2013年6月30日日曜日

ファインバーグ・コレクション展(江戸東京博物館)江戸絵画の奇跡

研究者同士であるという、アメリカのファインバーグ夫妻が、1970年代以降に収集した、江戸絵画を中心としたコレクションを展示した展覧会。

最初のコーナーは琳派。

会場の入り口で、俵屋宗達の虎図が、来場者を迎える。ユーモラスな虎だが、よくみると、細かい毛の一本一本を丹念に描いている部分もある。宗達の、軽さと繊細さを併せ持った特徴が、よく表れている。

鈴木其一の山並図小襖。遠くまで連なる山並みを、金箔と緑色の巧みなバランスで描いた、小品だが、琳派らしさが発揮された、素晴らしい作品。

続いては、文人画のコーナー。江戸時代の町人達は、明代や清代の中国で盛んになった文人の文化に大きな憧れを抱いていた。

池大雅の豊年多祥図。中国の古代の詩集、詩経の中の豊年という詩に描かれている世界を、3枚の掛け軸に仕立てたもの。農作物が豊作だったことを、天に感謝する、という内容の詩。大雅の描く世界は、薄い緑色が基調で、ほのぼのとした雰囲気が漂っており、まさしく理想郷のよう。

与謝蕪村の寒林山水図屏風。文人画には珍しく、金箔に黒い墨一色だけで描かれている。山奥にひっそりと佇む山荘に戻る、一人の文人の姿を、雄大な景色の中に、ポツンと描き、まさしく、文人の理想とする世界観が、そこには描かれている。

岡田米山人の蘭亭曲水図。王羲之の蘭亭序の主題による絵画だが、線と淡いパステル調の色を基調とした独特な世界観で、描かれている。

続いては、円山応挙に始まり、明治の竹内栖鳳にまで連なる京都代表する流派の円山四条派のコーナー。

円山応挙は、狩野派のもとで絵を学んでいたが、その形式的な手法に飽き足らず、より対象そのものをそのまま描く、写生を極めるようになっていった。江戸時代が成熟するに連れて、合理的な精神が生まれた来たのだろう。

布地に描かれた、鯉亀図風炉先屛風。応挙の得意な鯉。水の中を泳ぐ鯉を、その鱗の一枚一枚まで描いている。神業、ということばが、この絵にはピッタリする。

江戸時代の絵画ではないが、竹内栖鳳の死んだ鶴図。ヨーロッパを訪れて、西洋絵画に大きな影響を受けた栖鳳は、静物画の画題としてよく取り上げられる、吊るされた野鳥をヒントに、この絵を描いた。

おそらく、死んだ鶴をこのように吊るすことは、実際はないだろう。栖鳳らしい、ユーモアも感じられる。しかし、その技術力には、ただただ舌を巻くばかり。

4つ目のコーナーは、奇想派。まず、狩野山雪の山水画の屏風絵が、目に飛び込んできた。

遠くに高い山々が見え、湖の湖畔に、大きな屋敷が描かれている。題材は、伝統的な山水画だが、その表現はまさに奇想。岩山の表現などは、まるで、別な星の光景のように見え、SF映画の1シーンのようだ。

伊藤若冲、曾我蕭白などの作品もあった。長沢蘆雪の3幅の拾得・一笑・布袋図は、真ん中に、師匠の応挙譲りの愛くるしい子犬を挟んで、左に拾得、右に布袋を描いている。水墨画は、書の延長、といわれるが、それを証明するような、見事な筆さばきを楽しめる。

そして、最後のコーナーは、浮世絵。いわゆる版画の浮世絵ではなく、浮き世を描いた、という意味合いだが、菱川師宣、歌川豊国、葛飾北斎の絵などが並んでいた。

ファインバーグ夫妻は、日本語はほとんど分からないという。しかし、だからこそ、偏見に捕われず、ただ自分たちが美しいと感じた作品のみを購入してきたのだろう。

そのコレクションの質の高さは、この展覧会場を訪れた人は、誰でも納得するだろう。

華麗なるインド(三鷹市美術ギャラリー)

インドのミニチュアール、細密画は、11〜13世紀に描かれた仏教経典に付けれた挿画が、その起源であるという。

展示されていた、13世紀のネパールの仏教挿画は、現代から見ると、稚拙で素朴だが、当時の人々は、そうした挿画の中に、自らが信じる仏の姿を見たのだろう。

イスラム教のムガール帝国が成立すると、その強力な権力の元で、美しく華麗なミニチュアールが描かれるようになった。

そこに描かれたのは、アウランゼーブらのムガル帝国の皇帝たちやその美しい后、あるいは、ヒンドゥー教のクリシュナなどの主要な神々だった。

また、ジャイプールなどのラジャスタン地方でも、その地を収めるマハラジャの元で、独自のスタイルを持つミニチュアールが描かれるようになった。

こちらも、マハラジャの狩りの様子、美しい宮廷の女性、などが描かれているが、中には、不思議なテーマの絵もある。

盲目の女性が、花火をしている、というミニチュアール。何かの教訓か、宗教の教えを表現しているのだろうか?よくわからないが、その美しいイメージは、心に深い印象を刻む。

画家達は、優秀である画家ほど、他の地方のマハラジャに奪われることを恐れ、マハラジャによって、その手首を切られたという。まさに、手首を切られ、その手首から、ポタポタと血が流れる絵が展示されていた。

インドの画家たちにとって、絵を描くことは、文字通り、命がけだった。

18世紀後半から19世紀にかけて、カングラ派という流派の画家によって描かれたといわれる、恋人を想う女、という細密画。一人の女性が、両手を頭の上に掲げ、恋人を想って、踊りを踊っている。

私がかつて目にした絵の中でも、最も美しい絵の一つだろう。

展示の後半は、インドの染物や織物などの展示だった。

インドの染物は、沖縄の紅型や、京都の友禅染の元になった。俗にインド更紗といわれるインドの繊維製品は、日本に大きな影響を与えた。

また、インドの木綿製品は、ヨーロッパ人を虜にし、その複製を作るための努力の過程で、イギリスの産業革命が起こったといわれている。

会場には、色鮮やかで、様々な素材、様々な文様の繊維製品が展示されていた。

将来は、中国を追い抜いて、世界最大の経済大国になるといわれているインドだが、その背景には、長い年月の中で蓄積されてきた、そうした高い技術力がある。

2013年6月29日土曜日

写真のエステ 五つのエレメント(東京都写真美術館)

東京都写真美術館の平成25年度のコレクション展が、3回に分けて行われる。第1回目は、五つのエレメント、と題して行われた。

この展覧会のパンフレットに書かれていた、次の文章を見て驚いた。”(29,000展の作品の中から)企画者である私が感じている写真の美の在り方を選び取り、五つのエレメントに分けて紹介します。”

展覧会のパンフレットにおいて、これほど企画者が全面に出ることは珍しい。通常は、展示作品の価値を語るのが普通だが。この展覧会の企画者は、自分のことを、神のようにでも考えているようだ。

さて、その小さな施設の神による展示内容とは、いかがなものだったのか。

会場は、この展覧会のタイトル通り、五つのコーナーに分けて展示されていた。

最初のコーナーは、光。光、そして暗闇のコントラストを上手く使った作品が展示されていた。

川内倫子の作品が、区切られた一角の白い壁に、一見無造作な配置で展示されていた。写真は、写す人間の視点、感性によって、いかに大きな違いができるのか、ということを、実によく表している。

次のコーナーは、反映。写真自体が、被写体を写す物だが、被写体の中に、別な風景画が反射していると、さらに奥行きを感じさせる。

アンリ・カルティエ=ブレッソンのサン・ラザール駅裏という作品では、地上にできた水たまりに、風景画鮮やかに反射している。

続いての3番目のコーナーは、表層。写真は、絵画では表現に限界のある、物の表面の細かい部分も、克明に写し取ることができる。

アンセル・アダムスのヨセミテ渓谷を撮影した作品群。何の説明も、解説も入らない。自然の造形が、そのままこちらに迫ってくる。それは、言葉で説明しても仕切れないだろう。

4つ目のコーナーは、喪失感。雑賀雄二が軍艦島の様子を写した作品は、写真というメディアが持っている、記録という側面と、同時に、単なる記録ではない、いわゆるノスタルジーという感情を心に生み出す、不思議な効果を思い起こさせる。

クリスチャン・ボルタンスキーのシャス高等学校という作品。パリに暮らしていた頃の、高校時代の同級生たちの顔のアップを、わざとピンぼけにしてプリントしたもの。壁一面に展示されていた。

彼らは、その後、ナチスによるユダヤ人狩りを経験することになるのだが、ボルタンスキーは、彼らのその後の消息を全く知らないという。

最後のコーナーは、参照。森村泰昌がピカソやチェに扮した写真と、そのオリジナルの作品が並べて展示されていた。

文章、絵画、などの分野でも、過去の作品を参照、引用することはある。写真において、参照とは、どのようなことを意味するのか。あるいは、どんなことができるのか。

コレクション展の2回目は、写真作品のつくりかた、と題して開催されるようだ。

大谷コレクション展(ニューオータニ美術館)

ニューオータニ美術館で開かれた大谷コレクション展では、現代フランスの画家や、川合玉堂や竹内栖鳳などの幅広い作品を楽しむことができた。

アンドレ・コボタの赤いバラのブーケなどの4つの作品。鮮やかな色の絵の具が、極端なくらいの厚塗りで、キャンバスいっぱいに敷きつめられている。一目見た瞬間に、強烈な印象を心に残す。

惜しくも昨年に亡くなったコボタは、同じような圧塗りの画法のスーチンに大きな影響を受けたという。しかし、その色使いは、スーチンよりは、もっと明るい。

日本の武道にも、親しみを感じており、富士山を描いた作品もあるという。

1927年生まれのクロード・ワイズバッシュ。オークルと黒だけを使って、躍動感のある作品を描いている。肖像という作品は、男性の顔を描いているが、まるで、顔を激しく左右に振っているように、わざとぼかして描いている。

どの技法は、写真のピンボケをそのまま表現したと言われる、ベーコンの肖像画を連想させる。

ブラマンクの、橋のある風景、などの4つの小品が、並べて展示されていた。久し振りに、ブラマンクの作品を見た。

花束という作品では、灰色と暗い青で、花束を描いている。赤や黄色と言った、鮮やかな色を全く使わず、花束を描くあたりが、実にブラマンクらしい。

竹内栖鳳の富嶽(夏)。富士山の姿を、さっと描いた小品で、描かれた時期もわからない。山頂の稜線を、黒い線で、その先のなだらかな山線を、薄いピンクで描いている。

その作品に対するように、反対側に展示されていた、川合玉堂の、松浦漁家、というこちらも小品。栖鳳ほど簡素ではないが、こちらも最低限の線と色で、海沿いの集落を描いている。

丹念に描かれた大作も見応えがあるが、こうした小品も、味わいがあって良い。

2013年6月23日日曜日

特集 墨蹟(鎌倉国宝館)

鎌倉国宝館にて、おなじ鎌倉にある常磐山文庫の70周年を記念して、墨蹟という名の名品展が開かれた。

無準師範は、南宋時代の禅の高僧で、日本に来日した円爾、無学祖元ら多くの弟子を育てたことで知られ、そのため、日本でもその名がよく知られている。

大きな字で、2文字、縦に、巡堂、と書かれている。これから、無準師範が、堂を巡るぞ、という自ら書いた知らせの意味があるらしい。

最初の巡、という字に比べて、下の堂は、太く、どっしりと書かれている。堂という修行の場所に対する、無準師範の思いが、よく表れている。

この書は、弟子を通じて日本にもたらされ、やがて、禅とともに発展した茶の世界において、茶席に据えられる掛軸として、珍重されるようになった。

無準師範の弟子にあたり、鎌倉の建長寺の開祖となった蘭渓道隆の書。執権となったばかりの、北条時宗の法会において、治世の安泰を祈願したもの。

本来、禅とは、修行する個人の悟りを目指すべきはずのものだが、その影響が広まるに連れて、時の権力との結びつきを強めていった。

とくに、日本にとっては、禅は単なる宗教ではなく、先進国家である宋や元の文化を象徴する存在だった。

円覚寺の開祖となった無学祖元の墨蹟。旧暦の重陽の節句に訪れた友人をもてなした時に書いたもの。無学祖元は、南宋の滅亡後、日本に帰化した。

一字一字が、丁寧に、端整に書かれており、書いた人物の人柄が、よく伝わってくる。

時代が少し下り、千利休が、知人に当てた手紙。横長で茶室には飾りにくい、馮子振の墨蹟を切った方が良いか相談され、それに対して、切らずにそのままにするようにアドバイスしている。

その馮子振の墨蹟も、あわせて展示されていた。今日まで伝わる茶というものが、その創成期においては、いかに千利休という人物の影響力が大きかったかが伺える。

ちょうど、この時期、富士山が世界遺産に登録され、鎌倉は、その選からもれたことが、ニュースになっていた。

しかし、この日の鎌倉は、大勢の人がおしかけ、人気の江ノ電は、鎌倉駅で30分待ちの行列ができていた。

2013年6月22日土曜日

北斎と暁斎 奇想の漫画(太田記念美術館)

浮世絵ファンにとっては、聖地とも言える、浮世絵太田記念美術館で、北斎と暁斎 奇想の漫画、という名の展覧会が開催された。

葛飾北斎と河鍋暁斎という、浮世絵師の中でも、とりわけ個性的な二人を取り上げ、その奇想から生まれた、作品の数々を紹介するもの。

海外に、この二人が初めて紹介された頃は、北斎と暁斎は師弟関係にあったと紹介されたという。

暁斎は北斎を尊敬し、一目を置いていたが、直接の師弟関係にはなかった。しかし、この展覧会を見ると、西欧人に、そのように誤解されるのも、無理のないようにも思えた。

二人の共通する要素の一つは、その躍動感だろう。歌麿や広重は、静的なイメージがあるが、北斎の絵にも、暁斎の絵にも、まさにその瞬間を切り取ったような躍動感が、絵の中に感じられる。

北斎漫画の、人物の描写を見ると、どのようなポーズ、表情を描けば、動きのある絵が描けるのか、北斎が研究し尽くし、完全に自分のものにしていたことがわかる。

一方の暁斎も、『暁斎鈍画』という『北斎漫画』を多分に意識した画集の中で、同じようにいろいろな人々の動きのスケッチを描いている。

暁斎の絵には、ガイコツがよく登場する。それは、ガイコツそのものの、絵としての奇抜さ、面白さもあるが、人間を描く際に、その骨格を意識していた、という背景もある。

暁斎の生きた時代は、幕末から明治にかけての開国の時代でもあった。ヨーロッパの絵画技法の影響もあったのかもしれない。

その二人の肉体表現へのこだわりは、フランシス・ベーコンが、人体写真を多く撮影していた、ということを思い出させた。

北斎と暁斎の奇想ぶりを最もよく表したのが、妖怪絵だろう。

ハッキリ言って、二人の描く妖怪は、決して怖くは亡い。むしろ、ユーモラスで、思わず頬が緩んでしまう。

暁斎の有名な百鬼画談は、今回初めて目にすることができた。伝統的な百鬼画談の伝統を踏まえつつ、個々の要素に、暁斎らしさが、ふんだんに盛り込まれている。

北斎も暁斎も、こうした奇想の絵ばかりを書いていたわけではない。いわゆる正統的な多くの作品も描いている。

世界的に見ても、これほど多様な絵画世界を築き上げた画家は、他にあまり見当たらない。

私は、北斎こそが、世界で最も偉大な画家だと思っているが、その思いを、また強くした展覧会であった。

ユトリロ展(日本橋高島屋)

何故か、昔から、ユトリロの絵が好きだった。

ユトリロは、決して、美術史にその名が燦然と輝くような画家ではない。

それでも、ベル・エポックの時代をテーマにした展覧会においては、必ず何点かの作品を目にするという、不思議な画家だ。

日本橋高島屋で開催された展覧会で、ユトリロの作品を、70点ほど楽しむことができた。

どの絵を見ても、いわゆる、ユトリロらしい絵だった。

ユトリロは、晩年こそ、体力の衰えからかやや雑になったが、ほぼ生涯を通じて、同じような風景を、同じような技法で描き続けた。

パリの街並を描くことが好きだった、ということもあるだろうが、ユトリロの保護者が、それを望んだ、という背景もあった。

幼い頃は、母親のシュザンヌ・ヴァラドンと、ユトリロとは血のつながりのない父によって、お金を得る為に、ユトリロは絵を書かされていた。

自身が結婚してからも、その妻によって、やはり生活の為に、絵を書くように強制されていた。

しかし、そうして書かれた絵は、まるで時間が止まったか、ゆっくりと進んでいるような、不思議な雰囲気を漂わせる、優しい絵に仕上がっている。

小さな聖体拝受者、トルシー=アン=ヴァロアの教会(エヌ県)、という作品では、白くて小さな、どこにでもあるような教会が描かれている。

白といっても、入り口付近の壁の白と、時計のある尖塔部分の白は、同じ白ではない。微妙な絵の具の混ぜ具合で、描き分けられている。

よくよく見ると、その絵の中には、一つとして、同じ白で描かれた教会の外壁はない。どれも、微妙な違いを見せている。

この世に、まったく同じ物など、何一つない、とユトリロは、この絵を通して語っているようだ。

父親が誰か分からず生まれ、病弱で気弱であったことから、絵描きにさせられた少年は、意外にも、72才で亡くなるまで、絶えず絵を描き続け、その作品は6,000点を超えるという。

この展覧会で、私は、どうしてこれほど、この画家の絵を愛するのか、その訳が、少しは分かったような気がした。

2013年6月16日日曜日

5 Rooms 彫刻/オブジェ/立体(川村記念美術館)

千葉の佐倉にある川村記念美術館。2013年度は、普段は展示していない作品を中心に、3期に分けて収蔵品展が行われる。

その第1回目は、5 Rooms 彫刻/オブジェ/立体、と題して、文字通り、彫刻やオブジェを、普段は企画展用に使われるスペースを5つの部屋に区切って、展示を行った。

ロダンの作品が置かれたRoom2を中心に、4つに部屋が取り巻いており、どの部屋にいくにも、必ずその部屋を通らなければならない、という凝った構成だった。

全体の展示の中心とも言えるロダンの作品は、それほど大きくはないが、3人の人物が、絡み合って、一見すると、丸い一つの物質のように見える、という興味深いもの。彫刻とは何か、人体とは何か、とその部屋を通るたびに問いかけてくる。

Room3は、マン・レイの”だまし卵”という作品が、圧倒的な存在感を誇っている。ガチョウの大きな卵の写真の上に、それを取り囲むように、便座のオブジェが置かれている。便座が立体的なため、目の錯覚で、卵も立体的に見えるが、近づいてみると、それが写真であることがわかる。

その他にも、身の回りの品々を使ったマン・レイのオブジェが何点か置かれている。人を喰ったように思わせて、普段は見慣れているものが、アートと呼ばれただけで、違うものように見えてしまう、というマン・レイの魔術が、その部屋には充満していた。

Room4は、カルダーのモビール作品が中心。作品にできるだけ近づいて、息を思いっきり吹きかける。すると、微妙に、そのモビールが動いた。何となく、自分と作品の距離が近づいた気がした。

彫刻やオブジェは、どの作品も、物である、というだけで、絵画とはまるで違った存在感を感じさせる。

その周りを、ぐるぐると回ってみると、その一瞬一瞬で、作品の見え方が違ってくる。

自分の身の回りのあるものが、どうしてアート作品のように見えないのか。その一方で、そうしたアート作品が感じさせる、物としての不自然さ、陳腐さは、どこから来るのか。

美術館を出たあとに迎えてくれる、白鳥がたわむれる大きな噴水のある池と、その周りにある森の緑に囲まれながら、そんな余計なことごとを、考えさせられた。

近代の日本画展(五島美術館)

五島美術館が所有する日本近代絵画のうち、およそ50点ほどが展示された展覧会。

狩野芳崖、橋本雅邦、竹内栖鳳、横山大観、下村観山、川合玉堂、上村松園、鏑木清方、小林古径、川端龍子など。

中でも、横山大観が富士を描いた、7点の作品は、第2展示室にまとめて展示されていた。折しも、富士山が世界遺産に登録されることが内定した、ということが明らかになってから間もなくのことであった。

そのなかの、"日本心神"という富士山の図は、縦1.2メートル、横1.8メートルの大作。富士の山頂付近を、墨の黒と余白だけで表現し、背景の空には、薄く金彩を施している。

この絵が書かれたのは、昭和15年。日本は、すでに中国との戦争状態にあり、アメリカとの開戦も間近だった。

画家の真意は、今となっては知るべくもないが、ただ単純に、美しいと感じられない、複雑な背景が、この絵にはある。

川端龍子の"富貴盤"。縦80センチ、横1メートルの画面いっぱいに、白い牡丹の花が2輪描かれている。実物よりも明らかに大きい。花びらの質感が、白の微妙な表現で、見事に描かれている。

この絵が描かれたのは、昭和21年。時代の重しが外れたような、そんな開放感を感じさせる、ダイナミックな絵。日本画という枠を、完全に飛び越してしまっている。

牡丹、あるいは花、という生き物、あるいは物、が秘めている無限のような、得体の知れない物を感じさせる。ジョージア・オキーフの一連の作品を連想させる。

小茂田青樹の"緑雨"。画面一面が、文字通り緑色に染まっている。芭蕉の葉が画面の上部に生い茂り、下の地面には、一匹の小さな蛙が、うれしそうに空を見上げている。雨の雫を、白く細い真っすぐな線で描いているのが新鮮。

絵画の他に、中国の清時代の硯、明時代の墨なども合わせて展示されていた。

弘法は筆を選ばず、という言葉があるが、多くの絵師たちは、硯や墨を選んできた。絵というものが、画家の技術だけで成立しているのではないことが、そうした展示物から伺えて、興味深かった。

2013年6月15日土曜日

クリムト 黄金の騎士を巡る物語(宇都宮美術館)

愛知県美術館が収蔵する、クリムトの”人生は戦いなり(黄金の騎士)”を中心に、クリムトの生涯を、世紀末ウィーン芸術のコンテキストの中に位置付けた、宇都宮美術館での展覧会。

20才前後、1880年頃のクリムトの油絵の小品やデッサン。人物像や風景画など。まだ自分の画風を模索している時期で、後年の、エロスを漂わせる妖艶な女性像は、そこには見られない。

クリムトは、30才頃から、クノップフや前ラファエロ派の影響を受けながら、独自の絵画世界を作り上げていった。

ウィーン分離派展のポスター。第1回目はクリムト自身が担当し、その後は、アルフレート・ロラーらが担当した。その斬新なデザインは、今日でも決して古くない。

ウィーン分離派という芸術活動が、決して絵画だけに止まるものではなく、デザインや工芸も含めた、総合芸術運動だった、ということが、それらのポスターからもうかがえる。

マッキントッシュの有名な、背もたれの長いイスが展示されていた。どうしてマッキントッシュがここに?

マッキントッシュのイスは、分離派展に展示され、ウィーン分離派のデザイナー達に大きな影響を与えたという。世紀末のヨーロッパに共通して流れていた、時代精神のようなものが感じられる。

そして、この展覧会の目玉である、”人生は戦いなり(黄金の騎士)”。黒い馬に、黄金の鎧をまとった騎士がまたがり、直立不動のポーズを取っている。森をイメージさせる背景の緑色の中にも、たくさんの金粉がちりばめれている。

クリムトは、この絵を描いたとき、自らの絵が発表のたびにスキャンダルを巻き起こす、という状況に置かれていた。この騎士は、そうした時代に立ち向かおうとする、自分自身を描いた、と言われている。

この絵は、はじめて実業家であった、哲学者のヴィットゲンシュタインの父親が所有していたという。愛知美術館は、トヨタ自動車からの寄付金で、この絵をおよそ17億円で購入した。

ヨーゼフ・ホフマンらが主導したウィーン工房。後半は、そのウィーン工房の家具や食器などのインテリア作品が数多く展示されていた。

ホフマンのデザインによる、シンプルだが細かい部分に装飾を加えたイス、バウハウスを思わせる斬新なテーブルウェアなど。

クリムトは、ウィーン工房と共同で、部屋の内装をその金ピカの煌びやかな絵で飾った。

”ストックレー・フリーズ”は、そうした作品の一つ。ウィーンの実業家ストックレーのためにウィーン工房が建てた邸宅の食堂の壁を飾っていた。会場には、原寸大のコピーのパネルが展示されていた。世界中で、最も美しい食堂の一つだろう。

その横に長い絵は、琳派に代表される、日本の屏風絵を参考にした、といわれている。

会場には、その琳派の屏風絵や、日本から大量に輸出され、ヨーロッパ中にひろまったといわれる、衣料品に絵柄をプリントする、型紙などが展示されていた。

クリムトは、1918年1月に自宅で倒れたまま、死亡した。その時期は、奇しくも、第1次世界大戦の終わりと重なっている。

クリムトの死は、一人の芸術家の死、というものを越えて、多きな一つの時代の終わりを象徴している。

2013年6月9日日曜日

ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア(Bunkamuraザ・ミュージアム)

ルベーンスの、大きな影響を受けたイタリアへの旅と、その後、帰国してから始めたアントループの工房での活動に焦点をあてた展覧会。

ルーベンスは、1600年から1608年まで、イタリアのマントヴァ公のゴンザーガ家の宮廷画家を務め、その間に、イタリア中の様々な芸術作品に触れ、大きな影響を受けた。

”ロムルスとレムスの発見”は、1612年頃、イタリアから帰国してから書かれた作品だが、ローマのある枢機卿の注文で製作された。帰国後も、イタリアとの関係はずっと続いていた。この展覧会での唯一の大作で、ローマの建国神話を描いたもの。

帰国したルーベンスは、アントワープにイタリア風の建物の工房を建て、本格的に活動を開始した。弟子には、徹底的に自分の技法を真似させ、多くの絵画を大量に製作するシステムを作り上げた。

ベラスケスの仕えた、スペインのフェリペ4世は、ルーベンスの大ファンだった。そのフェリペ4世の注文による連作のための油彩スケッチ6点。

30cm四方の小さな作品。素早いタッチで、全体の構図、人物の動き、色合いなどを描いている。ルーベンスの特徴である、登場人物の躍動感が感じられるポーズが、この段階ですでに完成されている。

当時は、工房内での分業だけでなく、個別の画題に付いては、そのスペシャリストとの共作も行われていた。

”熊狩り”という作品では、人物をルーベンス工房が描き、動物達は、動物画を得意とするフランス・スネイデルスとその工房が描いている。

ルーベンスの行きた時代においては、まだ絵画は工房によって、共同作業で製作され、今日のような、個人の芸術家が、アトリエで一人で描く、というスタイルではなかった。

ヴァン・ダイク、ヨルダーンスといった巨匠も、独立した画家として活躍しながら、ルーベンス工房でも一時期活動していたという。その二人の作品も何点か展示されていた。

写真がない当時において、版画は、絵画を広めるための有力な手段だった。有名な”キリスト降架”を、ルーベンスが自らの監督の元で作成させた版画作品。左右が逆に描かれている。

まだ著作権の確立してない当時にあっては、勝手に版画を作成されることも、よくあったという。

ルーベンスの生きた時代においては、絵画というものも、それを描く画家というものも、現代とはかなり違った状況にあったということが、この展覧会を通じて垣間見えた。

クラーク・コレクション展(三菱一号館美術館)

展示の内容は、ルノワールが中心を占めていたが、他にも、コロー、ミレー、ピサロ、モネ、ドガなど、印象派を中心に、18世紀後半のフランス絵画が70点ほど。

ピサロの”ルーアンの港、材木の積み下し”と”ボン・ヌフから見たルーブル”。ピサロにしては、横90cmという大作。

ピサロというと、地上の目線から描く絵が多いイメージがあったが、この2点は、高い場所から、風景を俯瞰している。空気のゆらぎを感じさせるように、工夫をこらして描かれている。

ジャン=レオン・ジェロームの”蛇使い”と”奴隷市場”。いわゆるサロンの画家。世界中を旅した経験を元に、イスラム世界のエキゾチックさを、ヨーロッパの正統的な油絵の手法で描いている。

”蛇使い”では、美しいイズミックタイルが貼りつめられた部屋で、少年がヘビを扱っている。イズミックタイルはトルコ、蛇使いは、エジプトで見たものを組み合わせた、明らかなフィクション。しかし、描かれている絵は、美しい。

そして、ルノワールは、人物画、風景画、静物画と多様なジャンルにわたる、20点ほどが展示されていた。

”劇場の桟敷席(音楽会にて)”は、いかにもルノワールらしい人物画。音楽という聴覚、画面に描かれた花束が嗅覚を、そして、黒服に身を包んだ美しい女性が視覚を、それぞれ意識させる。

”タマネギ”という静物画では、あまり描かれることのない題材を取り上げている。タマネギの皮の、金色に似た色合いが、赤系の色を上手く使って描かれている。こんな色のタマネギが本当に存在したら、飛ぶように売れていくに違いない。

ロバート・スターリング・クラークという人物は、19世紀末にニューヨークの裕福な家庭に生まれ、弁護士を務めていたが、莫大な遺産を得てから、パリに居を移し、そこで多くの美術品を購入した。

第1次大戦後にニューヨークに戻り、世界恐慌の際には、暴落した美術市場で多くの名品を買い漁ったという。

美術品を後世に伝えるという点において、コレクターの存在は大きな意味を持っている。遺産を得て、多くの美術品を買い漁る、というのは、コレクターの1つのパターンであり、そうした存在のお陰で、今日、美術品を楽むことができるのも、1つの事実だ。

2013年6月8日土曜日

中村好文展 小屋においでよ!(ギャラリー間)

中村好文氏には大変失礼だが、始めは、この展覧会に行く予定は、全くなかった。

ギャラリー間で行われる展覧会は、だいたい足を運んでいるが、今回は、パスしようと思っていた。

しかし、たまたま、テレビでこの展覧会の会場の様子が放映されているのを見て、俄然、行きたい気持ちが強くなり、ついに、訪れることとなった。

3階の屋内の展示室には、小さな7つに小屋が作られ、その中に、中村が影響を受けた人物についての写真やパネルなどが展示されていた。

鴨長明、ル・コルビジェ、堀江謙一、ソロー、高村光太郎などのことは知っていたが、猪谷千春の父の猪谷六合雄のことや、立原道造が建築家を目指していたことなど、知らないこともあり、楽しめた。

3階の中庭には、この展覧会の為に作られた、一人で暮らせる20㎡ほどの、文字通りの小屋、Hanem Hutが展示されていた。キッチンやトイレも作られており、実際に暮らすこともできそうだ。屋根の上には、太陽光発電機や、風力発電機も取り付けられている。

4階には、その小屋についてのスケッチや、細かい設計図などが展示されていた。

さらに、中村のこれまでの作品の写真や、その建設の過程を記録した写真も展示されていた。楽しそうに小屋を立てている人々の笑顔。それは、小屋、という人間の体にあったサイズの建築だからこそ、なのかもしれない。

安藤忠雄、伊東豊男、隅研吾など、大きな建物を建てる建築家の業績をたどることも楽しいが、中村好文のような、人間の暖かさが感じられる、サイズの違った建物を建てる建築家のこうした展覧会も、それに劣らず十分に楽しめる。

美の響宴 京都画壇と神坂雪佳(日本橋高島屋)

かねてより、最後の琳派、といわれる神坂雪佳の作品を、まとめて鑑賞したいと思っていた。

これまでは、琳派や日本画の展覧会において、多くの展示の品の中に隠れた数点を見る、といった程度だった。

日本橋の高島屋で開催されたこの展覧会で、ようやく、その機会が訪れることになった。

四季草花図屏風。文字通り、琳派、といった趣の作品。蕨、蒲公英、燕子花などの草花が、1つ1つは繊細に克明に描かれ、それが、左右の金屏風の上に、独特の空間感覚で配置されている。

白梅図では、太い梅の木は、大雑把に、墨の滲みを活かして大胆に描き、枝先の梅はその雌しべまで克明に描く、といったこちらも琳派によく見られる技法が使われている。

人物画のコーナーでは、その神坂の作品は小品が一転のみ。

上村松園の待月。縁側で月の出を待つ一人の着物姿の女性。縁側の向こうを向いているので、顔は全く描かれていない。その着物の線と、団扇を持つ右手の細いてだけで、女性の美しさを見事に表してる。

竹内栖鳳の絵になる最初。天女のモデルとなるため、裸にならなければならない女性の、服を脱ぐ前の恥じらいの一瞬の表情を捉えている。表情といっても、その半分ほどは、顔の前に持っていった手によって、隠されている。隠れた部分を、見るものの想像に任せている。見事、という他に言葉はない。

再び、神坂に戻り、杜若図屏風。一面の金箔の屏風に、杜若だけが描かれているという、琳派の象徴ともいえる題材。神坂は、先人の作品の雰囲気を踏襲しつつ、少しだけ、自分の個性を主張している。

伊勢物語や平家物語に題材をとった、団扇絵や掛け軸。物語の一場面を、かろうして想像できる人物や風景だけを描き、他の余計なものは、一切削ぎ落として描いている。

人間の認識の方法を熟知しているからこそ、こうした作品が描ける。

神坂は、絵以外にも、工芸品や染め物のデザインを多く手がけていた。それがゆえに、長く、正統的な画家とは認められなかったという。

まったく、ばかげた話としかいう他はない。

神坂の作品を一度でも目にしたことがある人間に取っては、肩書きなどは、全く気にはならないだろう。

その作品こそが、神坂が一体何者だったのか、ということを、見事に語り得るのだ。

池袋モンパルナス(東京芸術劇場)

池袋は、戦前、多くの芸術家がアトリエを構えた、芸術家のたまり場だった。その様子は、池袋モンパルナス、と呼ばれていた。そうした芸樹家達に焦点を当てた展覧会。

1930年ごろの池袋は、長崎村という地名だった。村という名前からも想像できる通り、田中佐一郎や春日部たすくの描いた当時の長崎村は、見るからに田舎、という雰囲気だ。

1940年代になると、ヨーロッパの影響を受けて、日本にもシュールレアリズムの画家が現れる。植物の先端をクローズアップで描いた、寺田政明の”発芽”。明らかにアンリ・ルソーを真似した榑松正利の”夢”という作品などを見ると、池袋にも、多くのそうした画家がいたことがわかる。

展覧会の作品の中でも、とりわけ深い印象を残した、1945年4月の池袋への空襲直後の様子を描いた、吉井忠の”ひとびと”。焼け野原の風景に中で、命を落とした家族を抱いて、某然と佇む人々の姿を描いている。

人々の配置には、吉井の構図へのこだわりが見て取れる。この悲劇を、どのように描けば、その悲惨さが効果的に、見るものに伝わるか。吉井の格闘の跡が伺える。

かつて、川越の丸木美術館にある、原爆の図をみたことがあった。その印象は、強烈に心の中に残っている。その丸木夫妻も、かつて池袋にアトリエを構えていた。

丸木俊の”ロシア人形”は、愛くるしい絵画。丸木位里の”グランドキャニオン”は、世界的に有名な観光名所を、黒とピンクを中心とした大胆な色使いで描いている。

井上長三郎の”ドストエフスキーの庭”という作品。井上がロシアを訪れた際に、有名な作家の住まいの跡を訪ねた時のスケッチをもとに描いた作品。意外と小さな平屋の建物が、ロシアの緑の大地の中に、静かな雰囲気で描かれている。

ドストエフスキーの深遠で、重厚な小説世界からは想像できない程、その住まいは、穏やかだった。

池袋で、かつて暮らした経験のある人間にとって、このささやかな展覧会は、ノスタルジーをくすぐる、何とも甘酸っぱい、不思議な雰囲気の展覧会であった。

2013年6月2日日曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチ展 天才の肖像(東京都美術館)

レオナルドの名を冠する美術館を、開催することは自体は簡単だが、それが成功したといえるかどうかを判断するのは、難しい問題だ。

なにしろ、油絵の作品については、極端に作品数が少ない。レオナルドの油絵の作品が1枚でも展示されればいい方で、中には、真作が一枚も展示されない展覧会もある。

果たして、この展覧会はどうだったのか?

この展覧会には、音楽家の肖像、というレオナルドの作品が出品された。この作品は、ポーランドのクラクフにある白貂を抱く貴婦人、を描いていたのと同じ頃、ミラノのスフォルツァ家に使えていた時の作品と言われている。

しかし、この作品が、本当にレオナルドの作品かどうかということは、長い間の議論があり、19世紀の間は、真作とは考えていられなかったという。

一目見たとたんに、これは完成作ではないということが分かる。表情はレオナルドらしい、スフマートの技法で描かれており、その巻き毛の髪の毛は、初期の有名なキリストの洗礼の天使の巻き毛を思い起こさせる。

しかし、首から下の衣服は、単に色を塗っただけのように見え、赤い鮮やかな帽子も、簡単に陰翳だけを表現している。

絵の一番下に描かれた右手の手先、その握っている楽譜はしっかりと描かれている。楽譜には、音符まで描き込まれている。

この展覧会のもう一つの目玉は、アトレティコ手稿。レオナルドが残した膨大な手稿の一部のうち、22枚が展示された。

蔵書目録、デッサンのようなスケッチ、永久機関の設計図、飛行機の翼の設計図、など、様々な分野の手稿が、レオナルドの関心の高さを伺わせる。

その他、面白い展示内容としては、レオナルドの蔵書目録から、勿論レオナルドが実際に所有していたものでないが、同じ時代、あるいは後の時代に出版された本などが出展された。

東方見聞録、フィチィーノのプラトン神学、農政論、軍事論集など。そうした蔵書からも、レオナルドの多方面への感心の広さが見て取れる。

レオナルドのことを、ルネサンスの万能人と紹介することが多い。万能人だとは思わないが、当時の知的状況をその全身で吸収し、幅広い感心を、自らが特異とした絵画、という形式で表現しようとした希有の人物、であるということは、間違いがないようだ。

カリフォルニア・デザイン1930-1965(国立新美術館)

アメリカの西海岸は、20世紀なってから急速な発展を遂げた。

会場の入り口に、1922年と1930年に撮影された、ロサンゼルスの航空写真が展示されていた。1922年には、ただただ区画を区切る道路しか写っていないが、1930年には、町中を住宅が覆ってしまっている。

その何もなかった場所には、東海岸から多くのデザイナーが移り住んだ。彼らの多くは、ヨーロッパで建築やデザインを学んだが、西海岸の、過去のしがらみがなく、開放的な雰囲気や、広大な自然に触れ、それまでのヨーロッパのものとは一味違った、新しいデザインを生み出していった。

第二次世界大戦が始まってからは、ユダヤ系を中心に、ヨーロッパから避難してきた多くの芸術家や建築家なども、この地に住むようになり、カリフォルニアのデザインは、さらに進化を遂げるようになった。

セドリック・ギボンズがデザインしたアカデミー賞のオスカー賞。世界で最も知られたデザインの一つだろう。

アメリカ西海岸は、ハリウッドを中心とした映画産業の中心地だった。映画のセット、衣装、タイトル、ポスターなど、そこから様々なデザインが生まれ、世に広まっていった。

展示会場の所々には、デザイナー本人が、展示されている作品について語っているビデオが上映されていた。多くのデザイナーがまだ現役で活躍しているということが、カリフォルニアデザインが、まさに現代のデザインであることを証明している。

カリフォルニアデザインを象徴するイームズ。ビデオが上映されている場所には、イームズのチェが並べられていて、実際にその座り心地を体験することもできる。

壁が一面ガラス張りになっている開放的な住宅。こうした住宅は、ヨーロッパやアジアでは生まれなかった。多くの開放的な土地があり、しかも、そうしたガラスを生み出せる工業力があるアメリカ、しかも西海岸でこそ相応しい。

オーストリアから移住した建築家のシドラーが、ヨーロッパのモダンな建築をもとに、西海岸の環境にあった建築を生み出し、リチャード・ノイトラらがそれをさらに発展させていった。この二人は、フランク・ロイド・ライトのもとで働いていたことがあった。

カリフォルニアには、多くの日系人が住んでいた。ルース・アサワは、そうした日系人の一人。強制拉致などの不幸な経験を経ながらも、独自のデザインを生み出した。そのインテリアのような”彫刻”とよばれる作品は、レースをたらし、ところどころが膨らんでいて、不思議なリズム感を見るものに感じさせる。

アールヌーボーやバウハウスといった、ヨーロッパのデザインとは一味違ったカリフォルニアのデザインは、現在デザインへの影響という点では、明らかにヨーロッパのものよりも、私たちの生活に大きな影響を与えている。

2013年6月1日土曜日

国宝 大神社展(東京国立博物館)

厳島神社の古神宝。後白河、高倉、安徳という平家と縁のあった天皇が参拝して奉納した神宝の数々。

わずか7才で、壇ノ浦で入水した安徳天皇がまとったといわれる美しい錦の衣。

そうした品々は、神の宝として展示されているが、それらを作らせたのは、平清盛らの当時の政治を動かしていた人物だろう。紛れもない、この地上の人間の、泥臭い感情が、そうした品々から感じられる。

『古事記』や『日本書紀』の写本。いずれも鎌倉時代以降のもの。

そうした書物が書かれた8世紀のころは、ちょうど異国の言葉、漢字を、自分たちの言葉に当てはめていた最中だった。

江戸時代、17世紀に狩野派の絵師によって描かれた、豊国祭礼図屏風。屏風の左側には、丸くなって踊る民衆の姿が描かれている。その躍動感溢れた表現は、当時の京都の賑わいをよく表している。

室町時代頃に各地の神社に奉納された絵馬の数々。もとは本当に馬を奉納していたが、このころは、すでに絵馬になっていた。

今日の絵馬に比べれば、大きさも大きく、馬の絵も、一枚一枚ちゃんと描かれている。しかし、手綱が地面に打ち込まれた杭につなげられている、という共通の図柄で、すでにパターン化されていたようだ。

会場の最後には、神像が多く展示されていた。仏像の影響で盛んにつくられるようになった神像。しかし、どうしても、仏像と比べると、見劣りがしてしまう。

グレートジャーニー 人類の旅(国立科学博物館)

探検家、関野吉春が、1993年からあしかけ10年かけて行った、南米最南端から、人類が誕生したアフリカ東部までの長い旅の記録をもとに、国立科学博物館が、特別展を開催した。

その訪れた地域から、アマゾン、アンデス、アラスカ、ゴビ砂漠などの4つのを、熱帯雨林、高地、極北、乾燥地地帯を代表させるものとして、其の地に暮らす人々の様子を、ビデオや生活の道具を使って、会場に再現した。

いずれも、都会暮らしに馴れ切った人間から見ると、生きていくには過酷な環境に見える。しかし、関野が撮影した子供達の顔は、いずれもこちらを見て笑っている。

その文字通りの屈託のない笑顔からは、生物としての、人間としてのたくましさが、ひしひしと伝わってくる。

いずれの地域においても、人々は、命賭けで得た貴重な食料を、お互い分け合って、そして助け合って暮らしている。

そして、何よりも、すべての恩恵は、自然からもたらされている。その自然に対する恐れと畏敬の念を、つねに持ち合わせている。

その長い歴史のほとんどの時間を、人類はこのようにして暮らしてきた。お互いを憎しみ合い、自然からの略奪で生活している現代社会は、つい最近始まった、実に異常な状態であるということがよくわかる。

このような状態が、それほど長く続くとは、どう考えても、思われない。

会場の最後には、タンザニアで発見された、360万年前の猿人の家族が歩いていた足跡から、猿人の姿を復元した像が展示されていた。

私たちは、このままの状態を続けてすぐに滅びるか、この展覧会で紹介された人々のように暮らして、再び自然に帰るか、その2つの選択しかないように思われた。

唐時代の書、徹底解剖!!(書道博物館)

前々から、鴬台駅にほど近い、書道博物館には行ってみたいと、かねがね思っており、ようやく、その機会が訪れた。

企画展のテーマは、唐時代の書。少し前に行われた、王羲之関連の企画展に続いたものだ。

入り口を入ったすぐの所に、唐の四大家といわれる、欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿の拓本が並んでいた。

2階に上がると、期間によって展示品を変えているコーナーがあった。私が訪ねた時は、いずれも敦煌から出土した唐時代の仏教典が展示されていた。

細かい字で、一字一字丁寧に仏の言葉が書かれている。四角くきっちりと書かれているもの、線をやや長めに書いているもの。

それらの経典を書いた人間の名前は伝わっていないが、その文字を通じて、書いた人間の個性が伝わってくる。

同じく2階の特別展示室には、唐の大宗、高宗、玄宗という3人の皇帝の書が展示されていた。

唐の大宗は、名筆として名高い王羲之の蘭亭序の現本を、自らの墓に埋葬させたほど、書に関心が高かった。そのため、代々の皇帝も、よく書を書いた。

数ある展示品の中でも、とりわけ印象に残ったのは、顔真卿の自書告身帖。唐時代の高位の役人でもあった顔真卿が、皇太子の教育係への移動命令を、自ら綴ったもの。

これを書いたとき、顔真卿は72才だった。その4年後、政局に巻き込まれ、説得に向かった逆臣に囚われ、命を奪われることになる。その逆臣は、顔真卿という人物に一目を置き、寝返りを迫ったが、顔真卿は拒否した。

目の前に展示された、この自ら書いた辞令書を、単なる名書、としてだけ見ることはできない。そこには、どうしても、最後まで自分の意志を貫き通した一人の人間の生き様が見えてきてしまう。

この根岸という街中の、ラブホテルが立ち並ぶその一角に、ひっそりと佇む小さな博物館の中には、実に多くの物語が刻まれた、数々の書の名品が納められている。

アイヌ工芸ー祈りの文様(日本民芸館)

日本民芸館の2階の大展示室の壁一面に展示されていた、アイヌの衣服に編まれた文様の美しさ、不可思議さは、心に深い印象を刻んだ。

下地の上に、ある程度の幅を持った線で、四角形の文様が描かれている。その上に、細い線が刺繍のように、弧を描くように縫い込まれている。

その細い線は、その下の太い線をはみ出ることはない。その微妙な重なり具合が、単純な形でありながら、芳醇な印象を与える。それは、音楽のハーモニーのようだ。

現代人からみれば、それは、衣服としてしか見えない。しかし、アイヌの人々にとっては、そうした人間が作ったもの中にも、霊的なものが見えていたようだ。

その美しくも神秘的な模様には、霊的な力、呪術的な力が宿ると考えられていた。

その他の展示室には、アフリカ、アメリカ、アジア各地の民芸品が展示されていた。

中でも台湾の先住民族の、貝を使った衣服の展示が目を引きつけた。

貝を小さく加工して、ビーズのようにしてある。その小さいビーズを糸でつなぎ合わせ、それを衣服の上にビッシリと並べている。

ビーズの数は、あまりに多く、とても短時間で数えきれるものではない。無数としか言いようがない。一枚の衣服を作るのに、一体どれほどの時間がかかったのか、想像もできない。

それは、明らかに、単なる衣服ではない。アイヌの人々が、衣服に感じたものと、同じような気持ちを、この台湾の先住民族の人々も、感じていたにちがいない。

私には、そうした品々を、美術品や工芸品のようにしか、見ることはできない。この日ほど、私は、自分の心がいかに貧しいかを、痛感したことはなかった。