2013年9月23日月曜日

国宝 興福寺仏頭展(東京芸術大学大学美術館)

興福寺は、何度か訪れたことがある。この展覧会で展示された、興福寺仏頭も、ずいぶんと前だが、見た記憶がある。

この数奇な運命を辿ってきた仏頭は、会場の3階のやや奥まった場所の、高い所で、スポットライトを浴び、祀り上げられるように、展示されていた。

白鳳時代、天武天皇の治世14年、西暦で言えば685年に製作された、と考えられているこの仏頭は、あまりに多くのことを見てきすぎた。

謀反の疑いを受けて自殺した、蘇我倉山田石川麻呂の供養のために山田寺建てられ、その後、平重衡によって興福寺が焼き討ちにあった後に、復興を急ぐ興福寺の僧兵によって、山田寺より略奪された。

仏頭自体は、丸顔で、仏様というよりは、自分の未来を見つめている少年のように見える。蘇我倉山田石川麻呂の顔を映したのかもしれない。

その仏頭の見下ろす場所には、この展覧会のもう一つの目玉、同じくの国宝の十二神将立像が、それぞれの小さなブースに収まって展示されていた。13世紀、鎌倉時代に作られたもの。

来場者は、それぞれのブースの周りをぐるりと回り、すべての立像を360度鑑賞することができる。

仏や菩薩については、仏典でその外観が規定されていることがよくあるが、この十二神将についてはそうした記述は一切無く、製作者の意図で、どのような姿にも作ることができる。

直立する神像、体をくねらしている神像など、すべてが違ったポーズ。特に、伐折羅大将は、剣を振り上げ、見上げる人を睨みつけ威嚇している。迫力は満点。

同じ十二神将だが、東金堂の壁面に作られた板彫のものも展示されていた。こちらは、少し前の時代、11世紀の平安時代に製作された。

立像と同じ神将を比べて見ると、ポーズも表情も異なっている。作られた時代や作る人によって、解釈が違っていることがよくわかる。

興福寺は、法相宗の寺。インドの世親によってまとめられた唯識の思想を、玄奘三蔵の弟子、慈恩大師が法相宗として体系化した。その教えを、遣唐使として唐を訪れた、玄昉という不思議な僧侶が日本に持ち帰り、興福寺に伝えた。

唯識の思想では、この世はすべて人間の思想が生み出したもの、という考え方をしている。その唯識の思想を広めている寺が、美しい仏頭や十二神将像を大切に伝えているということは、何とも皮肉な感じがしないでもない。

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