2013年9月15日日曜日

ル・コルビュジエと20世紀美術(国立西洋美術館)

東京、上野の国立西洋美術館は、ル・コルビュジエが設計した建物で知られるが、そこで開催された、ル・コルビュジエの芸術家としての側面にフォーカスをあてた展覧会。

ル・コルビュジエは、午前中は絵画を描くなどの芸術家の活動に時間を使い、午後になると、設計事務所で建築の仕事を行った。その習慣は、修正変わらなかった。

ル・コルビュジエにとって、絵画とは、物の形を把握するために必要な活動で、その経験が、建築の分野にも活かされる、と自ら語っていた。

若いスイス人の建築家だったル・コルビュジエを、絵画の世界に引き込んだのは、1才年上のアメデ・オザンファンだった。

その時、ル・コルビュジエは、まだシャルル=エドゥアール・ジャンヌレという名前だった。後年、ル・コルビュジエと名乗ることになるが、実は、そう名付けたのは、このオザンファンだった。

オザンファンのカラフを描いた作品を見ると、平面的で、陰翳をまるでつけないその彩色法などに、20世紀初頭のパリの芸術の流れが感じられる。

1918年にル・コルビュジエが、コーヒーポットやワイン、テーブルなどを描いた作品は、実に簡潔に、しかし対象を忠実に描いている。

やがてル・コルビュジエが建築家として有名になるにつれ、二人の関係は疎遠なものになっていった。

ル・コルビュジエは、フェルナン・レジェなどの画家たちと親しくなっていく。そして、描く絵画も、レジェ風の作品が増えていく。

また、素朴派で知られるアンドレ・ボーシャンの絵画に早くから目を付けて、その名が知られる前から、絵画を購入し、自らが主宰する雑誌『レスプリ/ヌーヴォー』でも紹介し、自宅の寝室に飾っていた。

会場には、ル・コルビュジエ財団が所有するサン=ブリスの嵐、という作品が展示されていた。その絵を見る限り、ル・コルビュジエ自身は、直接は、ボーシャンの作風に影響は受けなかったようだ。

戦後、日本がフランスの没収されていた松方コレクションを返還されることになり、そのコレクションを展示する美術館の設計の依頼がル・コルビュジエの元に来る。

ル・コルビュジエは、自分が暖めていた無限美術館というコンセプトを実現すべく、その設計に取り組んだ。

会場には、その設計の模型が置かれていたが、今日、私たちが目にする美術館とは少し違っている。ル・コルビュジエは、一度だけ現地を訪れ、その後は自分のスタジオで設計していたようで、彼の設計は、実際の敷地のサイズを越えてしまっていた。

ル・コルビュジエは、建築や絵画といった様々な要素が、芸術として統合することを理想とし、自ら設計した建築に、タピスリーや壁画を組み合わせていた。

会場には、奇妙な鳥と牡牛、というタピスリーや、自らが設計した、インドのチャンディガールの高等裁判所に飾るタピスリーの習作などが展示されていた。

彼の頭の中には、ルネサンス期におけるような、総合芸術のイメージを、現代の技術を使い、その社会環境の中で、実現したいという考えがあったのかもしれない。

これまでは、ル・コルビュジエは、建築家としてしか見ていなかったが、彼自身は、実際は、もっと大きな視点で、自分自身の活動を捉えていたということが、この展覧会から伺えた。

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