺。インドの世親によってまとめられた唯識の思想を、玄奘三蔵の弟子、慈恩大師が法相宗として体系化した。その教えを、遣唐使として唐を訪れた、玄昉という不思議な僧侶が日本に持ち帰り、興福寺に伝えた。

唯識の思想では、この世はすべて人間の思想が生み出したもの、という考え方をしている。その唯識の思想を広めている寺が、美しい仏頭や十二神将像を大切に伝えているということは、何とも皮肉な感じがしないでもない。

2013年9月22日日曜日

プーシキン美術館展 フランス絵画300年(横浜美術館)

横浜美術館で開催されたプーシキン美術館展。

2011年の秋に開催される予定だったが、東日本大震災の影響で延期され、2年後になってようやく開催された。

会場の入り口に、ニコラ・プッサンの、アモリびとを打ち破るヨシュア、という1メートル四方ほどの作品が展示されていた。

プッサンが1624年、30才の時に、パリの政治的な争いに疲れローマに移った時に描かれたといわれる作品。ラファエロらの作品を参考にしたといわれている。

以降、プッサンは二度と故国のフランスには戻らなかった。フランスのロココ美術を代表する画家だけに、その経緯は意外に感じられる。

この絵画も、エカテリーナ女帝によって購入され、ロシアに渡った。この展覧会を象徴するように作品を最初に持ってくるあたりに、企画の意図が感じられる。

フランソワ・プーシェの、ユピテルとカリプソ。女神ユピテルがカリストを誘惑している場面。その二人の肌の色は、薄くピンクがかった白で、何とも言えず美しい。これぞ、フランスのロココ絵画、といった感じ。現実感が感じられず、王侯貴族のための、美のための美の典型だ。

アングルの、聖杯の前の聖母。アングルらしい、濃厚なこってりしたフランス料理のような絵画。聖母が聖杯の前で手を合わせ、伏し目がちに聖杯を見つめている。聖杯の上には、メダルがまっすぐに立っている。現実的にはあり得ない様子は、ある種の奇跡を描いているのだろう。

ドラクロアの、難破して。濃い緑色で描かれた荒海を進む、一艘の小舟。難破した人々が、ある人は他人を助け、ある人は、負傷して縁に寄りかかっている。小品ながら、ドラクロアを象徴するような作品。

ヴィヤールの、庭。庭の中央にあるイスに、二人の女性が座って話をしている、というだけの作品。ヴィヤールは、形よりも、この絵を色の集まりとして描いている。しかも、色は、灰色や、くすんだ色合いの青や緑を使っている。

それなのに、この絵は、実に美しい。絵といより、色のコンビネーションを表現した、文様のようにも見える。ヴィヤールは、まさに色の魔術師だ。

モーリス・ドニの、緑の浜辺、ペロス=ギレック。縦1メートル、横2メートルの色鮮やかなキャンバスに、思わず声を上げそうになった。

人の肌をピンク色で描く、ドニの独特の色彩感覚。しかし、印象的なのは、遠くに見える空と海の青だった。全面の人々の姿は、伝統的な人間のポーズ、あるいはゴーギャンの絵の中のあるポーズのように見える。

マチスの、カラー、アイリス、ミモザ。マチス独特の平面的で、塗り絵のような花の絵。モロッコを訪れた後に、ロシア人のコレクター、シチューキンの部屋を飾るために描かれた。

ロシアの美術館の展覧会で、フランスの300年に渡る絵画の流れを見ることができるというのは、考えてみれば、不思議なことだ。

ロシア料理が、フランス料理を影響を与えたり、フランスで発展しながら忘れられたバレエが、ロシアで復活されたり、といったこの2つの国の関係は、ヨーロッパのある一つの側面を感じさせる。

中村不折コレクション 江戸ワールド(書道博物館)

中村不折の旧宅跡地にある、書道博物館。そこで、およそ3ヶ月、3期に分けて開催された、中村不折コレクション 江戸ワールド。

受付のすぐ近く、1階の一番奥に、一つの文字が、人の顔ほどあろうかという、大きな字で書かれた、克己復礼の文字。

己に勝つ、その上で、礼儀を振り返れ、という意味だろうか。現代に住む人々が、忘れてしまっていることのようだ。

江戸城の松の廊下で、主君の浅野内匠頭が、吉良上野介に斬りつけた、という事件の一報を、赤穂にいる大石内蔵助に知らせた、片岡源五右衛門の手紙。

現代であれば、電話やメールで知らせるようなことを、当時は手紙で伝えた。手紙には、それを書いた人の気持ちが、にじみ出ているように見える。

徳川家康はじめ、代々の徳川将軍に仕え、儒教の普及に貢献した林羅山の行書五言絶句軸。その文字の印象は、とても柔らかく、政治の世界に生きた人間の書とは、とても思えない。

小林一茶の2つの俳画軸。決して、達筆とは言えないが、素朴で実に味のある書。そして、一筆書きのように、自らの姿をシンプルに描き、画も一茶、と書き加えている。

良寛の書。草書で書かれた二つの七言絶句の掛け軸。いずれも、よく知られた良寛の独特の書。何が書いてあるか、全くわからない。

同じ良寛の書巻には、あいうえお・・・とひらがな五十音が書かれている。こちらは、誰にでもわかる文字で書かれている。

徳川光圀の草書七言二句軸。草書とあるが、一字一字をしっかりと、書き切っている。機をてらわない、光圀という人物の性格が、よく現れている。

寛政の改革を行った、松平定信の楷書「楽則」軸。楽しいこと、を書き連ねた書。月夜を歩く、名君が治める国に住む、朝に鳥の声を聞く・・・などの言葉が並んでいる。厳しい政治家の別な側面が垣間見える。

井伊直弼の行書五字軸。筆にたっぷりと墨を染み込ませ、太くはっきりとした字で書かれた書。期せずして彦根藩の藩主となり、その後、時代の変わり目に江戸幕府の大老を務め、桜田門外に無念の死を遂げた。その真っ直ぐな性格が、字からも見てとれる。

谷文晁に絵を学んだ渡辺崋山。その草花図軸は、その波乱の人生が想像できないほど、繊細で美しい。

伊藤若冲の描いた松尾芭蕉。薄墨で、実に当たり前に芭蕉を描いている。個性的な若冲のイメージからは、想像できないような、あまりに普通な水墨画。若冲の別な側面を見た気がした。

正岡子規が、この博物館を作った中村不折に書いた手紙が展示されていた。友人のために、不折に絵を書いてくれないか、と依頼している。今日に読んでも、十分に読めるほど、わかりやすい字で書いている。

この博物館の隣には、子規が住んでいたという子規庵がある。今は、ラブホテル街となってしまったこの辺りは、かつては、違った雰囲気の町だったのだろう。

3ヶ月に渡り、3度訪れたこの展覧会。江戸時代の武士、宗教家、文人、僧侶、俳人など、様々なひとびとが書いた書を見た。

文字通り、書は、その人をよく表す。

2013年9月21日土曜日

ルーブル美術館展 地中海四千年のものがたり(東京都美術館)

東京、上野にある東京都美術館で開催された、ルーブル美術館展は、少し趣向が変わっており、特定の画家や、時代をテーマにして物ではなく、地中海という広い地域の四千年の歴史を、出土品や美術品で振り返るというもの。

ルーブル美術館にある、8つの美術部門がすべて関係した初めての企画であるという。

あまり有名な画家や芸術家の作品は、それほど多くは展示されていない。ほとんどは、古代から中世にかけて、地中海の各地で製作された食器や彫像などの工芸品だった。

その意味では、個々の展示品を楽しむというよりは、それらの全体を通じて、地中海とはそこに暮らす人々にとってどんな場所だったのか、を振り返る、そんな内容の展覧会だった。

古代の地中海地域において、最初に大きな文明を築いたのはエジプトだった。そのエジプトから、海を通じて、様々な物や、イメージが地中海一帯に広がっていった。

ロドス島やキプロス島で発掘された、エジプトの神々をかたどった様々な彫像。古代のガラスはまだ透明ではないが、やはりエジプトなどの中東地域や、地中海の島々から見つかっている。それらの品々は、当時の地中海の状況を、わずかながら、現代に伝えている。

エジプトが衰退すると、ローマとフェニキア人のカルタゴが、地中海の覇権をかけて争った。最終的にはローマが勝利を収め、カルタゴの痕跡を徹底的に消し去ってしまった。

カルタゴが、いかに巨大な存在であったかと言うことが、現代では、よくわからない。北アフリカのチュニジアやモロッコで発掘された石碑などの出土品が、わずかにその面影を伝えている。

勝者のローマは、数多くの大理石の彫刻を、現代にまで残している。私たちが知っている歴史は、あくまでも勝者に歴史であるということが、その立ち並んでいる大理石の銅像から、痛いほど、思い知らされる。

そのローマも衰退の時期を迎え、7世紀には、アラビア半島に起こったイスラム勢力が、地中海の南地域と、スペインのほとんどをその勢力下に治めた。

偶像崇拝が禁止されたイスラム工芸の、その幾何学的な模様が、実に美しい。そうした模様を見ていると、人間や実際の景色を描いた偶像が、いかに不完全であるのか、ということがよくわかる。

キリスト教国とアラビア勢力の間で争われた戦いの中で、地の利を生かし、地中海の主となったのは、小国のヴェネツィアだった。この時代になると、ようやく絵画が登場してくる。

やがて、オスマントルコがコンスタンチノープルを征服し、地中海の覇者となった。スイス人のリオタールという画家は、ナポリからイスタンブールにかけて旅行し、そのままインスタンブールに止まって、その地の人々の姿などを描いた。

当時のヨーロッパは、オスマントルコの脅威に怯えながらも、トルココーヒーや、エキゾチックな文化などを楽しんでもいた。また、トルコ人がヨーロッパの工芸品を好んだこともあり、工芸品の輸出先でもあった。

会場の最後の方に、コローやシャセリオーのオリエント趣味の絵画が展示されていたが、それまでに目にした様々な古代や中世の工芸品や彫像などを目にした後では、そうした作品が、あまり心に入ってこなかった。

2013年9月16日月曜日

清雅なる情景 日本中世の水墨画(根津美術館)

根津美術館が所有する、14世紀から16世紀にかけての水墨画を展示した展覧会。

啓釈という15世紀の画僧が描いた、一葉観音図。一枚の葉っぱの上に、子供のような白衣観音が乗って、海の上を漂っている、という不思議な水墨画。

そのかわいらしい観音様は、江戸時代の白隠や仙厓に通じるものがある。

日本の水墨画の祖、周文の筆と伝わる、江天達意図。画面の左下には、川沿いに建てられた小さな家、そして右上の遠景に、対岸の山がぼんやりと描かれている。周文により描かれたと言われてきたせいか、その上部には、なんと12人による賛が書かれている。

拙宗等揚の山水図と破墨山水図。この拙宗等揚という人物は、現在では、雪舟の若い時の画号であると考えられている。雪舟は、京都の相国寺において、周文の元で水墨画を学んだ。

その破墨山水図は、長く牧谿の作品と考えられていた。大雑把に描いた部分と、木の枝を細かい筆先で描いた部分が混在する、何とも不思議な水墨画。

芸阿弥の観瀑図。芸阿弥は代々足利将軍に仕え、明の国からもたらされた芸術品の管理も任されていた。流れ落ちる滝壺の奥に小さな庵があり、そこに老僧と童が向かい、細い橋を渡って向かっている。

芸阿弥の弟子に当たる、賢江祥啓は、鎌倉・建長寺に務めていた。その祥啓による山水図は、滝こそ描かれていないが、その他の構図は芸阿弥の作品にそっくりで、その絵を写したことが明らかに見て取れる。

その祥啓による人馬図。こちらは水墨画ではなく、色鮮やかに彩色されている。芸阿弥に学んでいる際に、明からもたらされた絵画を写したと思われる作品。中国の絵画は、細い線を使い、馬のたてがみ、人間の髭などを繊細な表現で描いている。

直接の弟子ではないが、雪舟を慕い、その名前の一字をとった雪村周継。その龍虎図屏風は、竜と虎を向かい合わせた屏風に描く伝統的な構図。日本人にとっては、龍も虎も、未知の生き物だった。そのせいか、いずれも、どこかユーモラスに感じられる。

やがて、水墨画の流れは、狩野派という大きな流派を作り出していく。その祖、狩野正信の筆と伝わる観瀑図と、その子の狩野元信の筆と伝わる、養蚕機織図屏風。後者は、六曲二双の屏風に、蚕を育てる所から、織物にするまでを、山水画の世界の中に描いている。

等春の杜子美図。等春は、雪舟の弟子といわれ、加賀の地で活躍した。その等春を師と仰いだのが、狩野派のライバルとなる長谷川等伯だった。

この杜子美図は、一人の官吏が、小さな馬に乗って、悠々と山道を進んでいる。しかし、人物と比べ、馬が余りに小さく、重い人間を背負っている馬が気の毒になって、思わず笑ってしまう。

この展覧会で展示された水墨画の作品は、全部でわずか50点弱ながら、日本の水墨画の流れを概観できる、有意義な内容の展覧会だった。

2013年9月15日日曜日

ミケランジェロ展 天才の軌跡(国立西洋美術館)

東京、上野の国立西洋美術館で開催された、ミケランジェロについての展覧会。

今年は、ラファエロ、ダ・ヴィンチ展が開催され、このミケランジェロ展で、ルネサンスの3巨匠の展覧会が揃って開催されたこととなった。

ラファエロ展では、数多くの油絵が展示され、ダ・ヴィンチ展では、完成品ではないが、音楽家の肖像画と、多くの手記が展示された。

残念ながら、それに比べると、このミケランジェロ点では、15才の時の小さな彫刻が一つ、あとは、断片的なデッサンがほとんどで、内容的には、ラファエロ、ダ・ヴィンチ展に比べると、やや期待はずれな内容だった。

入り口の近くに、マルチェロ・ヴェヌスティという画家が描いたミケランジェロの肖像画が飾ってあった。ミケランジェロ自身は、肖像画を一枚も描いていない。

面白いことに、ライバルと目されたダ・ヴィンチも、肖像画を残していない。しかし、二人を慕っていたというラファエロは、何枚か肖像画を描いている。

ミケランジェロの代表作、システィーナ礼拝堂の壁画。そのデッサンが何枚か展示されていた。しかし、それらは、本当に断片としかいえないものばかり。

実は、ミケランジェロは、自分のデッサンをすべて処分していた。最終的な完成作品以外が、人の目に触れることを嫌ったという。そこに展示されていたのは、何らかの形で、本人の手を離れたものだった。

ミケランジェロが、法王や自分の親類に送った手紙の数々。ミケランジェロというと、気が強く、ワイルドなイメージが強いが、いずれの手紙も、一文字一文字をはっきりと、丁寧に書いて、その几帳面な性格が伺える。

今回の展覧会の目玉ともいえる、階段の聖母、という60センチ、40センチ大の大理石のプレートの彫刻。

この作品を作った時、ミケランジェロはわずか15才だった。先人のドナテッロの作品を学びながら彫ったとという。

この展覧会から垣間見えたミケランジェロという人物は、ただひたすらに、作品と向き合い続けた、一人の芸術家の姿だった。

ル・コルビュジエと20世紀美術(国立西洋美術館)

東京、上野の国立西洋美術館は、ル・コルビュジエが設計した建物で知られるが、そこで開催された、ル・コルビュジエの芸術家としての側面にフォーカスをあてた展覧会。

ル・コルビュジエは、午前中は絵画を描くなどの芸術家の活動に時間を使い、午後になると、設計事務所で建築の仕事を行った。その習慣は、修正変わらなかった。

ル・コルビュジエにとって、絵画とは、物の形を把握するために必要な活動で、その経験が、建築の分野にも活かされる、と自ら語っていた。

若いスイス人の建築家だったル・コルビュジエを、絵画の世界に引き込んだのは、1才年上のアメデ・オザンファンだった。

その時、ル・コルビュジエは、まだシャルル=エドゥアール・ジャンヌレという名前だった。後年、ル・コルビュジエと名乗ることになるが、実は、そう名付けたのは、このオザンファンだった。

オザンファンのカラフを描いた作品を見ると、平面的で、陰翳をまるでつけないその彩色法などに、20世紀初頭のパリの芸術の流れが感じられる。

1918年にル・コルビュジエが、コーヒーポットやワイン、テーブルなどを描いた作品は、実に簡潔に、しかし対象を忠実に描いている。

やがてル・コルビュジエが建築家として有名になるにつれ、二人の関係は疎遠なものになっていった。

ル・コルビュジエは、フェルナン・レジェなどの画家たちと親しくなっていく。そして、描く絵画も、レジェ風の作品が増えていく。

また、素朴派で知られるアンドレ・ボーシャンの絵画に早くから目を付けて、その名が知られる前から、絵画を購入し、自らが主宰する雑誌『レスプリ/ヌーヴォー』でも紹介し、自宅の寝室に飾っていた。

会場には、ル・コルビュジエ財団が所有するサン=ブリスの嵐、という作品が展示されていた。その絵を見る限り、ル・コルビュジエ自身は、直接は、ボーシャンの作風に影響は受けなかったようだ。

戦後、日本がフランスの没収されていた松方コレクションを返還されることになり、そのコレクションを展示する美術館の設計の依頼がル・コルビュジエの元に来る。

ル・コルビュジエは、自分が暖めていた無限美術館というコンセプトを実現すべく、その設計に取り組んだ。

会場には、その設計の模型が置かれていたが、今日、私たちが目にする美術館とは少し違っている。ル・コルビュジエは、一度だけ現地を訪れ、その後は自分のスタジオで設計していたようで、彼の設計は、実際の敷地のサイズを越えてしまっていた。

ル・コルビュジエは、建築や絵画といった様々な要素が、芸術として統合することを理想とし、自ら設計した建築に、タピスリーや壁画を組み合わせていた。

会場には、奇妙な鳥と牡牛、というタピスリーや、自らが設計した、インドのチャンディガールの高等裁判所に飾るタピスリーの習作などが展示されていた。

彼の頭の中には、ルネサンス期におけるような、総合芸術のイメージを、現代の技術を使い、その社会環境の中で、実現したいという考えがあったのかもしれない。

これまでは、ル・コルビュジエは、建築家としてしか見ていなかったが、彼自身は、実際は、もっと大きな視点で、自分自身の活動を捉えていたということが、この展覧会から伺えた。

2013年9月8日日曜日

幽霊・妖怪画大全集(そごう美術館)

横浜のそごう美術館で、江戸時代の幽霊・妖怪画を展示した、夏らしい展覧会が行われた。

幽霊というと、うら若い女性が、半身で恨めしそうにこちらを睨み、その足は霞のように消えかかっている。

このイメージは、円山応挙が最初に描いたとされるが、実は、完璧に検証されているわけではないようだ。会場には、伝円山応挙ということで、何枚かのそうした絵が展示されていた。

その後には、まるでその伝円山応挙をコピーしたような、同じようなパターンの幽霊画が延々と、これでもかというくらい、並べて展示されていた。

続いては、歌舞伎を描いた浮世絵に描かれた幽霊のコーナー。八百屋お七、お岩、お菊などの、歌舞伎の出し物でお馴染みの面々が、歌川国貞、国芳らの手によって、描かれている。

円山応挙らの絵師の絵の中ではワンパターンだった幽霊たちが、そこでは、実に様々なシチュエーションの中で、水を得た魚のように、生き生きとしている。

演じている役者の顔として描かれているので、その表情も多彩だ。

後半は、百鬼夜行図をその大元とする、様々な妖怪のイメージ。鬼や天狗を始めとしたいろいろな妖怪たち。どうしても、何かの動物をイメージしてしまうのは、仕方ないだろう。

この展覧会では、一度作られたイメージが、一人歩きして、いろいろな画家や絵師の中に生き残っていく過程を、目の当りにすることができた。

アートがあればⅡ Why not live for Art? II (東京オペラシティアートギャラリー)

東京オペラシティアートギャラリーで、個人のアートコレクターに焦点を当て、9人の個人コレクターの収蔵品を、9つのスペースに分けて紹介するという、珍しい展覧会が行われた。

まず気になったのは、この展覧会の題名。日本語で、アートがあれば、とあるが、英語では、Why not live for Art?、とちょっとニュアンスが異なる。

サブタイトルも、日本語では、9人の個人コレクターによる個人コレクションの場合、だが英語では、9 collectors reveal their treasures、といった具合。

それぞれの言葉は、翻訳ではないようだ。そのセットで、題名とサブタイトルを表しているのだろう。

各スペースには、展示されている個々の作品とは別に、全体の空間として、明らかに違いが感じられる。その違いが、コレクターが作品を購入する際の基準の違いを表している。

中には、村上隆、奈良美智、荒木経惟、マン・レイといったポピュラーな作家の作品もあるが、それほどメジャーではない、現在も活躍している作家の作品が多い。

個人で購入できるアート作品ということで、限られた予算の中で、自分の趣味に合う作品を見つける、という個人コレクターの行動様式、とでもいうものが感じられる。

通常の展覧会では、個々の作品を味わい、それを作成した作家に思いを馳せる。しかし、この展覧会では、それを描いた作家よりも、それを購入したコレクターの趣味やキャラクターを想像する。

何とも不思議な内容の展覧会だった。

竹内栖鳳展 近代日本画の巨人(東京国立近代美術館)

東京の竹橋にある、東京国立近代美術館の企画展というと、最近では、フランシス・ベーコン、ジャスパー・ジョーンズ、ゴーギャン、パウル・クレーなど、西洋の近代から現代に向けての作家をテーマにしたものが多かった。

はじめに、この企画を目にした時、”えっ?”と思った。

会場に入ると、作品がガラスのケースに収められており、直接キャンバスと対面できる、上記の西洋の画家たちの場合との違いに違和感を覚えた。

竹内栖鳳は、幕末の京都に生まれ、明治維新後に絵を始めた。始めは、四条派の師の元で学んだが、次第に、狩野派や円山派などの技術も貪欲に習得するようになった。

初期の百騒一睡などの作品には、そうしたいくつかの手法が、同じ作品の中で同時に使われている。

そして、1900年には、パリの万国博覧会を訪れるためにヨーロッパに行く機会を得て、西洋の画家たちの手法を学ぶと同時に、そこに描かれている対象を、実物を見る機会にも恵まれた。

その際に、動物園のライオンを実際に観察したことから生まれた、大獅子図などの数々。

それまでの日本画の画題の定番だった虎の図においては、実際に虎を観察して描かれたものはなかった。円山応挙でさえ、中国の絵や、ネコの観察からの想像で、虎を描いていた。

竹内栖鳳という画家は、いつの時代に生まれても、名作を残していたかもしれないが、幕末から明治初期にかけて、若き日々を過ごしたということは、おそらく、この画家の生涯に、決定的な影響を与えた。

栖鳳は、膨大なノートを残している。そのノートからは、興味のある対象を、それがどんなもので、どのように描こうか、という栖鳳の姿勢が伺える。

ローマの郊外にある水道橋を描いた、羅馬之図。水道橋が、夕日の霞の中で、幻想的にぼんやりと浮かび上がっている。おそらく、実際の水道橋はこのようには見えないだろう。栖鳳は、ヨーロッパの風景を、日本の湿気が多い霞の中に再現したかったのかもしれない。

完成しなかった、京都の東本願寺の太子堂門の天井画のためのスケッチや練習作の数々。栖鳳は、天女を描くために、東京から女性のモデルを呼び寄せた。

いろいろなポーズのスケッチがある。栖鳳は、全体の天井画を、いくつかのパーツに分けて、それぞれを別々に完成させていこうとした。それは、若き日に、いろいろな流派の手法で描いたパーツを元に、絵を完成させた発想と同じだ。

会場の最後の、回廊のような展示スペースには、晩年に栖鳳が描いた作品が並んでいた。

ネコやイヌ、ウサギなどの、身近な小動物の絵が多い。対象を、じっとみつめる栖鳳の視線が、どの作品からも感じられる。

竹内栖鳳という、このとてつもない画家は、その生きた時代と、その膨大な観察とによって生み出されたのだった。

2013年9月7日土曜日

写真のエステ 写真作品のつくりかた(東京都写真美術館)

東京都写真美術館のコレクション展の第2段。

アングル、焦点、光のあつかい、暗室作業、という4つのテーマで、写真家が、どのように作品を作り上げるか、を紹介する展覧会。

対象をどのアングルで撮影するか。森山大道の電線(品川)という作品では、何気ない街中の電線を、下から思いっきり見上げたアングルで撮影し、見たことがないような世界を、作り上げている。

焦点というテーマの中では、田沼武能の浮浪児、浅草にて、という作品が、強烈な印象を残した。1951年に撮影された、その浮浪児の顔は、典型的なモンゴロイドの顔。写真以外の方法で、その表情を表すことはできないだろう。

光のあつかいというコーナーでは、白黒写真とは、ようは光を写したものだ、ということがよくわかる。

福田勝治の光る女体。モデルの女性の顔に光を当てて、体には、そのシルエットだけに光が当たるようにしている。影になっている胸の部分は、写っていない分だけ、逆に存在感が大きくなっている。

最後の暗室作業というコーナーでは、写真は、シャッターを押した時に作られるのではなく、暗室での現像作業で作られる、ということが、数々の名作から、痛感させられる。

アンセル・アダムスのヨセミテ公園を写した作品。自然の雄大さを、これでもかと訴えかけるその作品は、暗室での念密な現像作業から生み出された。

マン・レイの眠るモデル。眠っているモデルが、夢の中で見ている世界を再現たような、不思議な世界を、そのプリントの中に作り上げている。

これから写真を始めようとする人や、フツーの写真から、一歩抜け出したいとおもっているひとには、多くのヒントを与えてくれる、そんな内容の写真展だった。


2013年9月1日日曜日

速水御舟 日本美術院の精鋭たち(山種美術館)

速水御舟を中心に、横山大観、下村観山、菱田春草、今村紫紅、小茂田青樹、安田靫彦、小倉遊亀など、山種美術館のコレクションによる、日本美術院の画家たちの展覧会。

今村紫紅は、横山大観による朦朧体が主流を占めた、当時の日本画において、中国の影響を受けた、南画の鮮やかな色と線を持ち込んだ。

今村紫紅の早春という作品は、早春の農村の風景が、しっかりと縁取りされ、鮮やかな色合いで描かれている。

大観は、はじめは拒否反応を示したが、今村紫紅の弟格に当たる速水御舟や小茂田青樹は、その影響を受け、自分の絵画に取り込んで行った。

速水御舟の翠苔緑芝という、金箔の屏風の上に、鮮やかな緑を中心とした色合いの作品。右の屏風には黒い猫が、左の屏風には、白いウサギが、対象的に描かれている。

あけぼの・春の宵という2つの小品がセットになった作品で、速水御舟は、その驚きべき筆さばきを見せる。

あけぼのでは、ピンク色ともオレンジ色ともつかない曙の空に、木の枝が黒いシルエットとなって浮かんでいる。その木の枝の細かさは、神業と言う他ない。

春の宵という作品でも、宵というよりすでに日が落ちて暗くなった景色の中で、桜の花が静かに散っている。その小さな花びらの一枚一枚を、速水御舟は丹念に描いている。

白芙蓉という作品では、大きな芙蓉の花の後に、花の幹が右下から左上に、微妙な曲がりで描かれている。安田靫彦は、その幹の描き方を見て、速水御舟の線の描き方の尋常のなさを実感したという。

小倉遊亀の2対の2双の屏風絵。右には黒い着物の舞子、左には紫の衣装の芸者が描かれている。右の舞子は、ちょうど動きを止めた静の舞。左の芸者は、まさにこれから舞おうと、右腕を大きく上げた、動の舞。

山種美術館の代表的な収蔵作品、速水御舟の炎舞。闇の中で、炎が勢いよく舞い上がり、その周りを、蛾が舞っている。

その闇に炎の火の粉が舞い、独特の色合いを醸し出している。速水御舟自身、この色は、2度と描くことはできない、と語ったという。

2014年に、院展が再興100年を迎えることを記念したこの展覧会は、その歩みの偉大さを、華麗に描き出していた。

レオナール・フジタ展(Bunkamuraザ・ミュージアム)

渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで行われた、藤田嗣治、レオナール・フジタの展覧会。ポーラ美術館の収蔵品が中心。

藤田の作品にはネコがよく登場する。藤田が好きで飼っていたのだが、その描き方をよく見ると、シッポなどの毛の一本一本を丹念に描いている。

ネコという画材は、藤田の絵画の特徴である線の表現が、実に効果的に利用されている。藤田がネコをよく描いたのは、決して、好きで飼っていたから、だけではないだろう。

藤田の白といわれた、その独特の白は、シッカロールから作られた、タルクというものをキャンバスに塗り付けて、実現された。

藤田のキャンパスに描かれた線は、普通のキャンバスに描かれた線と、明らかに違っている。日本人の器用さから生み出された、藤田の独特の線描写は、その特別なキャンバスの上で、誰にもマネすることのできない、藤田だけの世界を生み出していった。

白いベッドに、ヌードの金髪の女性が、上を向いて横たわる、仰臥裸婦。左隅にネコがちょこんと描かれている。アングルやマネの同じ題材の作品を踏まえた上で、念密な構成の元に描かれている。

ポーラ美術館のコレクションは、子供を描いた作品が多いこと。

藤田の描く子供は、決してかわいらしいだけの子供ではない。どこか、いじわるな感じがする、独特な表情。特に少女は、目の目の間が広く、目は丸々しているが、目尻がつり上がっており、ネコ目のようにも見える。

浮世絵に描かれる子供も、決して可愛くはない。藤田は、もしかしたら、そのイメージを持っていたのかもしれない。

誕生日という作品。12人の子供が、大きな丸いテーブルに座っている。中央にはバースデーケーキが置かれているが、テーブルが余りに大きく、誰もケーキに手が届きそうにない。

12人の食事風景というと、勿論、これは最後の晩餐のパロディになっている。藤田の独特なユーモア感覚が、よく現れた作品だ。

いろいろな職業を、小さなタイルの上に、1つづつ描いた、プティ・メティエ(小さな職人たち)、というシリース画。

子供を使って、床屋、靴屋、肉屋などを、描いているが、それぞれの職業を表す背景と小道具が、実に見事。職業を表すフランス語が書かれているが、その絵を一見するだけで、文字をみるだけで、その職業がわかる。

藤田の画家としてのセンス、技術の高さが、遺憾なく発揮されている。こちらも、日本にある職人絵をヒントにして描いたのかもしれない。

西洋画の伝統がない日本から、芸術の都であるパリを訪れ、そこで成功した藤田。藤田の絵画には、ヨーロッパの絵画の画材やテーマの背景に、日本の伝統的な手法やイメージが隠されている。

浮世絵 第3期:うつりゆく江戸から東京(三菱一号館美術館)

東京の三菱一号館美術館の浮世絵の企画展の第3期は、幕末から明治にかけての浮世絵とその終焉。

ご存知、広重の名所江戸百景。橋の欄干や鯉のぼりなどを、大胆に画面の前面において、その隙間から、後方の景色をのぞかせる、という革新的な手法。何度見ても、その発想の素晴らしさには、感心させられる。

そして、そこに描かれているのは、日本橋、浅草、深川、両国、虎ノ門など、東京に暮らす自分には、お馴染みの地名。しかし、その風景は、それが現在の場所と同じだとは思えない。全く変わってしまっている。

名所江戸百景が刊行されたのは、1856から1858年にかけて。明治維新のわずか10年前。広重は、文字通り、最後の江戸の姿を記録し、後世の人々に、伝えた。

文字通り、それらは、浮き世であった。

開港した横浜や、明治維新後の江戸を描いた浮世絵の多くは、何枚かの浮世絵を繋げたパノラマが多い。広重や北斎のような、大胆な構図は影を潜め、それまでの日本にはなかった、新しい風景を忠実を描こうとしている。

最後の浮世絵師と言われる、小林清親。江戸時代の浮世絵とは全く違い、ヨーロッパ的な手法が、随所に使われている。

芳年による、まるで江戸時代のような美人画が刊行されたのは、なんと明治20年以降。浮世絵というと、明治維新後にすぐに消えてしまった、というイメージが強かったが、そうではなかった。

しかし、明治の終わりとほぼ時期を同じくして、浮世絵は姿を消していく。新聞の普及により、浮き世を写す方法は、白黒の挿絵や、写真に変わっていた。

3期に分けて行われたこの浮世絵の展覧会で、その歴史を辿ながら、思ったことは、江戸時代の中期から明治にかけて、この国のことを知るには、浮世絵ほど、多くのことを伝えるものはないだろう、ということだった。